〈一章〉(2)
——PM3:45
カスバの裏路地を通り抜けて、メディナのスークを、人ごみをよけながら歩いていきます。
まだまだ暑い時間帯は続きますが、先ほどよりは日が傾き、他の国から旅行に来ているみなさんの顔に映る汗も若干少なくなっている気がします。
え、元から住んでいる人は、って?
やっぱり順応しているんでしょう、汗なんかほとんど出さないのです。
あたしは旅行者ではありませんが、ここに住んでいた時期は短かったので、やっぱりこの高温の乾燥した気候には慣れません。雨ばっかりの雨季もじとじとしていて、カビも生えてくるので嫌ですが、乾季も汗は出るわ、肌はカサカサになるわで、嫌いです。
そうです、あたしはホントはここにまた戻ってくるのには大反対でしたが、あたしのお連れさんが、どうしてもここがいいということで説得されて、結局、しぶしぶ納得。
代わりに、あたしの我儘には結構付き合ってくれましたけどね。
「お、さっき大量に皿を買ってくれた嬢ちゃんじゃないか!」
猫背になってうだっていたあたしに横から声がかかります。
洵さんと買い物をした際、値の張ったカラフル陶器を手に入れたお店です。
店の名前はフランス語で書いてあるため正しく読めません。
「どうも、こんにちは」
「また、たくさん買ってくれよっ!」
あぁ、威勢のいい声だなぁ。なんて思ったり。
でも、もうちょっと会話しようと思ったら、彼は、店に訪れた旅行者のカップルに目を付けすぐにそちらと会話を始めてしまいました。
あたしは、そそくさと、その場を離れて、目的地へと向かいます。
商売人のみなさんも大変ですね。
——PM4:00
「ちょうどだべ」
「あたしの体内時計は完璧ですからね」
「……白猫って、結構、適当な嘘をつくねぃ」
「良い性格でしょう?」
「さ、依頼人がお待ちだ。急いでいくぞ」
ガン無視ですか。いい度胸をしています。
あたしは手鏡で、自分の『それ』が未だ変わっていないことを確かめると、彼の後についていきます。変わっていることなんて、この時刻ではありえないのですが、一応確認ということで。
屋敷の景観は、何と言うか、古き良き王宮を思い起こさせるような場所でした。
あ、王宮と言っても、チャオの生首がどんと乗っかっているイメージではないですよ。
それはモスクというもので、本来の王宮ではありません。内容は至って簡素です。
白い建物——おそらく、本館でしょう——の左右に、ウィンドタワという四角い塔が一本づつそびえたって本館と繋がっています。ウィンドタワーって言うのは、文字通り、長い棒を建物から突き出させて、上手く風を塔内に集めこんで、そのまま建物に送るための塔の事です。いわば、昔の自然エアコン。
特徴といえば、それくらいでしょうか?
まぁ、周りの一般市民の家よりはよっぽど大きい……むしろ、超巨大ですし、荘厳なんですけれど。
「ようこそいらっしゃいました」
門から入って、広い庭を暫く歩いていると、いかにも執事、というおじさんがあたしと洵さんの前に現れました。
「どうぞこちらへ」
スタスタと、女性のあたしでも付いていけるように、その歩調は穏やかで、きちんと教育されている感じです。
うーん、金持ち。
建物の中は、ウィンドタワーを備えているおかげもあってか、涼しい乾いた風が通っていて、汗を優しく乾かしていってくれます。
そこら中に書かれた幾何学模様は、外者のあたしからしたら慣れないモノでしたけれど、何となく、高級感に溢れていることだけは分かります。
うーん、やっぱ金持ち。
そうして、赤いカーペットを下に見ながらしばらく進んでいると、広い廊下よりも、もっと広い部屋にたどり着きます。
リビングでしょうか。
……うわっ、テーブル長っ!
そして、椅子! 椅子! 椅子! 椅子!
「あの、おじさん」
思わず気になったので、身なりのいい執事さんに声をかけます。
「はい、何か、ご要望でも?」
「いや、このリビング収容数何人くらい集まるのかなぁって。アハハ」
「こちらのリビングは、主人がお客様をもてなすために作られたお部屋です。年に一度、大きな催しをするときには、約150人が座れる設計にしてあります」
「あらまぁ!」
三桁、それはビックリです。
「お好きなところに、お座りください、もうすぐ主人が参ります」
そう言って、執事さんは一礼をすると、入口に立ちます。
洵さんは、畏まってしまったのか、小さくそこらへんの席に座ります。普段は庶民中心に商売を展開する彼ですから、あまりこう言う場所には慣れていないんでしょうね。
ま、所詮金髪野郎ですし。
——かく言うあたしもその隣の席で小さく丸まっていましたが。
「やぁ! ようこそわが屋敷へ!」
突然ハイテンションな大声とともに、背の高い恰幅の良い大男がスーツを身にまとって入ってきました。
洵さんと二人、高級な椅子とテーブルに挟まれて、棒でつつかれたダンゴムシになっていたんですが、その声でバッと一斉に顔を上げます。
思っていたよりも年老いており、髪の毛も白く……というか、殆ど残っておりません。
HA☆GE?
あぁ、それ禁止ワードなんで決して口には出しませんよ。
「あは、あははは……」
そのテンションに思わず空しい笑い声を上げてしまいます。
男はこちらの方に気づくと、ずしんずしんと寄ってきます。
「君が白猫君かね?」
「え、えぇ、まぁ……」
その時のあたしの顔は凄く不細工だったと思います。
彼は、あたしの反応に少し首をかしげましたが、やがて右手をこちらに差し出してきました。
「え? え?」
「握手だ。仕事をしてもらう前に、顔は覚えておかないとな。私はリブリッツという。よろしく」
「あ、はい、こちらこそ。あたしは……ええと、く、じゃないや、白猫って言います。よろしくお願いします」
おずおずとあたしの手を出して、彼と握手します。
恰幅が良いのは肥満体型だからか、と思ったんですが、彼の手を見るに、それが 全部、筋肉のおかげなんだと言うことに気づきます。
もしかして、お金持ちの所以、アウトローな世界ゆえなんでしょうか?
例えば、コルレオーネ家とか?
いやいや、まさか。
「さて、今回の本題だが、孫の飼っているピュアチャオをヒーローにしてほしいのだ」
「ええ、そのことに関しては既にこの方から聞いています」
あたしが洵さんの方を指すと、彼はへこへことしながら、そうなんです、ハイ、とただただ頭を下げています。
ここまで自分を卑しくすることが出来ると、逆に尊敬です。
「随分と、下手に出る彼氏のようだが」
苦笑いを浮かべるリブリッツさん。
下手に畏まっているだけだと、逆に嫌味がられるモノですよ、洵さん。
「下手に出るじゃなくて、ただの弱虫です。弱虫ゆえにあたしの彼氏なんかじゃありません。ビビりさんなので、放っておいてください」
「あはは、そうなのか。まぁいい。付いてきてくれたまえ。仕事が出来るのは彼ではなく君なのだろう。バルサ、その男には何かお茶でも差し上げろ」
「かしこまりました」
執事の人はバルサさんというらしいです。
バルサさんは、リブリッツさんの言葉を受けて、一礼をすると、どこかへ歩いていってしまいました。推測するに、雇っている人は必要最低限、と言ったところです。
………
廊下を歩く音だけがコツコツと響きます。
なんだか、少ない人数でこう言う広い場所を歩くと、何とも言えない寂しさがありますよね。お孫さんとそのチャオちーは裏庭にいるとのことで、そこまで移動しているんですが、かれこれ3分、まだ裏庭は見えません。
「君は、こう言う広い家に住んではいないのかね」
リブリッツさんが、静寂を破るように口を開きます。
「えぇ、まぁ」
「でも、君みたいな能力を持つ人は、私たちみたいな人間から高く買われるだろう」
「……そいえば、そんな感じかもしれません」
過去に、そう言ったお宅にも仕事しに行ったことはありますからね。
確かに、あまり自分で積極的にならないだけで、もっと自分のこう言った能力を売りこめば、こういった人たちに目を掛けてもらえるようになるのでしょうか。
でも、そう言うコネがつくと、自由に移動も出来なくなる気もします。
「君はそんなふうに金持ちの人間の集まりに首は突っ込まない方がいい」
「え?」
「こう言う世界は、自由じゃない自由を与えられるんだ」
なんだか哲学的な言い回しに、あたしは、はぁ、と軽い返事しか返せません。
リブリッツさんも、良い感じに年をとって、社会の荒波にもまれていたのでしょう。
言葉に乗せられた雰囲気の重たさが、何となくそれを伝えてきます。
「実はな」
「はい」
「私は昔とあるマフィアの幹部だったんだ」
……ん?
………。
……んんんんんんぬぅぁんですとぉ!?
オイ! 洵!
ちょいツラ貸せコラァ!
……全く。
あのおバカ弱虫パツキン野郎はあたしがこの仕事に乗らなかったら一体どうするつもりだったんでしょう。あたしのお連れさんには、絶対にギャンブルにだけはのめり込まないようにしなければいけないですね。
まぁ、あの人は、そんなことに興味はないと思いますけど。
「聞いていなかったのか?」
内心の葛藤を読まれていたのでしょうか。
リブリッツさんが心配そうな顔でこちらを向いてきます。
「えぇ、全く」
ちょっと言葉が刺々しくなってしまいます。
彼は大きな図体で大きなため息をひとつつきました。
「あの男、肝心の嬢ちゃんに何も伝えず、前金をもらっていたのか。酷い野郎だ」
「ホント、ふてえ方です。この仕事が終わったら、死なない程度に仕込んでおいてください」
「ハハハ、私はそんな半殺しのような真似はしないさ。ま、ある程度のお仕置きはしておかないとな」
「えと、お願いします」
ぺこり、とお辞儀をします。
リブリッツさんは大声で笑うと、いつの間についたのか、大きな鉄製のドアをバッと開けます。
そこは見たこともない、世界でした。
巷で聞いたことはあります。
チャオちーはより綺麗な環境を好むと言うことで、お金持ちの人は、好感度を高くしようと彼らにとって住みよいガーデンを作るとのこと。
通称ではチャオガーデンと呼ばれているそうです。
「ここって……」
「聞いたことあるかい。そう、この場所はチャオガーデン。チャオの好感度をより高くするために作られた楽園みたいなものかな」
あたしは日光が程良く浴びせられたガーデンを見渡します。
大きなプールは白色の淵で作られており、同じく真っ白の噴水からは綺麗な二字曲線を描きながら、透明な水が噴き出されています。
隣には——飛び込み台……? いや、崩壊した古代の建物をモチーフとした装飾でしょうか——が置かれています。プールの周りは全て人工芝で覆われており、ふわふわとしていて寝心地が良さそうです。
「なかなか、手が込んでますけど」
「これは、古代書で見つかった『ヒーローガーデン』という場所のモチーフさ。古代でもそのような愛玩動物を買うための場所があったんだろうね」
「へぇ」
考古学にはそれなりに興味があったはずなんですが、そんな古文書聞いたことありません。
疑問に思っていると、誰かが、遠くからあたしたちを見ているのに気づきました。
その隣にはチャオちーらしき姿も見えます。
「あら」
とてとてと近づいてくるお孫さんは、人形のように可愛らしい少女でした。
海の色をした瞳がまんまるとなってあたしの方を見つめています。金髪の、少し癖のついた感じがまた、いやらしいくらいにキュートさを醸し出しています。
いや、全く、おじいさんの容貌とは似ても似つかな——何でもありません。
「ん?」
でも、彼女がそういうふうなのと対照的に、少しピュアチャオの様子がおかしいです。
どことなく、暗く、性格がネガティブな気がしてならないのです。
「チャオはこのままだとダークに進化するだろう」
「え?」
「知らないのか。ピュアチャオは、幼少時にわずかに身体の色が変化して、ダークになるか、ヒーローになるかが決まるんだ」
「じゃあ、あれは……」
あたしの目に、狂いがあったんじゃないんです。
あのチャオは本当に黒くなってしまっていたんです。
「そう、まさにダークチャオになる前段階。だから、頼む、このチャオを撫でて、ヒーローチャオにしてくれないか」
リブリッツさんはそう言うと、ぱん、と手を合わせてあたしに懇願してきます。
その様子に、彼の想いは本気だと言うことが分かります。
「ま、まぁ、それはいいんですけど」
ただ、違う……。
頭の中で、違和感を覚えます。
何かがおかしいのです。
それは少女があたしを見る表情か、この元マフィアの人が小娘相手に手を合わせていることか、チャオちーが黒くなりかけていることなのか。
いや、それとも別の何かの——
色々と頭にはてなマークを付けながら、彼女らに近づきます。
「え」
微かに、声がしました。
その高く澄んだ声がお孫さんの声だと気付くのにはしばらく時間を要しました。
プルンとした薄ピンクの、小さな唇。
それが震えているみたいに、ごにょごにょと動いているのが分かります。
「……め」
「え?」
「さわっちゃ……め」
良く聞き取れない言葉を発しながら、お孫さんはプルプルと泣きそうな顔をして、あたしたちの方を睨みつけてきました。
いつの間にか、チャオは彼女の後ろに隠されるようにしている立ち位置になっています。
触るな、……ということなのでしょうね。
あぁ、違和感の答えがわかりました。
つまり、それは。
「ミゥ、チャオを渡しなさい」
穏やかな声で、リブリッツがお孫さんを諭します。
お孫さんはそれをジトッとした目つきで見つめると、その場を離れまいと、足にぐっと力を込めているようでした。リブリッツさん自身も、その表情や口調は優しいのですが、腹の底から出る迫力が、何とも言えない強制感を出している気がしないでもないです。
険悪なムード……。
「ミゥさんって言うんですか、素敵な名前です」
と、心配したのもつかの間。
思わず、空気を読まずにお孫さんの名前に感動してしまいます。
自分なんてネコさん呼ばわりされるのに、素敵そうな名前で何よりです。
すると、さっきまで唇をギュッと引き結んでいたお孫さん——ミゥちゃんが、穏やかそうに目つきをとろんとさせて、こっちの方を向いていきます。
「お姉ちゃん、ありがと」
少し首をかしげながら、にっこりと笑います。
か……可愛い……かわいすぎるよ!
「ミゥ、お願いだからこっちへ来ておくれ」
けど。
後ろから来る空気の読めない発言が、彼女の表情をまた堅くしてしまいます。
絶対に言ってはいけない言葉なんですが、思わずHA☆GEという言葉が舌の先まで出かかっていました。危ない危ない。
もし言っていたら、こっちは毛どころか魂まで抜かれますものね。
それに、良く考えればどっちの方が空気読めない発言なのだか。
「リブリッツさん」
「ん?」
「暫く、二人にさせてもらえませんか。何とか、あたしがチャオちーを進化させる前までに説得してみせます」
いくら、あたしの話題が脇道にそれていても、彼女が笑っている表情の方が説得もしやすいですし、お話を聞くことも出来るでしょう。
あたしの提案に納得したリブリックさんは、心配そうにこちらの方を一瞥していましたが、やがて、ドアの向こうにへと消えて行きました。コツコツ、という音がしなくなり、チャオガーデンにはあたしとミゥちゃんの二人きりになります。
「はじめまして、ミゥちゃん。あたし、白猫って言います」
改めて自己紹介。
ミゥちゃんは興味深そうな目であたしの方を見てきます。
「白猫さん? おねぇちゃん、ネコさんなの?」
「んー、違うよ、本当に、そう言う名前なの」
「そうなんだぁ、良いなぁ、動物さんの名前なんて」
キラキラと目を輝かせるミゥちゃん。
行動がいちいち可愛いすぎます。襲っちゃっていいのかしら?
「ミゥちゃん、年はいくつ」
「7歳」
7歳ですか、食べごろですね——じゃない!
なんとまぁ、あたしより10歳も年下なんですか、この子。
その割には、しっかりしていると言うか、何と言うか。
「よいしょっ」
草原の上に腰を下して、ごろりん、とねっ転がってみます。
さっきからやりたかったんです。ふわふわした草原ですもの。
ただ、依頼主さんの前ではさすがに自重していただけで。
え? あぁ、ガキですか、そうですかー。
いいもんいいもん、そっちの方がお連れさんも可愛がってくれるもん。
「……白猫お姉ちゃん?」
「ん?」
「チャオさんのこと、なでるために来たんじゃないの?」
さすがのしっかり者。
あたしの事もきちんと耳にしていたんですね。
「ミゥちゃんはチャオを撫でてほしいの?」
でも、あたしはその言葉に答えず、彼女の核心に触れる質問をします。
違和感の正体は、まさにこれ。
洵さんが言っていたことも、同じような仕事をあたしに頼んだ人も、全部、〈自分の〉チャオを何としてくれと頼んでいたエピソードです。
でも、彼女は、あたしが来ても頼み込むようなこともせず、ただ、あたしをじっと見ているだけだったのです。
だから、大体分かるのです、彼女の言う答えは。
「……ううん」
少女は遠慮深そうに、でも、はっきりと〈嫌だ〉の意思表示をしてきます。
「でしょ? だから、あたしは撫でない」
「でも、それだとお姉ちゃん、おじいちゃんにおこられちゃうんでしょ? おかね、もらっているんでしょ?」
あぁ、ミゥちゃんって、可愛い上に優しいんだなぁ。
こりゃ将来、沢山悪い虫が寄りついてくるだろうナァ。
……まぁ、あの恐ろしいポテンシャルを秘めたおじいちゃんが御存命である限り大丈夫だとは思いますけど。
「大丈夫」
「でも、おじいちゃん、こわいよ? おこると」
「ふふん、そんなのあたしが一言言えば、大丈夫です、よっ」
実際は内股ぶるぶるでしたが。身体は何よりも正直です。
彼女も、それに気付いたのか、クスリと笑います。
「おねえちゃんって、ウソつくのすき?」
洵さんに言われれば癪に障った言葉も、彼女に言われると、何だか和んだ気持ちにになってしまいます。
あ、これが贔屓って言うんですかね。
なかなかいいものですね。ひいき。
「良く言われるけど、別に良いじゃん、すぐばれるんだし」
「おねえちゃんってヘン」
「うーん、変かなぁ。うん、多分。お連れさんの影響です」
そう言い訳すると、怪訝そうな顔をしてミゥちゃんがこっちを見てきます。
「人のせいにするのは、よくないです」
「ごめんにゃさい……」
こんな年下に丸めこまれちゃうキャラではないはずなのに!
うんうん唸っていると、ひょいっとミゥちゃんが何かを差し出してきます。
彼女の、ちょっと黒ずんだ、チャオちーです。
「……」
撫でろってことなんでしょうね。
「どうぞ……」
「どうぞ、って言われましてもねぇ」
ミゥちゃんの瞳は、さながら土だけで作られたダムのような、氾濫した川の堤防がピキピキと崩れかけているような。
めちゃめちゃ泣きそうになっているんですよ?
撫でろと? この状態で撫でろと?
答えは決まっています。
「駄目です」
「でも、なでないと」
「撫でないと殺されちゃう、なんてことはないですよ。初めて会う人に、そう言うことを考えて行動できるミゥちゃんは凄いです。でも、それじゃあ、何にも解決しないじゃないですか?」
「……」
「解決って言っても、実際何も分かっていないのはあたしなんですけどね。ただ、一つだけ分かるとしたら……」
「え?」
「このまま単純に撫でたらミゥちゃんが、悲しむって言うことです」
あたしはそう言うと、両手を後ろでつないで、チャオに触らないようにします。
フフッと笑いかけると、ミゥちゃんは悲しそうな——でもどこかホッとした表情を見せます。しっかり者と言っても、7歳の女の子に変わりはないのです。その真意はすぐに読み取れてしまいます。
——やっぱり、この子は、自分のチャオをヒーローにしたくないんだ。
でも、その理由は何なんでしょう。
普通、この年の子だったら、男女関係なくヒーロー、というモノにあこがれる年齢じゃないのでしょうか。少なくとも、ハードボイルドの、人をガンガン撃ち飛ばしていく人々にあこがれている、なんてことはないでしょうね。
考えがまとまりません。
そもそも、どうして彼女のチャオが黒いのかさえも見当がつかないのです。
……一旦出直すとしましょうか。
草原からよっ、と身体を起こして、お尻についた屑を払います。
「おねえちゃん、かえるの?」
「うん、また明日も来るからね」
「……ごはん、いっしょにたべよ?」
空の色がオレンジから赤へとグラデーションしています。
腕時計の時間を確認すると、もうそろそろ5時半、と言ったところです。
確かに、すっかり夕飯時ですね。
「うーん、どうしようかなぁ」
「ご飯、広い所でおじいちゃんとミゥだけで食べるの」
広い所?
……も、もしかして、あの場所かい!
あぁ、それは確かに苦痛以外の何物でもないかも。
最近はリブリッツさんとも心の壁が出来ちゃっているみたいですし。
可哀想という気持ちもありますし、仲良くなるチャンスなんで、ぜひともご一緒したいのは山々なんですが……どうしましょう。
「うーん、でも、今日は、——」
「きょうのおりょうりはちゅうかで、からあげとかラーメンがでるらしいです」
「行きます」
即決。えぇ、行きますとも。
理由:鳥の唐揚げがまさかこんな場所で食べられるなんて!
ごめんねミゥちゃん、食い意地張った女で。
正直、夜になって他の人と近くにいるのは怖いんですけど……あの部屋にいる限りは大丈夫でしょう。
見えませんから。ね。
——PM7:00
「今日はホント、いろいろとありがとうございました」
夕食を終えて、あたしはリブリッツさんと二人で出口の方へと歩いていました。
幸いにも、方向的に見えることはないので、今すぐここであたしの秘密を暴露することはないでしょうけども、大事を取ってなるべく室内方向の壁にそって歩き続けます。
「嬢ちゃんは、明日もまた来てくれ。ミゥも喜ぶ」
「えぇ、是非。というより、あたしの場合、仕事を遂行しないと詐欺師になっちゃいますからね。前金、殆ど使ってしまいましたし」
ぺこりと謝ると、いいんだ、いいんだとリブリッツさんが手を振ります。
「ミゥがあんなに喜んでご飯を食べるなんて久しぶりだからな。ミゥが楽しく生活を出来るようにしてくれただけでも、君には感謝しないといけない」
「いえいえ、そんな、滅相もない」
「……それに、本当はヒーローになんか、出来ないのかもしれないしな」
「はい?」
「チャオを普通に可愛がって、ヒーローになるか、ダークになるかは、遺伝でも変わってくるらしい。つまり、だ。過去に色々な犯罪を重ねてきた人間の子供、孫は、そのまま同じようにダークとしての遺伝が移ってしまっている可能性があるんだ」
何とも言えない神妙な顔をしながら、リブリックさんはそう言いました。
彼の言わんとしていることは大体分かります。
そりゃ、あんな可愛い子が普通に可愛がってダーク色に近づくなんて、あり得ないですものね。
でも、たかが遺伝でそんな形質まで変わるのでしょうか?
どこか、心の奥に引っかかるものを感じていると、いつの間にか、入口がすぐそこにありました。
「では、ここからは一人で行きますので」
「そうか、門までは」
「御心配に及びません。こんなところまで主人がわざわざ来てくださっただけ、こちらとしてはありがたいことこの上ありません」
「分かった。では、また明日の昼にでも会おう。ミゥとまた遊んでやってくれ」
「ハイ。では、今日は本当にありがとうございました」
深くお辞儀をして、入口の扉を開けます。
外は砂漠王国らしい、神秘的な光景が広がっていました。
遠くに見える角ばった建物の集まり。それが黒いシルエットを形成しています。
赤い光が集まるあそこは、中央広場でしょうか。
フフフ、やっぱり、この景色を見ると、引っ越して良かったなぁと思ってしまいますね。
お連れさんには少し感謝をしないといけないかもしれません。
——ふと、上空を見上げると、まだかすかに明るい夜空に浮かぶ、一輪の三日月が目に入りました。
「早く来てくれないかなぁ……」
………
暗闇があるからこそ星が瞬く
日向があるからこそ日陰がある
善があるからこそ悪が黒く身を染める
悪があるからこそ善が白く身を染める
この世界はいつでも表裏一体
この世界はいつでも白と黒が交わることはない
さぁ歩け人間
黒から白
白から黒へ
どこまでも——
………