チャオワールド (3)
車が停まったのは、こざっぱりとしたビルだった。
富裕層が根城とするにはやや小さい感じのする十階建てで、だけど外見を綺麗に見せようという思惑があるのか、正面はガラス張りになっていた。
スピアは車から降り、後部座席に置かれていた金棒を持った。
フォルムは刀に近いが、分厚い。
長持ちするように頑丈に作られていた。
確かに、ここには特権を持った人間が暮らしているようだ。
スピアは耳でそのことがわかった。
ビルは鼓動を持っていた。
室外機の音が微かながらも、ごうごうと聞こえてくる。
このマンションには電気が通っているのだ。
「調べでは、少なくとも二十二人が暮らしている。ドアを入ると門番が二人だ」
とキングは言った。
それ以外の情報は告げられなかった。
だけどスピアにはそれで十分だった。
「わかりました。行ってきます」
お前の武運を祈っているよ。
キングは慣用句らしき言葉でスピアを送り出す。
スピアがビルの入り口のドアに近付くと、それだけでドアが開いた。
自動ドアだ。
開けずとも、勝手に開いてくれる。
自動ドアを前にすると、いつもスピアは興奮を覚えた。
これからする全てのことが順調に進んでいくような気がした。
キングの言ったとおり、二人の男が立っていた。
体つきは大きいが、筋肉ではなく脂肪の大きい男たちだった。
何の用だ?
ビルに入ろうとすると、男たちがその体で行く手を塞ごうとする。
スピアは金棒を男の顔面に目がけて振った。
正確には顔よりも少し下、首に当てるつもりで。
金棒は左側の男の首の側面をとらえた。
乱暴に釣り上げられた魚が船の上にばちんと叩き付けられるかのごとく、手足で受け身を取ることもできずに一人目の男は倒れた。
もう一人の男は、恐怖で身動きが取れなくなっていた。
腰は引き下がろうとしているのに、脚がついてきていない。
その場に立ちすくんで、顔を蒼白にしていた。
こんな短時間で、こんなに真っ青になる人間は、初めてだ。
そう思いながらスピアは、金棒を男の頭に叩き込んだ。
これで死体が二体、出来上がり。
スピアは念のため、二人の頭と首を一回ずつ叩き潰しておいた。
もっとぐちゃぐちゃに叩いてしまいたいのだが、それをしてはいけない決まりになっている。
他に誰かいないか。
金棒をまだ六回しか振っていない。
全身の筋肉は熱を持ちだしたばかりで、これからが本番だと暴れたがっていた。
一階のスペースはほとんどが玄関だったが、エレベーターの脇に通路があり、そこを進んでみると部屋が一つだけあった。
そこは門番の控え室だった。
室内にいた二人を手近な方から順番に殺した。
これで一階は終わり。
ビルの入り口に戻り、ドアから少し離れて待機していた、キングと、トラックに乗っていた二人の男に声をかけた。
「一階終わりました。四人です。門番二人と、奥の部屋に二人」
するとキングと二人の男もビルに入ってくる。
キングは門番の死体を見て、血があまり飛び散っていないのを確認すると、うんうんと頷いた。
「では、いつもどおり最上階から順に頼むよ。一番上のやつらに逃げられると面倒だからな。そこさえ終われば、あとは漏らしがあっても、そう問題ない。いつもどおりだ」
はい、とスピアは返し、エレベーターを呼んだ。
キングと一人は、死体の脚をそれぞれ片方ずつ持って、死体を運び始めた。
残りの一人は見張りだ。
もし逃げようとした者が出てきたら、それを可能な限り引き留める役だ。
見張りと運び役をローテーションしながらトラックに死体を詰めていくのが彼らの仕事だった。
彼らは殺しができない。
殺すのはスピアだけの仕事だ。
スピアはエレベーターの中で、体が一つのものになっていくのを感じていた。
脳も口も腕も脚も、普段はそれぞれが別々の器官として、それぞれに動いていた。
だけど生命を殺している時だけは、スピアの体は全ての部位が連動し、一体化していた。
この感覚だ。
この感覚に従って生きていくことが正しい生き方なんだ。
エレベーターが最上階に着く。
そこは一フロア丸ごと一つの部屋になっていた。
冷房が効いていて、とても涼しかった。
機械の稼働する低い音が耳障りだとスピアは思った。
冷えた空気の中にスピアの呼気が混ざった。
逃がしてはいけないとキングが言った相手は、着衣で一瞬にしてわかる。
キングもそうだったが、特権を持つ者は着る物によって、その身分を表明する。
ただその男はキングとは違って、よく肥えていた。
スピアは肥えた男を視界に捉えたまま、手近にいる女や男を始末していく。
殺し自体はそう難しい仕事ではない。
逃げることも抵抗することも知らない者たちを順番に殴り潰すだけだ。
彼ら、彼女らは、怯えて硬直していた。
一歩踏み出すとともに上半身をひねる。
ひねりを戻す力と肩を引く力を使いながら、手に持った金棒を鋭く振るう。
コンパクトな動作の中に、破壊力を集約させる。
お前たち、よく見ておけ。
お前たちは知らないだろうが、人間にはこんな力があるんだ。
人間が生きるというのは、こういうことなんだ。
スピアは冷気をはねのけ、人の頭部や首を壊していく。
「貴様のやっていることは間違っている! 人間の過ちを繰り返すのか!」
肥えた男が叫んだ。
「人間は過ちを繰り返すまいとして発展してきたんだ。お前はその人類の歴史を裏切っている!」
人は狩りをやめても、戦争で殺し合いをした。
戦争をやめても、私利私欲による殺人は続いた。
そして人類はとうとう殺人もやめて、真の平和を獲得した。
肥えた男が言っているのは、そういう話だった。
幼い頃に誰もが聞かされることだった。
スピアのしていることは、その歴史に逆行していた。
殺すどころか、生きている人に危害を加えることなど、スピアの他にできる者はいなかった。
仕方ないことなんだ、とスピアは思った。
人間は平和を手にするために無理をし過ぎた。
だから人間の文化は破綻したのだ。
文化が破綻したのなら、俺のように逆行する人間だって生じるだろう。
むしろ、そういう人間が生まれなければ、人類に明日はない。
明日のない人間は、死んで、チャオに生まれ変わることを祈るしかないのだ。
大丈夫、俺が殺した人間はキングが“ガーデン”に運んでくれる。
ガーデンでハートの木の養分となり、ガーデンの一部となれば、魂はチャオへと変わるだろう。
チャオなら明日を生きられる。
なぜならチャオは天使のような生き物だから。
スピアは肥えた男を殺すと、我慢できずに男の頭を何度も金棒で殴った。
肌が裂けて、そこから血が漏れ出てくる。
その血を金棒の先にすりつけながら、スピアは血と肉の臭いを嗅いだ。
不快感を刺激される臭いだった。
人間はこの臭いの中で生きていくべきだ。
血の臭いのしない場所で生きていくことなど、もはやできないのだ。