10:結末部
目覚ましが好きな人なんてそうそういないだろう。という理屈で、僕は目覚ましを使っていない。だが時間通りに起きれる人間でもないので、いつも彼女が僕のことを起こしにくる。
「ほらほら、もう朝ですよ」
彼女の声が聞こえる。ムカつくことに、カップラーメン特有のにおいが僕の鼻先を刺激しまくっている。
「早く起きないと、このまま目の前で麺を啜りますよ? アツアツのスープが顔に飛び散ってあっついですよ?」
「ざけんな」
諦めて起きる。外は眩しいくらいに白くて、寝ぼけた頭が今の状況を思い出す。そういや昨日は重労働だったな。
「いま何時だ……?」
「6時ちょっと過ぎです。昨日は時計感覚がなかったかと思いますが、実は概ね早い時間に寝ていたのですよ」
そうだったのか。深夜過ぎに寝たつもりでいたんだが。見ると、少女もすでにカップラーメンを食べ終えて昨日と同じ防寒着に着替えている。……カーテン越しに。見えてないですよ。
「あなたの分も作ってありますよ。この冬限定の激辛カップ」
「ざっけんな」
朝からそんなもの食ったら胃がいかれるわ。
「じゃあこっち食べますか? 私の食べかけ」
「いやだ」
諦めて啜った激辛カップ麺は、僕の汗と涙と鼻水になって体から溢れ出た。ちっとも栄養補給にならないじゃないかよ!
―――――――――――――――――――――――――
昨日どこまで掘削作業を進めていたか全然覚えてなかったが、彼女が目測で「50メートル前後ってとこですかね」と言ったときには滝壺まで走ってダイブしてやろうかと思った。あんなこっ恥ずかしい啖呵切って猪みたいに掘り進んだっていうのに。
「十分いいペースだと思うんですけどね。シャベルもスコップも使ってない割には」
そうなのかなぁ。比較対象がないからわかんないけど。でも体育の時間で走るのよりちょっと短いくらいだぞ?
「大丈夫ですよ。昨日は二時間くらいしか作業してませんでしたから。今日本気でやれば、もしかしたらガーデンに到着するかもしれません」
逆に言うと今日本気でやらなかったら終わんないわけだ。
「誰だよここ掘ろうとか言った奴は……」
ツッコミ待ちだったが誰も相手してくれなかった。
だが、無駄口を叩いてる余裕がないのも確かだった。正直に言って昨日の睡眠程度ではまだまだ体力も回復しきれていないが、この雪の壁が実際にどれくらいの距離まで続いているのかわからないのだ。サボればサボるほど、僕らはこの極寒の地から帰れなくなる。
というわけで、再び先の見えない掘削作業が始まった。昨日はほとんど無意識だったが、今日は比較的大丈夫だ。昨日よりはちゃんと時計の感覚がある。
「っていうかなんだよこの雪、ちくしょう」
昨日は全然気にしていなかったが、掘った雪が凄く邪魔だ。基本的に掘った分は岩壁に寄せておいてあるのだが、なかなか融けやしないので徐々に僕らの足場にしてある中央部分に崩れる。これに足を取られると凄くやり辛いし、三人並んで雪の壁を掘るというわけにもいかなくなり、非常に効率が悪くなる。
そこで計画を変更。雪の壁を掘るのは僕一人で担当し、あとの二人は掘った分の雪を外に捨ててもらうことになった。雪を運ぶ道具なんてないから、そこはやっぱり大き目の本を使うしかない。少女は別になんの問題もなかったが、官能小説を使って雪を運ぶ奴を見たときは思わず尻を蹴っ飛ばしてしまった。この期に及んでネタに走れるとは大した余裕だ。
それでもだいぶペースは上がったと思う。足元の邪魔な雪が減ったこともそうだが、何度もハンマーを打ち付けたせいなのかわからないが、雪が全体的に柔らかくなってきた。途中で本を捨てて、ハンマーだけで掘削していく。うん、とても効率がいい。
「っていうかなんで本使って掘ろうとか言ったんだよ。バカじゃないのか」
独り言である。誰もつっこんでくれません。ちなみに偶然積んであった六法全書(!?)以外の本は既に十冊以上がダメになった。
「せっかく買ったのに……」
知らねえよ誰も読まねえよ。役に立っただけマシだろうが。とにかく掘削がやりやすくなったおかげで、いよいよ僕は調子に乗り始める。ちょっと触れただけで全員吹っ飛ばせそうな勢いでハンマーを振り回し、ガシガシ雪の中を掘り進んだ。途中で二度ほど崩落した雪に埋もれたが。こいつが岩壁だったら死んでるところだ。
「実はちょっと楽しんでません?」
否定できない。物を壊すってのは楽しいものなんだな。将来は解体屋になるのも悪くないかもしれない。
しかし、いいペースだと思っていた掘削作業も、五時間弱経ってもまだ終わらなかった。お昼休憩を告げられたとき、僕は有り余るガッツを消耗しきって雪に埋もれたまま寝ていたところだった。
「昔はお遊びで雪食ってたもんだな……」
とかいいながらもしゃもしゃ雪食ってるところを引っ張り出された。
「朝の激辛カップより酷いもの食べてちゃ世話ないですね」
「酷いものとわかって買ったんだなお前は」
体中に付着した雪を振り払い、彼女の持ってきたカップ麺を受け取る。立ちのぼる湯気が冷たくなった僕の顔をとかしていく。
それにしても不思議な光景だ。よく知らない文学少女や怪しい黒スーツの女と一緒に、極寒の僻地のトンネルでカップ麺を啜る。たぶん滅多にないシチュエーションだろう。
岩壁に背を預けて、僕らの掘り進めてきた道を振り返った。向こう側はとっくに見えていない。昨日の倍以上のペースで作業できたおかげだろう。どちらかといえば雪を外に運び出している二人の方が大変そうだった。
「あとどれくらいあるんだろうな、この雪……」
「さすがにそこまではわかりません。今日中に開通できそうな雰囲気ではありますが」
案外もうすぐそこなんじゃないのかなと思って、おもむろに座ったままの体勢でハンマーを投げつけてみた。これでハンマーが向こう側にすっぽ抜けたり、雪がボロボロと崩れたりして向こう側と繋がれば面白かったのだが、悲しいかなハンマーはどすんと雪の壁に埋まっただけだった。
「先が見えないっていうのがやだな。まるで人生みたいだ」
なぜか自分の口からするっと恥ずかしい言葉が出てきた。慌ててカップ麺を啜って誤魔化すが、二人の耳にはしっかり聞こえていたようだ。
「人生、ですか?」
「う、うん。それっぽいなって」
隣に座っていた少女が僕の顔を覗き込んでくる。向かい側にいる奴はニヤニヤしてる。湯気でよく見えないけど見なくてもわかる。
「そういえば、人生は先の見えない方が楽しいって言いますけど、こっちはそうでもないですね」
「僕としては人生の先が見える見えないなんてどうでもいいけど、どちらかと言えば見えた方が嬉しい」
「そうですか?」
「そうだよ。だって僕の人生、先が見えようが見えまいが楽しくないもん。それなら見えた方がまだマシだよ。楽しい楽しくないで括ってる連中はバカだ。そんなの主観の話でしかないのに。先が見えて好き放題できた方が、僕は楽しいだろうね」
「わたしは……ううん、わたしも見えた方がいいと思います。先のことがわからないと大変ですもんね」
「あらあら、お若い男女が揃って現実的なこと。これも時代ですかね。すっかり冷え切ってしまって」
まるで歳を食ったような物言いだ。ずるずると麺を啜っては溜め息を吐いて首を振っている。
「特にあなたなんて、高校二年にもなって未だにクラスメイトの顔も覚えないで……青春って知ってます? 青い春って書くんですけど」
「知らないよ。異文化か何か?」
この歳にもなってくると、自分の人生のつまらなさには慣れっこになる。スープだけになったカップを手に、雪に埋もれたハンマーを取りに行く。
「だいたい、お前ずっと突っかかってきてばっかだったじゃないかよ。僕の人生お前なんかに付き合ってたから無駄になったんだ」
「まあ、そんなに私のことが嫌いですか!」
「お前は僕に好かれてると思っていたのか?」
「いいえ全然」
よくわかってるじゃないか。やれやれと首を振りながら、ちょっと力を込めてハンマーを引っ張ったときだった。
何が起こったのかはしばらくわからなかった。掻い摘んで説明すると、額に硬いものがぶつかって意識が飛びかけたが、その硬いものが僕の手に直撃した拍子にカップが飛び上がり、顔にアツアツのスープがかかって無理やり意識を引っ張り戻されたのだ。
「いっで、あっぢい゛い゛い゛!?」
痛いのと熱いのとよくわからないことがいっぺんに起きて、僕は凄まじく混乱した。とにかく急いで冷やそうとして目の前にあるはずの雪の壁に飛び込んだが、なぜか雪の壁ではなく雪の地面へ顔から落ちた。かなり勢いよく埋まって息ができなくなり、僕は慌てて顔を引っこ抜くべく手を地につけて力を込めた。ぼすんと良い音を立てて顔が抜けるが、今度は腕が埋まって引っこ抜けなくなり、顔についた雪を払えない。顔を振り回してなんとか雪を落としたが、それでも視界は白んだままだった。
まあ、一言でいえば大変なことになった。辛うじて見えたのは、僕の額にぶつかったと思しき拳くらいの石ころだった。どこから飛んできたんだ、こいつは。
「だいじょうぶ?」
「ぜんぜん。助けてくれ」
「うん、わかった」
そういって僕の腕を引っ張ってくれるものかと思ったが、そいつは僕の埋まった腕の周りを掘り起こし始めた。不思議に思って目を凝らすと、そいつの手にはスコップが握られていた。もっと目を凝らしてみると、それは人間の手じゃなかった。
「……え?」
顔を上げて、もっともっと目を凝らしてみた。そいつは人間じゃなかった。
僕らよりも一回りも二回りも小さくて、水色で、頭の上に黄色い球体が浮かんでて――それは、僕が二年も見ていなかった懐かしい姿。
チャオが、僕の目の前にいた。
「はい、できたよ」
腕が自由になっても、僕はまだ動けないでいた。今日が何月何日か。朝に何を食べたのか。必死に覚えた大学の受験勉強まで。全部ぜんぶ頭の中から飛んでいってしまった。
どうすればいいんだろう。笑えばいいんだろうか。泣けばいいんだろうか。しばらく固まったまま考えて、それでもわからなくて、とりあえずなんでもいいから言わなくちゃと思って、口を開いた。
「……ありがとう」
それだけだった。多分いまの僕の顔は、中学校の卒業式のときよりも無感動かもしれない。
「どういたしまして」
チャオの方もなんでもなさそうに返事をして、しばらくお互いに睨めっこをしていた。その後ろにもう二匹ほどチャオがいた。三匹とも僕らのことを不思議そうな顔で見つめている。
「にんげんさんだ! ひさしぶり!」
「すごいね、このゆきをほってきたんだ!」
「さっきいしなげたのぼくだよー。だいじょうぶー?」
三匹ともポヨをハートマークにして僕に群がってくる。思わず腰を浮かして少しだけ後ずさってしまった。恐る恐る頭に触れてみると、懐かしい感触が手の中で蘇った。
顔を上げて、周囲を見渡す。チャオガーデン特有の綺麗な水辺で、またもう二匹くらいチャオが遊んでいた。とても信じられない光景だった。
「みんな……生きてたのか」
「うん。みんなでこっちにきたの」
「ステーションスクエアから?」
「えーっと。うん、そこから!」
「どうやって? 街はあんなになったのに」
「ちがうよ! ああなるまえにこっちにきたの!」
なんだって?
ああなる前に……つまり、大洪水が起こる前に?
「がーでんにくるひと、へっちゃったから」
「むりしてあいにくるひとばっかりになって」
「だからぼくたち、こっちにかえってきたの!」
無理して会いに来る人。それは、僕みたいな人ばっかりだったって意味なのか?
「たいへんだったよね。ぼくたちだけだと、おそとにいけないから」
「よなかにこっそりはこんでくれるひと、さがしたんだよね!」
「あのおねえさん、げんきかなぁ?」
夜中に……逃げ出した? おねえさんと一緒に?
あの子の死を告げられた日、帰り際に覗いたガーデンにチャオがいなかったことを思い出す。あのときには既に、チャオはここに移っていたのか。いったい誰がそれを手伝ったんだ?
疑問符ばかり浮かべる僕の横を、足音が通り過ぎた。文学少女が三匹の元に近寄り、屈み込んで目線を近づける。ふと、少女はかけていた眼鏡を外し、伸ばした髪を手で束ねて頭の裏に隠した。
「……あっ! おねえさんだ!」
他のチャオも口々に、おねえさんだ、おねえさんだと言って少女に駆け寄った。見ているこっちはわけがわからなかった。後ろにいた彼女も口を手で抑え、驚きを隠しきれない様子だった。
「知って……いたのですか? ここにチャオがいることを」
「……はい」
「なんで」
湧き出る疑問符を胸の内に無理やりしまいこんで、頑張って言葉を選ぶ。
「それならなんで、最初からここを目指そうって言わなかった?」
「全員をここに連れてきたわけじゃないから」
見慣れない――けれど、不思議と見覚えのある姿をした裸眼の少女は、寂しそうな顔でチャオの頭を撫でながらそう言った。
「オトナになってしばらくした子なら、急にいなくなっても死んだものとして扱われますから。でも、コドモだとそうもいかなくて」
「それで置いてきた子を確認するために?」
「そうです。……ねえみんな、ちょっと聞いてもいい? ここに他に来たチャオはいなかった?」
あんまりいい答えは返ってこない気がした。だってここにいるのはみんなコドモチャオだ。案の定、チャオたちの顔は寂しそうに陰った。
「ううん。……ねえ、みんなしんじゃったの?」
僕らの会話を聞いていたチャオが、ポヨをハテナにして聞いてきた。少女は優しい、けれど寂しい声で答えた。
「うん。みんな死んじゃったみたい。ごめんね、助けてあげられなくて。大事な友達だったよね」
「ううん。へいきだよ」
きっと転生した古株なのであろう三匹のチャオたちは、顔こそ哀しげだったが力強い言葉を返した。
「おねえさん、ぼくたちのためにがんばってくれたよ? だから、なにもわるくないよ」
「なんでもできるひとなんていないから、だいじょうぶ!」
「ぼくたちおとなだから! えーっと、きょよう、できるよ!」
許容。そのフレーズが僕の中の何かを弾き飛ばした。
あの子と過ごした日の一ページが鮮明に蘇る。忘れかけていたあの子の笑顔が戻ってくる。
「聞かせてくれ! ここに連れてきたなかに、ダークチャオはいなかったか!?」
「えっ……ダークチャオ、ですか? それはまあ、何匹か」
「なあ、ここにいるチャオはこれで全員か? 転生したのはお前たちだけか? その中にダークチャオだったやつは!?」
さっき雪もスープも口にしたのに、酷く喉が渇いている。体中の水分がどこかへすっ飛んでしまったかのような焦燥感。
「……いないよ」
でもそれは、ただの錯覚だった。さっき顔に被った雪が解けて顎を伝い落ちた。手袋の中が汗でじんわりと濡れている。
「しろかったのと、くろかったのは、みんなしんじゃった」
「しろかったのは、あえなくてさびしいからって」
「くろかったのは、あえなくてもだいじょうぶだからって」
「……なんだよそれ」
勝手じゃないか、そんなの。会えなくても大丈夫ってなんだよ。お前を失った二年間、僕はちっとも大丈夫じゃなかった。
「おにいさん、あのあたまのいいこのともだちだったんだ」
「……うん」
あいつ、仲間内じゃ一番頭が良かったんだな。全然知らなかった。
「あのくろかったの、いってたよ。ぼくがいると、あいつはだめなんだーって」
「このままじゃ、しょうらいずーっとひとりぼっちだーって」
なに言ってるんだよ。お前がいなくなったあともずっと独りぼっちだったよ。
「きっとおたがいにであうことがなければ、あいつはしあわせになれたんじゃないかって。そういってたよ」
「……ばか言うなよ」
長いあいだ流し方を忘れていた涙が、とめどなく溢れてきた。ずっと閉じ込めてきた感情が、僕を押し潰そうとする。
「そんなこと言うのやめろよ。僕らの過ごした時間が無駄だったって言うつもりかよ」
だけどそれは、僕でさえも思った、目を逸らしたい考えだった。僕とあいつは、こんなダメなところで似てしまった。
「そんなわけ、ないだろ? 僕ら、友達だったはずだろ? 一緒に話したり、遊んだりして、楽しい時間を過ごしたはずだろ? 無駄っていうなよ。やめてくれよ、そういうの……頼むよ……」
体が支えられなくなって、雪の上にくずおれた。体中を侵していく寒さであっという間に死んでしまいそうだ。
「頼むよ……もう一度会わせてくれよ……僕、なんのためにここまで……なあ……」
あとは涙と嗚咽しか出てこなかった。
全てはどうしようもなく手遅れで、何もかも失われてしまったあとだった。
おかしいだろ、こんなの。ここにあるのはハッピーエンドで、大切な友達と再会できるはずじゃなかったのかよ?
違ったのか。そんな都合の良い話はどこにもなくて、全部ぜんぶ、ただの夢物語でしかなかったのか……?
「大丈夫です」
そんなとき、僕の肩を誰かが叩いた。
「あなたの大切な人は死にません」
聞き覚えがある。鬱陶しくて、でも優しい声だ。
「私が保障します」
頭の中で、僕の人生が急速に動き出すのを感じる。
僕の背中を、途方もない時間が滑り落ちるのを感じる。
「今度こそ、良い夢が見れますよ」
その言葉を合図に、時の重力に放り込まれた。冷たかった雪の感触を突き抜け、上か下かもわからない方向へ落ちていく。
ここはいったいなんだろう? 現実ではない。夢の世界か? わからない。なにも見えない。
だけど、不思議と不安はなかった。ここから先で、誰かが僕を待っている気がするから。
そして僕は、元いた場所へと戻された。そこはあの日の、つづきから。