チャオワールド (2)
スピアが目を覚ますと、朝だった。
時計はない。
針の動かない壁掛け時計を部屋の飾りとしていたが、あれも拾った時から既に動いていなかった。
だけど東側から差し込むレース編みの光は、まだ日が昇ってからそう時間が経ってないことを示していた。
昨晩の記憶はぼやけている。
ドラッグによる異様な興奮と快楽は覚えている。
だが、そればかりが記憶に残っているのだ。
細部の記憶、自分たちがどのような交わり方をしていたのかは、まるで覚えていなかった。
アオコはまだ静かな寝息を立てていた。
清涼な小川の女だ。
たくましい生命というのは、汚れた水を生きる。
食し食される世界において汚れとは生命活動の証だからだ。
アオコの肌は白い。
その下を流れる血液に生命の荒々しさが宿っていないせいだろう。
裸で眠っているアオコを見ていると、この世界が息を潜めていくように感じる。
この印象はあながち錯覚でもないのだろう、とスピアは思った。
人類は文明を維持できなくなった。
だが文明を失って、自然の中では生きられないだろう。
とうに人類はたくましさを失っている。
自らの手で整備した清涼な小川に、身を慣らしてしまった。
この先、人類はろくに生きてはいけないだろう、というのがスピアの実感だった。
スピアは服を着て、朽ちたアパートから出た。
電気は通っていないが、住むだけなら当分は問題ない。
そのような古い住居がいくらでもあって、人々はドアや窓を壊してそこに侵入し、暮らしていた。
アパートの外には、車が停まっていた。
真っ黒な平べったいフォルムの車だ。
低い車は、地面に這いつくばっているようにも、ゆったり腰を下ろしてふんぞり返っているようにも見えた。
だがこの車に乗っている者――“キング”のことを考えれば、後者が正しいのだろう。
それにキングは、かつてこの車が相当な高級車だったと語っていた。
スピアが助手席に乗り込むと、
「おはよう」
と運転席の男が言った。
「おはようございます、キング」
「ああ。今日もよろしく頼むよ」
自身のことをキングと周りに呼ばせている運転席の男はまだ若い男で、スピアとも五歳と違わなそうに見える。
やけに艶のある肌や髪の毛、そして体型にフィットしたスーツが、裕福さをひけらかしていた。
慎ましさはないが、それがかえって威厳と品を感じさせた。
彼の本名を、スピアは知らない。
聞こうとも思わなかった。
スピアだって、親に付けられた本当の名前が嫌いで、それで故郷から離れて東京に居着いて偽名で暮らしていた。
キングは、自分と同じ日本人に見える。
でも、たとえそうでなくてもいい。
それは大事なことではなかった。
大事なのは、キングが自分向きの仕事をくれること。
そして、そう遠くない未来で人類の代わりに栄えることとなる、チャオという生き物について彼は知っている、ということだ。
それ以外のことは深入りするべきじゃない。
重要なその二点でのみつながりを持ち、その結び付きだけを強くしていくことが、自分をチャオに導く近道であるとスピアは信じていた。
キングはダッシュボードに置いていた巾着袋を手に取った。
そして、スピアの手の上でひっくり返す。
硬貨とハートの実の錠剤がぼろぼろと落ちてきた。
「これは今日の報酬だ」
とキングは言った。
賃金を先払いしてくれるのは嬉しいが、ドラッグまで先によこされるとアオコの艶やかな体を想像してしまって、下腹部が熱を持ちそうになる。
そういった配慮まではしてくれないのが、キングという男だった。
信頼と期待を示すために、仕事の前に直接報酬を渡すが、彼の方からそれ以上距離を詰めてくることもなかった。
その方がスピアの望むところであったし、誰に対しても必要以上に媚びることがないキングの余裕にスピアは敬意も抱いていた。
手に乗った硬貨の数が今日は多く、重い。
キングから支払われる報酬は多いことと少ないことがあって、報酬の量を見れば、今日の仕事がなんであるかが聞かずともわかった。
スピアは受け取った硬貨とハートの実を、ジーンズのポケットに押し込んだ。
道中、トラックが合流して、キングの車の後ろに付く。
スピアはトラックがもう一台来てくれるかどうか気にしていたが、トラックは一台だけだった。
なんだ、今日は軽い仕事で済むのか。
スピアはこの仕事が好きで、できればトラック二台分働きたかった。