〈二章〉(3)
——ラサバ区、イトラス山脈、ベルベ砂漠側 AM5:30
あの日から、二日後。
——もうすぐ夜が開ける時刻。
まだ、太陽は空に浮かびあがってこない。
だが、もうすぐそうなるのであろう、地平線彼方まで続く礫岩だらけの荒野はほのかに熱を帯びたかのよう、オレンジ色の光を纏っている。マラシュケ側から見た山脈が緑で覆われているのもあって、何度見てもそのギャップに驚かざるを得ない。
俺と黒猫はドラゴンの上に括りつけた毛布にくるまりながら、夜を過ごした。
遺跡までの道のり。昔は舗装された道路があったらしいが、今の時代ではすっかり荒れ果て、とてもではないが車で行ける場所では無くなっていた。
俺たちのドラゴンは文句ひとつ言わず、のっしのっしとゆっくりゆっくり歩を進めていく。
古代のドラゴンには翼を持つものや、炎を吐くものもいたらしい。
しかし、現代にわずかに残るドラゴン種は体内で生成する魔素の種類を遺伝子的に随分と減らし、飛ぶことはおろか、炎を吐くことも珍しくなってきている。相変わらずの身体能力はあるので、長距離の旅には向いているのだが。
「ところで、さっきからずっと読んでいるんだな、それ」
俺は頭から上を毛布の外に出しながら、同じようにして、寝っ転がって本を熟読している黒猫に話しかける。
——太陽と月の冒険。
魔術における権威であった古代の文豪が残したとされる名作。全て魔法用の言語で書かれているため一般人には読むことはできない。が、ウィッチいわく、魔術を使える人にとってはのどから手が出る内容が書かれているらしい。
「誰からもらったの? これ」
書物から目を離さないまま、そう訊いてくる。
「ウィッチから」
「……ふうん。白猫ちゃんの、いる時?」
「いや、お前が寝た後。白猫に見つかったら何をされるやら」
何気なくそう漏らすと、黒猫は顔を上げ、わざとらしいくらいに顔を歪めて俺の方を睨んできた。
「なんだよ」
「夜這い……? それ」
「そう言うわけじゃない。一階でタバコを吸っていたらアイツが突然現れたんだ。それで家の前でだべっていただけ」
「ふうん……まァいい。あたしは、白猫ちゃんみたいに、すぐ感情的には、ならないし」
黒猫は暫くこっちの方を何とも言えない表情で見ていたが、やがて黙って書物の方に目線を戻した。
「ただ、あたしも……」
呟きかけて、あ、と慌てて話題を変える黒猫。
「うん、まぁ、ウィッチさんのことは、白猫ちゃんには言わないでおく。なるべく隠すようにするから」
「あ、あぁ、そうしてくれ」
先ほどよりも、太陽の頭が出てくる。
まるで、赤橙のランプが徐々に地下に閉じ込められた世界に入り込んでくるかのように。
「黒猫、読書、集中しているところ悪いが」
「うん?」
「そろそろ、交代の時間だ。あんまり白猫を寝不足にさせない方がいい。怒られるぞ?」
「むぅ。……仕方ない。太陽だけ見たら、もう一度寝る」
「あぁ、今日は突然夜中に起こして悪かった」
白猫には今回の事を直接口頭で伝えた——黒猫と白猫が上手くコンタクトが取れなかったらしい——のだが、黒猫にはそれらしいことを最初に言っただけで詳しい日程までは言っていなかった。
「だいじょぶ、あたしも久しぶりに沢山起きれて楽しかった」
はにかんだ笑顔を見せてきた彼女は、本をしおりに挟むと、それを大事そうにカバンの中に戻した。
そうして、顔だけを毛布から出すと、夜明け前の空をじっと眺める。
「お連れさん」
「何?」
「広場とか、お買い物とか、喫茶店って、楽しい?」
「さぁ、それは人次第だ」
「……夜明け前に、たまにベッドから起きちゃうとき、ある。そんなとき、いつも、白猫ちゃんのこと、羨ましくなる」
「確かに、昼の時の方が、楽しいことはいっぱいできるのかもしれないな」
黒猫は寂しそうに段々と朝を迎える世界の空気を吸った。
はぁ、と吐きだした空気は、まだわずかに白くなる。黒い髪の毛に赤い光のラインが入って、黒猫の横顔がいつもより少し綺麗に見えた。
「それから……」
「ん?」
「……黒猫っていう、女の子は」
いつの間にか、彼女は心配そうな目でこちらの方を見ていた。
「必要な、コ?」
「え?」
「お連れさんにとって、あたしって、役立ってる? 魔法くらいしか取り柄が無い、しゃべり下手で、家事も出来なくて、あんまりお洒落にも興味がない、女の子な、あたし」
太陽がどんどん昇ってきて、その髪の毛の色が段々と白く薄くなっている。いよいよ、この荒野も赤く燃え盛るように輝き始める。
黒猫も何だか意識の奥に戻されそうな、朦朧とした瞳になっていた。
いきなりの質問で、答えが見つからない。
一言で答えを言うことはできる。だけれども、理由は、と聞かれたら、何とも答えられないかもしれない。言って良いものなのかどうか。
「お連れさん」
「……あ」
「別にあたしは傷つくとか、そういうこと、考えて、無い、から」
——嘘だ。
瞳を若干潤ませたままそんなこと言っても何の説得力もない。
嘘をつくのが下手なところは、〈どちら〉もよく似ている。
「ったく、もう」
俺は仕方なく、ガシガシ、と彼女の黒髪を撫でた。整えられていた髪型が少し崩れてしまうが、白猫には寝ぐせと言っておけば素直に信じてくれるだろう。
そして、肝心の彼女は、呆けた表情でこちらの方を見ていた。
「ほあ……」
「そう言うなぁ、俺を困らせる質問をするんじゃねーよ」
「だって、だって……たまに、質問したい時かって、ある……もん」
「必要だ」
「……。……え、あ」
「ちなみに、理由なんてない。ほら、安心したらさっさと交代しないと、白猫に怒られるぞ?」
「う……ん」
何故そんなことをいきなり質問してきたのか、と逆に質問したかったが、彼女にも何か思うことがあるのだろう。
今は、そっとしておくことにした。
「(……他の女のコの事、好きになったら、あたしの方が、きっと、めんどくさい、よ?)」
黒猫が、なにか独り言を漏らす。
「え? 何か言った?」
「なんでもない」
彼女はフフッと軽く笑ってそっと目を閉じた。
——同時に彼女の髪の毛の色が目まぐるしく変化し始める。
それはまるで一秒に何度も朝夜が回っているような、そんな光景。
黒から白へ。
白から黒へと、何度も、何度も。
だが、数分もしないうちに、その色は白にとどまり始め、最後には完全に真白な髪の毛となって、朝の心地良い風に揺らされていた。
「……おはよう、白猫」
——??? AM6:00
草原の香りが朝になったことを伝えます。
あぁ、そろそろ、あたしの出番というわけですね。
だけれども……何だか雰囲気が違います。
——あれ? ここは、どこの街なんだろう。
どこからともなく流れてくる気持ちの良いハープの音。
空を見上げれば、明るいはずの街に、大きな三日月が、ポツリと浮かんでいます。
なんだか、ファンタジーの世界に入りこんでしまった気分。
街を作る建物は、あるいはパン屋さんだったり、お洒落な喫茶店だったり、服のお店だったり。街の住人は、みんな西洋風のデザインの良いのを着て闊歩していました。
——あぁ、あたし、あんな服着たことないのになぁ……。
そんな彼らを思わず羨ましく思って見てしまうあたし。
ふと、自分のいる大きなレンガ道の坂を見渡すと、遠くの方に海が見えます。
ハチリア島の時も綺麗な海が見れましたが、そことはまた違いました。
何とも言えない、想い出が詰まったような碧い、——海が、見えるのです。
あぁ、そうだ、この世界は——
「交代だよ」
「うわっ」
突然後ろから声を掛けられて、あたしはあわててそっちの方を振り向きます。
手をパタパタと振りながら、いつも通りの半目の眠たそうな顔をした黒猫ちゃんが、立っていました。
と、いうより、本気で眠たそうにあくびをしたり、目をこすったりしています。
「何していたんですか?」
「本、読んでた」
「あー……もう。どうせなんか魔法書のいいやつでしょ?」
黒猫ちゃんは、あたしが朝昼にとても眠たくなることを知っていながら、読書だけは熱中して徹夜も辞さない悪い子ちゃんですから困ります。
あんな文字、あたしには全然読めないので分かりませんが、何が楽しいんでしょうね?
「太陽と月の冒険」
「タイトル?」
「そ」
あたしはこめかみに指を当てながら、彼女のために洵さんのお金で買った何冊かの本の表紙を思い出します。魔法書は文字は読めませんが、絵がかなり豪華に書かれている表紙のモノがあるので、それでどういう魔法の本かは分かるのです。
ただ、あたしの買ったものにそんな太陽や月が書かれたものはありませんが……。
「お連れさんがくれた」
「……へ? は、ははははは……。……はいいいいい!?」
あたしは思わず黒猫ちゃんの襟を掴んでしまいました。
失言してしまった後の顔をしながら黒猫ちゃんがこっちを見ます。
何か不良青年になってしまった気分ですが、今はそれよりも問い詰めたいことがあります。
「なんで? どうして? それって、プレゼントじゃん!」
「い、いや、ちが」
「もー! あたしには最近殆どお小遣いくれないのに!」
「大丈夫。明日からは普通に上げるからって、お連れさんが言ってた」
「で、でも、プレゼントとか! しかもそれって絶対、黒猫ちゃんの好きなものだって分かってやってるに決まってるよー!」
頭を抱えたくなっちゃいます。
それをちらっと一瞥した黒猫ちゃんは、何だか申し訳なさそうな顔……というか、何だかマズったなぁという顔をしてあたしから目を反らしていました。うう……。
た、確かに顔は同じだし、体型も同じだし、黒猫ちゃんにプレゼントというのは、つまりあたしに、って言うことも承知しているつもりだけれど!
でも、でも、なんか悔しい!
「お、お連れさんは、あたしのモノです!」
「こんな道端で、そんな恥ずかしいこと、言うものじゃないよ」
「う~、でもでも、家事洗濯お買い物そして子供の世話! 全部あたしがやっているのにぃっ」
「こ、子供はいないけど……」
キーッとハンカチ……はなかったので普通に自分の服を噛むあたし。
黒猫ちゃんがなんだか終始いたたまれない表情をしているのが余計に癪に触ります。
「んもう、たまに会うときくらい、仲良く、しよ?」
首をくいっと軽く横に倒してあたしの方を見てくる黒猫ちゃん。
「……じゃぁ、誓いましょうよ。黒猫ちゃんは、お連れさんには興味がないって」
苛立たしくなってしまうのは仕方無い、と自分で言い訳しながらそんなことをまくしたてます。
「それは、無理」
でも、彼女の答えは、即答でした。
「ど、どうしてー……」
若干うろたえながら、その理由を問いただします。
「だって、あたしも、お連れさんのこと、好きだもの」
——へ?
いや、今のは多分、黒猫ちゃんが良く言う悪い冗談です。
あたしって、そう考えると、本当にいろんな人からいじられますよねぇ。
なんででしょう? そう言う性格なんでしょうか?
でも、黒猫ちゃんはちょっと悪い冗談すぎます。だって、彼女は、いつもあたしとお連れさんの事を考えてくれて、何かとあたしに構ってあげられるようにお連れさんに掛けあってくれるんです。
そんな彼女が、いくらなんでも同じ人が好きとか、……ねぇ?
「今まで気がつかなかったのも、結構、すごい、けど」
「う……ウソ、ですよね?」
「んー。例えるなら、生きた冗談、みたいな」
「ほぇぇ? ……あぁ、成程、それはつまり現実に実在する嘘だということですかってそれ本当だって意味じゃないですか!」
「うん、そうだよ。あたしもお連れさんが好き」
「で、ででででも、そんなはず、そんなはず……!」
「同じ脳みそで、生きているんだし。仕方ない」
自分で言ったことに、自分で納得してしまう黒猫ちゃん。
その瞬間、この街に誰一人として仲間がいなくなったような気分になります。
まぁ、あたしたち二人以外、多分義手義足の人間たちなのでしょうけども。
「あたし、もう誰もお友達いないや……」
「うん、なんで? 白猫ちゃんの事は、あたしずっと、友達だと思ってるけど」
チャオちーならば頭の上にはてなマークを浮かべるであろう表情で聞いてくる彼女。
「だって、考えたらそうじゃん。好きな人が同じ女性が二人、仲良くなんて」
「出来る、よ」
「え……」
「あたし、これからも、白猫ちゃんの恋、応援するし」
とぎれとぎれの眠たげな口調ですが、そこにははっきりとした意思がありました。
あたしはそれで少し黒猫ちゃんの事を信用できるようになって、彼女と再び見つめ合う格好になります。
「あたしは、髪の毛は黒い、けど、腹黒いのは嫌い。だから、白猫ちゃんの恋は応援することにしてるの。たまに、迷っちゃうけど。でも、あたしの中の答えは、彼の返事だけ」
「彼の、返事?」
「白猫ちゃんが好きって言ったのなら、あたしは白猫ちゃんを応援する。友達として。あたしを好き、って言ったのなら、あたしは自分の恋を、精一杯頑張る。根暗だけど、頑張って笑うし、お話も沢山したい」
「黒猫ちゃんって、強い……」
あたしはさっきのしょうもない怒りを忘れて、ポカンと口を開けてしまいます。
黒猫ちゃんはそんなあたしを苦笑いで見てきました。
「強くない、よ。もしも、お連れさんが第三者を選んだのなら、多分あたし、白猫ちゃんよりも嫉妬すると思う」
「おぉ怖っ」
「魔法も、使えるしね」
指先にスッと何かを唱えて炎をともす黒猫ちゃん。
あたしの身体を思わずぞぞっとした震えが走り抜けていきます。
「冗談」
「んもう、酷い、黒猫ちゃん」
「多分、すんごく泣いちゃうから、その時は慰めてね、白猫ちゃん」
「ん。あたしも泣くから二人でワンワン泣こうね」
どちらからともなく、手を差し出し合います。
そして、二人でそれを、キュッと握りました。
何だか、同じ身体同士なのに、お互いの熱が伝わってくる感覚がします。
「また、たまにお話ししよ。白猫ちゃん」
「ん、そだね。じゃあね、黒猫ちゃん。あたし頑張る」
あたしの身体が段々と薄くなります。
夢の世界から、そろそろ起床という合図です。
黒猫ちゃんはそれを穏やかそうな目で見ながら、一言、何かを言いました。
「本当は猫はもう一匹いるんだけどね——ね、灰猫ちゃん」