三話 ヒビ入りのガラス球
稽古が終わるとニカが「ガラス球を買いたいから付き合って欲しい」と俺のもとに来た。
「ヒビ入りのガラス球、どこにも売ってないんですよ」
俺はガラス製品をよく買ってくるので、ガラス通だと思われているのかもしれない。
わかった、と言ったところで、細工屋にミヨ婆がいなかったことを思い出した。
「朝見たら婆さんいなかったから、買えるかわからないけどそれでもいいか?」
「いいですよ」
少し歩くと、すぐにかまくらのような細工屋が見えた。建物が多くないこの町で、ミヨ婆の細工屋は遠いところからでもわかる。
「あのかまくらが俺の行きつけの細工屋ね」
「本当にかまくらみたいですね」
「ババアいるかな」
細工屋に着き、ドアを開けると事務用の机に向かって何か書物をしているミヨ婆が見えた。ミヨ婆はこちらにはまだ気づいていないようだった。機械も何台か動いていてうるさかったので、近くに寄ってから声をかけた。
「ミヨ婆、お客さんだよ」
ミヨ婆はビクッと跳ねてから、こちらを見た。
「お前か、ビックリさせるんじゃないよ。あたしのガラスのハートがもう少しで砕け散るところだったよ」
「ごめん、仕留め損ねた」
「釜にぶちこまれたいのか?」
ミヨ婆の机の上にはA3サイズの図面と、その上にA4の紙が何枚か散らかっていた。いつも作っているガラス製品にもこれだけの資料が必要なのだろうか。俺の視線にミヨ婆は気づくと、
「見たってわからんよ」
と言った。
「そんで本題なんだけど、ヒビ入りのガラス球って売ってるか?」
「うちは販売店じゃないから売ってはいないね。うちがやってるのはオーダーメイドとうちで作ったものの修理だけだよ」
「じゃあ作ろうと思えば作れるか?」
「お嬢さんのオーダーだろう? お嬢さんはどんなものが作りたい? ヒビって言ったって色々な形があるからね」
ミヨ婆がニカの方を向いたので俺は少しどいて、二人が向かい合った。
「あの、説明するのが難しいんですけど、すでに割れているのに形は保っている、みたいな」
「球って言うくらいだから形は球だろう?」
「そうです」
「ヒビは一筋かい? それとももうグシャグシャに線が入っているような状態? あと大きさは?」
「ヒビは一筋で、大きさは15センチがいいです」
「なるほどね。見た目上そういう形のものは作れる。実際にヒビを入れると強度が格段に落ちるから、実際のヒビは作れないがそれでもいいかい?」
「大丈夫です」
「それなら金型から作る必要もないし、安く済むよ。500円と言ったところだね。あと10分待っててくれるかい」
ニカが「はい」と返事すると、ミヨ婆は作業を始めた。
工場のような内装なのにソファだけは多いので、そのソファにニカと二人で腰掛けて作業が終わるのを待つ。
この間も動いていたウォンウォンとなる機械は今日も動いている。正面から見ると、上顎と下顎があって、上顎だけが左右にスライドするような動きを繰り返している。何をしている機械なのかはわからないけど、素人目からするとただ動いているだけのように見える。機械のウォーミングアップのようなものなのだろうか。機械全体に顔のようなペイントを施したら、上顎だけが動くオモチャみたいになって子供受けするかもしれない。
ミヨ婆は釜の前で何やらやっているが、何をやっているのかはわからない。ミヨ婆ももう何回転生したのかわからないくらいの歳だし、もうそろそろまた転生してもおかしくない頃でもある。もしも作業中に転生してしまったら、そのとき作ってたものは悲惨なものになるだろう。
改めてこの細工屋を見回してみると、不思議なところだらけだ。ウチの道場よりも広い内装に、製品のようなものはほとんど見当たらない。壁は元々は白なんだろうけど、汚れて灰色になっている。そんな中に大きな機械が二つあって、そのうちの一つは先ほどのスライドする薄緑色の機械で、もう一つは新しく真っ白な機械だが動いていない。他にもサイズが何種類かある箱形の機械(この内の何台かは音がするので動いているようだ)があったり、大きな換気扇が回っていたり、金型がたくさんあったり、工具がたくさんあったり、釜があったりする。でも特に量産品を作っているわけでもなく、どこから収入を得ているのかわからない。この細工屋に訪れる人なんてこの町の住人くらいだ。本当は結構な赤字だけど、無理なサービスをしているのではないのか。いや、でもそんなことしてたらとっくに潰れているのか。よくわからない。
「そういえば、なんでヒビ入りのガラス球が欲しいの?」
「なんでって言われても。見た目が綺麗だからですよ」
「ヒビが?」
「そうです」
「そういうもんなのか。俺にはわからないなあ」
「わからなくても結構ですよ」
「そうか」
またしばらく細工屋の眺めていると、すぐにミヨ婆が作業を終えてガラス球を持ってきた。
「こんな感じでどうかな」
「すごい、ありがとうございます」
そして会計を終え、三人で店を出て、ニカが別れた。
「面白いオーダーをする子だったね、あの子は」
「ヒビが綺麗なんだってさ」
「なるほどね。いい感覚だ」
「ミヨ婆もヒビは綺麗だと思うのか?」
「ヒビにも美しさはあるだろうよ。お前はまっさらな状態から一気に割っちまうからヒビが入ってる状態をあんまり見ないだろう?」
ヒビが入っているガラスのイメージはできるけど、確かに実際に記憶の中から探りだそうとすると出てこない。
「見ないな」
「まあいいんだよ。何がいいかなんて人それぞれだ」
「便利な言葉だな」
「そうさ、揺るぎない真実だからね。それを許さない人もいるけど、あんたはそういうタイプじゃないからわざわざ気にしなくていい」
「考えるの面倒だからな」
「それでいい」
「そういえば、朝ミヨ婆いなかっただろ? どこに行ってたんだ?」
「ああ、作らなきゃいけないものがあってな。素材の下見だよ」
「へえ、やっぱりミヨ婆も大変なんだな」
「好きでやってんだから大変かどうかなんて考えたことないね」
「そうなのか」
「お前だって道場行くのが大変と思ったことがなさそうだ」
「ないね。そういうことか」
「だろう?」
次の日、いつものように道場についてポストを確認すると大会のチラシが届いていた。
『マッスルスタジアム開催のお知らせ』
ルールは3KO制で、首折りや目潰しと言った危険性の高いものは禁止、基本的には立って殴りと蹴りを駆使して戦うようだ。
この道場を開いてから、大会に出たこともなかったし、道場の生徒を出したこともなかった。
久しぶりの高揚感に震えた。