11:再開部
酷く体が冷えていた。指先と足の感覚が消えていて、僕の体をすれちがっていく風を受けてガタガタと震えていた。
起き上がるのにめちゃくちゃ苦労した。本当に足の感覚がなくて立ち上がれない。とにかく手近なところにあった柵に向けて這っていって、ロクに力の入らない腕の力でなんとか体を起こした。
持っていた時計を確認すると、とっくに昼を過ぎていたことだけは確認できた。力も入らないうえに酷く震える手から時計が落ちて、正確な時間まではわからなかった。
いったい僕は何をしていたんだ。ここはいったいどこなんだ。ガチガチと打ち鳴らされる歯を無理やり抑え込み、僕は周りを見回した。だけど、全然見覚えのない場所だった。なんの面白みもないビルの姿ばかりが見える。どうやらどこかの屋上らしいが……。
「……ああ」
思い出した。どこか知らない廃ビルの屋上だ。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
実にバカなことをした。こんな冬の寒空の下で野宿なんぞすりゃこうなる。確か、あの子が死んだって聞かされて、ふらふらとここに来て、それで……。
「――違う」
強烈な違和感を感じて、身震いがふっとおさまった。
なにかがおかしい。僕は確か、ミスティックルーインのチャオガーデンにいたはずじゃなかったか?
今の自分の服装を確認した。帽子。眼鏡。パーカー。あの子に会いに行くために、学校の生徒にバレないようにするために着ていたものだ。あの子が死んでから二年間、この服装にしたことは全然なかったはずだ。本当は防寒着を着込んで、ひたすらに雪を掘って、チャオに会って。
あれから、いったいどうなったんだ?
今は……いつだ?
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ビルの中に入ってしばらくして、ようやく立ち上がれるようになってから階段を下りた。ビルを出る頃には、なんとかまともに歩けるくらいには回復した。
とにかく今がいつなのかを知りたくてあちこちを探し回ったが、このあたりがどこなのかイマイチわからなくてかなり迷った。目に付いたコンビニに辿り着いて、恐る恐る新聞を手に取る。日付は僕の覚えていたものより二年も前だった。
間違いない。ここは二年前……いや、ただの二年前じゃない。あの大洪水が起きていない。確かあれは、僕が廃ビルに入ってさほど経たないうちに起きたはずだ。
ということはここは二年前じゃなくて、過去にソニックがカオスを倒した後の、つまりは元の世界なんだ。
戻ってきたのか?
いや、そもそもあの世界は……現実だったのか?
温かい缶コーヒーを買って、僕はコンビニを出た。歩いている間、ずっと頭の中では二つの世界の出来事がぐるぐると廻っていた。
あの二年間は夢だった。それならなにも難しいことはないまま、この話は終わりだ。だけど、夢と断ずることができなかった。あの二年間の出来事は、リアリティなんて言葉では言い表せないくらい、僕の体験として骨身に染みついている気がするのだ。
だけど……それはとてもおかしな話だ。この世界に戻ってきたと言葉だけで表すのは容易だが、自分でもやっぱり信じられないのだ。あの世界で、僕の知る歴史が否定されたときのように。
糖質多めの缶コーヒーの味が体中に染み渡る。少なくとも僕が今いるこの瞬間は現実で、曖昧な夢の世界ではないはずだ。目覚めたときの驚くほど寒い感覚。缶コーヒーが体をとかしていく熱い感覚。
それじゃあ、あの世界はどうだ? 街を歩いたときの容赦なく体を襲った寒い感覚。汗と涙と鼻水になって溢れた激辛カップの熱い感覚。
本当に夢だと言い張れるのか? 本当に時を越えたと言い張れるのか?
そのどちらも、僕にはできなかった。僕はどうしようもなく現実に生きていて、だけど空想や妄想とはまだ縁が切れてない、くたびれた学生だから。
この感覚はなんだろう。誰か見えない人が僕の背中をばしばしと叩いている気がする。ただひたすらに急かしてくる。早く、早く! と。
早く、って……何をすればいいんだ?
どこか知らない場所の自販機の前で足を止めた。僕がコンビニで買った缶コーヒーと同じものが売られている。ちょうど手に持っていた方は飲み干していた。となりにあったゴミ箱に缶を捨てて、同じ缶コーヒーをもう一本だけ買った。周りに誰もいないのをいいことに、だらしない不良みたいに自販機の傍らに腰を下ろす。コンビニで買ったのとまったく同じ味が口の中に帰ってくる。値段はこっちの方がほんの少しだけ上だけど。
たぶんだけど、今の僕はとてもナンセンスなことを考えている。手持ちの情報だけではわかりようもないことにいつまでも食い下がっているんだと思う。
発想を逆転しろ。もっと建設的でタメになることを考えるんだ。
僕がここに戻ってきた理由を考えるのではなく、僕がここに戻ってきてすべきことを。それはいったいなんだ?
答えは音速でやってきた。まだ一口しか飲んでない缶コーヒーをゴミ箱に捨てて、冬の北風を掻き分けながら走った。
ステーションスクエア駅の前までやってきたとき、酷く頭痛がして足を止めてしまった。僕が最後にここに来たのは今日のはずなのに、この姿の駅前を見るのは二年ぶりでもある。矛盾した記憶が頭の中でせめぎ合って目眩がする。
人混みの中を縫うようにして駅に入ると、図体のでかいキャンピングカーが階段を駆け上がる姿を幻視した。その後を追いかけるようにホームへ向かう。よくこんなところを通ったなと溜め息を吐きながら、まるで僕のことを待っていたと言わんばかりの電車に乗り込んだ。都会を通る路線なのに、僕の乗る車両には他に誰も乗っていなかった。
空調の暖かさが、今が冬だということを再確認させる。音を立ててドアが閉まり、電車が緩やかに走り出す。誰もいない車両の中で、僕は本来ならすっかり消えてしまうはずだった夢物語を思い返す。
疫病神みたいな黒いスーツの女。気が弱いくせに押しの強い文学少女。中学生の僕とは知り合ってもいない二人だ。
だけど、どこかで見覚えがある気がする。少なくとも中学時代ではない。小学生の頃に会ったことがあるんだろうか。だけど、当時のことはほとんど覚えていない。僕にとって小学校は居心地のいい場所じゃなかったし、あの頃は漫画とかゲームとか、自分の世界の為だけに生きていたから。
僕の記憶の全てがあの二年間に囚われていて、過去のことが思い出せないでいる。
何か大事なことを忘れている気がする。僕の過去に、誰かがいた気がするんだ。
文学少女か?
黒スーツの女か?
僕の大切な友達か?
よくわからない。傍にいたやつのことじゃなくて、僕とは何も共有しなかった、他人のような誰かが、確かにいた気がしたんだ。
あの二年の最後に、ヒントがあった気がしたんだ。
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今日の一日は、何度も何度も眠っていた気がする。そのせいか、ミスティックルーインに着くまで逆に目が冴えてしょうがなかった。
雪こそ降っていないが、あの世界で感じた寒さと似たようなものを感じてそわそわする。階段には穴なんてあいてなかったが、どこに穴をあけたのかなんとなく覚えていたので、そこを避けるようにして慎重に階段を下りた。
大きな音を立てて霧を作り出している滝壺を尻目に、切り立った崖に沿って歩く。ダンボールがあったら乗って滑りたくなるような傾斜を、転ばぬよう慎重に降りる。石の階段を通り過ぎてちょっとした谷を進むと、左手側の岩壁に穴があいていた。天然のチャオガーデンに通じるトンネルがある場所だ。
中に入って先を見てみると、気の遠くなるような雪の壁はなく、至って普通のトロッコと線路があった。僕が必死こいて雪を掘り進んだ過去が消えてなくなる。ちょっと寂しく思いながら、僕はトロッコの横を通り過ぎて長いトンネルの中を進んでいく。
思い出したように震えが帰ってきた。怖い。この先にあの子が待っている気がするけど、それはやっぱり僕の夢でしかなくて、ただの願望でしかない気がする。体を支える力がなくなって動けなくなってしまうあの感覚が、僕の心を脅かしている。
もし、結局あの子がいなかったら。あの子の死は覆されたものじゃないのだとしたら。僕はどうなってしまうんだろう。再びあの世界に戻るのか。また僕の知らない世界へ行くのか。それとも何も起こらないのか。
わからない。先が見えない。ただただ怖い。だけど、足を止めることができない。
視界が少しだけ白んだ。もう出口だ。とっくに昼は過ぎているのに、眩しくて目を逸らしてしまう。
僕の顔に何かがぶつかったのは、ちょうどそのときだった。ちょっと軽いサッカーボールみたいなものが、勢いをつけて僕の額に体当たりしてきた。帽子は吹っ飛び、伊達眼鏡は地面に落ちてしまう。
「いってぇ……」
意識は飛ばされなかった。代わりに体をガチガチに固めていた恐怖がどこかへ消え去っていった。スープが無かっただけマシかと思いながら、ボールの飛んできた方を見た。
ダークチャオがいた。