〈プロローグ〉
——ジャポネ国、トゥキョオ区、中央市街。
綺麗な満月の浮かんだ夜だが、誰もその精一杯の輝きに気付く者はいない。
街の光が絶え間なく空の星をかき消していき、偽りの白で地上を染め上げていく。
一人の少女が、帝都タワァの地上200メェトルに及ぶ屋上にいた。
右手を、展望窓のガラスにビッタリと張り付かせ、しきりに夜景を眺めている。
その口元から涎が垂れていることに、もちろん彼女は気づていない。
小さな体いっぱいに浴びせられる、外からの虹色の光。
少し汚れた白い服に、テアトルのごとく、移りゆく光の幻影。
夜景に混じって、彼女の目の前を横切るライトに包まれた大きく派手な気球船。
高層ビルの屋上に作られた電光掲示板。
時には、異国世界の文字のデザインで。
時には、どこかのファッション・モデルの破廉恥な写真もあった。
あるいは、その光は商店街に軒を連ねる飲み屋の提灯の色か。
あるいは、その光は人気のない裏路地にぽつねんと佇む誘蛾灯か。
あるいは——
何かに呆けてしまうと、つい左手で下唇を撫でつけてしまうのは彼女の悪い癖だが、腰から脚へと続くラインは綺麗で、何より、ボブカットヘアに彩られた、人形のような可愛らしい顔は誰もが焦がれてしまうものであった。
帝都タワァの屋上展望スペェス自体には観光客を招くような施しはされていない。
赤いコゥティングがはがれ、所々錆びついた鉄板が、その床を覆っている。
青色だったであろう、汚らしい見た目になってしまった双眼鏡、手すり。
残念ながら、女性の心をつかむ要素はどこにもない。
それでも少女だけは、この場所に入り浸っていた。
「またここにいたのね、みぃ」
少女は呼びかけに気付かないまま、視線を声の主に向けようとしない。
声の主は溜息をつきながら、もっと近くによって、
「みぃ!」
と、先ほどよりボリュゥムを若干上げた声で呼んだ。
少女は突然の大声に、ビクッと一瞬身体を震わせたが、月明かりと街明かりに照らされたその声の主の姿を見て、ホッと溜息をついた。
「ひぐち、さん?」
十代後半くらいだと思われる体つきにかかわらず、その口調はたどたどしい。
「そ。全く、あなた幼稚園児じゃないんだから、もっとしっかりしなさい。夜からの仕事、またおサボしたんでしょう」
諌める調子でヒグチがそう問い詰めると、少女は目を左右に大きく泳がせる。
ちなみに訓練とは、少女が履修していない小中高の教育とさほど変わらない。
やがて、ぽつりと呟いた。
「ごめんなさいでも、でも、まだかえってこないの」
支離滅裂な言葉だが、慣れたようにヒグチは言葉を返す。
「……あぁ。そんなに気になるの、彼の事」
その言葉に、少女は顔を少しほんのりと赤らめて、しばらく手をもじもじとさせていたが、小さくコクリ、と頷いた。
屋上から一望できる、この街の向こうの、さらに向こう。
そこに、少女の想う人はいる。
ヒグチは少女の行動の意味を何となくは理解してはいた。
いや、むしろ、彼女がこういう状態であるからこそ、分かりやす過ぎるくらいに その理由は判明していた。
街の光が織りなすアートを楽しもうと、ここに来ているわけではないことを。
少女がいつも身につけている灰色の手袋は、結露したガラスの水滴がそこに染み込み、濃い部分と薄い部分の二層を作っている。
見栄えは、傍から見ても最高に悪かった。
「あいたいよ。ねぇ、まだかえってこないの?」
ヒグチは悩む。
仕方なく、彼女は一つの錠剤を取り出す。
それとともに、ペットボトルの水を渡した。
「これ、なに?」
「これを飲んだら、合わせてあげる」
「……ホント?」
パッと、少女の目が輝く。
ヒグチは罪悪感に包まれながらも、それを勢いよく彼女の手から奪い去って、がぶ飲みする少女の影を見つめていた。
——ストン
ヒグチの目線から、突然少女の姿が消える。
ぼろぼろに壊れた床の上で、彼女は丸まって倒れていた。
微かに、スゥスゥという寝息が聞こえる。
「ごめんなさい、みぃ。貴女にはまだまだ、動いてもらわないといけないから……」
少女を抱き上げると、近くに会った黒いソファーの上にそっと寝かせる。
「ふう……」
彼女は先ほど少女がそうしていたように、展望窓の近くにより、スッと目を細める。
煌びやかで、艶めかしい、楽園のイミティション。
詩人的表現をするならば、それは瓦礫で出来た街の日陰に咲いた造花。
ヒグチは、そんな風景を楽しむことなく、遠くの方を眺めながら。
「これでよかったのよね……、ねぇ、……」
誰かの名前を、ポツリ、と呟いた。