~第三回~ ページ2
…
道中行き交う生徒達の好奇の目に晒されながら、ひーこらと目的地の教室にたどり着く頃には、俺の腕は疲労困憊の極みに達していた。小学生との腕相撲に勝てるかどうかも怪しいな。
右頬を机にべちゃあとくっつけて、両腕を重力に忠実に従わせだらんとぶら下げる俺の頭をばすばすと叩きながら、
「やっ。御苦労ごくろー。頼りになるねキミぃ、なはは」
などと笑いながら言い残し、自分の席に座り鼻歌を歌い始める女子生徒には殺意にすら近い感情を抱いたのだが、俺のすぐ横に座る羽のない天使が、
「ありがとう。重かったでしょ?」
少々申し訳なさそうに、でもありがとう、ってな感じで微笑みかけてくるもんだから、そんな感情など疲労とともにアラビア半島上空あたりまで吹っ飛んでしまった。
しゃきり、と体を起こし、
「気にしないで。全然大丈夫だから」
と、強がる元気も湧いてくる。両腕の耐久力はそう簡単には回復しそうにないが。
「お二人ともありがとうございます~。うんうん、やはり力強い男性の方は頼りになりますね~」
水月の肩からひょこりと顔を出す河野。最後の『ね~』の所で水月に同意を求めるように首を傾け、水月もその意見に賛同していた。
正直、腕っ節に自信を持ったことは今までの人生経験上あまりないのだが、しかし、か弱い女生徒二人に頼りにされるというのは、まぁ悪い気はしない。というか、俺が第三者だったら今の俺の状況を羨望の念を抱いて見るかもしれない。
なんせ二人とも、俺の個人的な主観で言わせてもらうと、かわいさで言えば少なくともクラス内では上から数えたほうが早い(さらに個人的な主観で言わせてもらえば、片方は他の追随を許さない圧倒的位置にいるのだが)女子生徒であり、そして俺の主観も、それほど一般人とかけ離れてはいないという自信がある。なぜなら、
「この~、裏切り者~」
第三者が俺に羨望(&怨恨)の眼差しを向けているからだ。
底なし沼から這い上がってくる怪物みたいな声で、嘉川が俺を裏切り者扱いしてきた。
「俺はお前と手を組んだ覚えはないぞ。故に裏切り者呼ばわりされる筋合いはない」
「いーやお前は裏切った。俺とお前の間で長年培ってきたダイアモンドよりも固い絆をお前はあっさりと切り裂いたのだ。この罪は重いぞ、情状酌量の余地ナシだ」
「参考までに聞いてやる。何をもってしてお前は俺を裏切り者扱いしているんだ」
「しらばっくれやがって!」
ズダン!と自分の机の上に右足を乗せ、ズビシ!と人差し指を俺に突きつける嘉川。
「お前らは俺の救難信号を堂々と目の前で無視しただろうが!そういや湯之元はどこだッ」
「トイレ」
「そうか、トイレかッ。この野郎、オマケに帰ってきたらなんか仲良くなってるじゃねぇか。河野と。水月と」
「ただ荷物を代わりに運んだだけだよ。それに助けを無視したんじゃない、助ける必要ナシと判断したまでだ」
「荷物運びだったら俺のいいところを見せるチャンスだったのに!」
くすくす。
不意に聞こえてきたそのか細い笑い声は、俺ではなく、ましてや嘉川のものでもない。
口元に手を添えて上品に笑う、水月栞のものだった。
「ごめんなさい、面白かったから」
「そーですよね!」
それを聞いたとたん足を下ろし机に身を乗り出す嘉川。
「そうですそうです!コレからは何事にもユーモアのセンスが問われる時代なのです。ユーモアがあれば何でもできる!最近のお笑いブームにもそれは如実に現れています!なので水月さん、スリーサ」
「最ッ低!」
どかあっ、と嘉川に豪快な飛び蹴りをクリティカルヒットしたのは、一応今までの話を聞いていたらしい湖山だった。
湖山は、倒れた嘉川の胸倉を掴み取り、
「アンタちょっと、痛い目見ないとわかんないみたいねェ、ん?」
笑顔でそう言った。
天使の笑顔じゃない、悪魔の笑顔だ。
「こ、コヤマさん、これも、ゆ、ユーモアの一環で、」
「ただのセクハラでしょうが!」
ぎりぎりぎり、と嘉川の首を締め上げる。
「ぐぇう、湖山、し、死ぬっ。死ぬぞッ」
「ぉっと、なにやってるの?」
もう少し放っておけば嘉川がこの世からオサラバしていただろうというときに教室に入り、後ずさりしながら目を白黒させたのは、
「た、助けて湯之元」
嘉川が助けを求めた人物、湯之元だった。
その後、授業開始のチャイムによって嘉川は一命を取り留めることになるが、隣に座る湖山の発する殺気で、嘉川は塩をかけられたナメクジみたいになっていた。
…
この日の授業を終え、俺は帰路を辿る。
今日はいつも以上に、いろんな意味で濃い一日だった。
二学期が始まるまでは一人寂しく授業を受けていたが、今日からは違うのだ。彼女が横に座っていてくれるだけで、今までは眠くなるだけだった数学の授業も楽しく過ごせるようになるというものだ。楽しいだけで頭に入っているかどうかは別だが。
「ただいま」
がちゃりと玄関のドアを開け自分の部屋へ足を向ける。部屋の中では――
「チャオ」
部屋の中では、一匹のチャオが床に座り込んで、紙に絵を描いていた。何を書いているのか…ちょっと判別不能だ。
俺はバッグをベッドに放り投げながら言った。
「ただいま、ミズ」
一匹のチャオ――ミズは絵を書く手を止め、
「チャオ!」
大きな声で返事をした。