チャオワールド (1)
「お前の目は綺麗だ。限りなく“チャオ”に近いブルーだ」
アオコの目からは、スピアの瞳だけが映っていた。
スピアにも同じようにアオコの瞳が見えていて、言ったのだろう。
だけどアオコは、自分の瞳の色は黒だったはずだ、と思った。
ちょうど今、私の目の前に見えているスピアという男の瞳の色とおんなじに、黒いはずなのだ。
スピアにはいったい、なにが見えているの?
とアオコは思った。
思ったのではなかった、言っていた。
スピアが、アオコの問いかけに対して笑みで返していた。
「海だって深海はただの真っ暗闇だけど、外から見ればとっても綺麗な青色だろ? 黒に見えても、本当の色は青なんだよ」
スピアは、とろんとした声でゆっくりアオコに言い聞かせた。
どうやら“ハートの実”が、アオコよりも早く効いてきたらしい。
アオコにもそのことがわかった。
でもさ、それを言うなら、海の本当の色は黒ってことじゃないの? 反対じゃない?
アオコは首を傾げたつもりになる。
だけどもアオコの頭は少しも動かず、スピアの瞳に釘付けになっていた。
スピアの瞳の奥底まで視線を潜り込ませればやがて暗闇の海面に出て、青い瞳の色が表れてくるのではないかと思い、見つめていた。
それか、アオコにもハートの実が効いてきたのかもしれなかった。
肉体同士の距離が、境界が、曖昧だった。
スピアの瞳の青色を探索しようとしていると、唇同士が触れた。
アオコに覆い被さっていたスピアが、キスをしたのだった。
キスだ、と理解するなりアオコは目を閉じる。
閉じた瞬間には、スピアの瞳を探求することはもう頭の中から消えていた。
そしてスピアの体に腕を回して、彼の腰を引き寄せる。
口の中と、両腕と、腹部と、脚。
アオコは全てを同時に舐め回されているように感じていた。
どこがどのように、なにと接触しているのか、わからない。
しかし全身の神経が大口を開けて快感を享受しようとしていて、受けた刺激をどれも最上級の愛撫と錯覚するから、アオコはわけもわからず体のあちこちを同時に舐められているような心地になる。
正常な、トリップであった。
むしろ今までよりも良い。
普段は表皮の内側にあるセンサーは今や肉体の表側に出てきており、快楽の受容体にアオコは包まれていた。
それはスピアも似た状態だった。
二人は舌を絡ませ合いながら、上半身をもぞもぞと爬虫類のように動かす。
絶えず刺激を与え合う。
それと同時に、触れ合う面積を最大化しようと試みている動作だった。
「ああ、アオコ。お前はチャオだ。きっとチャオになれるよお前なら」
スピアはキスの合間に、そう愛の言葉を口にした。
アオコの脳にその声はろくに届かない。
アオコはうっすらと、チャオってなんだろう、と疑問に感じたが、その透けるような薄さの思考はすぐに大きな刺激に流され消えてしまう。
そして発言者であるスピア自身も、自分の口にした言葉を、言っているのか言っていないのか判別できていなかった。
判別できないことを、気にすることもない。
二人はそれよりもお互いの愛を、ドラッグを大量にまぶしたそれを貪ることに夢中だった。
ハートの実は、性交時に用いるドラッグの定番である。
興奮と多幸感を生じさせるのが主な効き目で、さらに感覚が鋭敏になったり幻覚が起こったりすることもある。
果実のまま摂取できるが、果汁を染み込ませて作られた錠剤の形で出回ることが普通で、アオコとスピアも錠剤を一錠ずつ使用していた。
ドラッグによって色付けされた性交は、他に味わいようのない強烈な快楽を脳に刻み込むのだが、愛撫し合っているだけでも強い幸福を感じさせるから、ハートの実を服用した者同士のセックスではいつまで経っても前戯が終わらず、行為に至らないこともあった。
まさにアオコとスピアもその状態にいた。
気が付けば二時間も体をこすり合わせていた。
薬の効き目が少し抜けてきて冷静さの戻ってきた二人は、そこで改めて性器を結合させ、薬物から来る快感と肉体から来る興奮を重ね始めた。
これが、東京における、一般的な夜の過ごし方だった。
恋人同士や夫婦でなくても、ハートの実があれば誰が相手であろうと快楽におぼれることができた。
ドラッグを服用せずに生きているのは、ごく一部の富める者のみだった。
もはや多くの人の手から離れてしまった文明の多くを彼らは独占していて、ドラッグの代わりに、種々の機械が発する人工的な光に酔っていた。