二話 裏鬼
道場は家から歩いて十分くらいのところにある。その途中でミヨ婆の家の前を通る。歩きながら中を覗くと、窯が見えるだけでミヨ婆は見えなかった。ミヨ婆が修理を受け付けている時間は決まっていないけど、大体このくらいの時間ならもう受け付けてくれる。今日は出かける予定でもあったのだろうか。だとしたら、今日家に帰るときはドアノブを壊さないように意識しておかないと、家に入れなくなるかもしれない。メモを取りたいが紙もペンもない。とりあえず頭に叩き込むことにして、道場へ向かった。
俺の道場は朝の八時くらいから開いていて、夜の六時くらいには解散するようにしている。途中参加や途中退出も許可している。楽しむということが第一の目的であるからだ。ちなみに、俺が開いている道場とは言っても、俺が行かなくてはいけない訳ではない。俺がいなくても稽古をしたいやつは来るし、休みたいやつは来ない。俺も行きたくない気分のときは行かなくてもいい。でも、今のところ俺は無欠席だ。俺は道場が好きなのだ。
道場へ着くと、俺よりも早く来ている子供が一人いた。この道場で一番の新参のぺーこという子だ。道場に来て2日目には既に"監督"というあだ名がついていた。多分。似たような名前の監督がどこかにいたからだろう。まだ一次進化もしていないが、色や体の変化を見るにヒーローチカラタイプに向かっている気がする。新参ということもあって、まだこの道場では一番弱いが、やる気だけは人一倍ある。やる気満々の雑魚だ。
「おはようございます!」
「おはようございます。監督、今日も早いですね」
「僕はスピードが命なんです。スピードで圧倒したいんです」
まだ彼には未来が見えていない。もっと言うと今も見えていない。
「僕にマッハパンチを教えてください!」
「まずは服を脱ぎます」
「略してマッパなんてさすがです!」
「理解が早いな」
「スピードで圧倒したいんです」
「ならもう十分だな」
「やったね」
こいつ多分強くなるんだろうなあ、と漠然と感じる。
道場の一番奥の壁際の床は一段高くなっている。その両端は太い木の柱がわざと見えるように立っていて、どことなく荘厳な雰囲気を持っている。そこを俺たちは神段(しんだん)と呼んでいる。神壇のような面持ちがあるのでそういう言葉になったのかもしれないけど、道場に来るやつらは段という言葉に夢を抱いているようで、辿り着けない一番上の段の象徴としてそう呼んでいる。誰が言い始めたのかは覚えていない。
その神段の中央には、俺がミヨ婆に頼んで作ってもらったガラスの兜が置いてあり、荘厳な雰囲気を助長している。なんでこんなものを置いたのかというと、神段に登って「俺が神だ」とふざけ出す子供が続出したからだ。大きいせいかどことなく神妙感があって、しかもガラスでできているので壊すのを恐れて神段に登る子供はいなくなった。作戦としては成功だったし、トゲトゲしい見た目なのに無駄がないところも結構好きだ。
兜を被っているぺーこを想像する。ちょっとふざけた感じがするのだけど、懐に入り込まれてさっと横に飛んだら、既にそっちにぺーこの軸足があって、頬に拳を思い切り食らう。「スピードで圧倒したいんです」とぺーこが言う。俺も神段の域で戦いたいと思う。
「ちょっと打ち合ってみるか?」
とつい口に出してしまった。下半身が一瞬すくんだ。
実際のところぺーこはそこまで強くならないと思う。俺の中にある夢がぺーことは関係なく現実の中に顔を出しただけだ。
「え、いいんですか?」とぺーこは明らかに喜んだ顔を見せる。
ぺーこがやりたいというのはわかっていた。自分がやりたいと言えないからぺーこに言わせた。そんな事実が不意に出てしまったことが情けなかった。
防具とグローブを付けている時に、マミとニカが道場に入ってきた。この二人も女性ながらこの道場の常連だ。
「あれ、マックルさん監督とやるんですか?」とニカ。
「ああ、ちょっと現実を見せてやろうと思ってな」
「監督、ぶっ殺してやりな」とマミ。
「おい」
この打ち合いでは五分間で、どれだけの有効打を与えられるかを競う。タイムウォッチャーも有効打の判断も俺がやろうと思っていたが、せっかくなのでマミとニカにやらせることにした。マミはタイムウォッチを見て、開始時と終了十秒前と終了時にゴング(これも俺がミヨ婆にガラスで作ってもらった)を鳴らすだけなのでそれほど難しくないが、ニカが行なう有効打の判断は難しい。ある意味では正解がないと言ってもいいかもしれない。特にニカは相手の有効打を気にせず反撃する癖があるので、有効打を判断するのは苦手分野かもしれない。だが本人は特に嫌がる素振りもせず、すんなり受け入れた。
俺もぺーこも準備が終わって、道場の真ん中に対峙する。お互いに礼をする。ゴングが鳴る。
同時に、ぺーこがいつものように反復横跳びのようなステップを始める。正直疲れるだけだと思う。これでぺーこが勝ったところを見たことがない。
ただ最近、左右に行き来するだけのステップだったのが、右に二回動いたり、右に動くと見せかけて左に動いたりするようになった。進歩している。
でもまだまだで、俺から見て右側にステップしたときの着地を狙って右手のジャブを顔に当てる。これは有効打だ。ただ、本来パンチは内側に向かって打つ方が力が乗りやすいので、右側に動く相手に右手でジャブをしてもそれほどの威力はない。本気でやればこのジャブ一発でぺーこを倒すこともできるが、打たれたくない方の腕の方に動くのは一つの正解であるということを体で覚えてもらうために、力を調整する。
ぺーこは一瞬怯むが、またすぐに体勢を立て直す。その一瞬の怯みも本当は危ないと思いながら、ぺーこの手を待つ。
ぺーこは俺の右側に回り込みながら右のストレートを打つ。顔を狙っているが遠く、当たらない。そこから左のジャブが飛んでくるが、軽すぎて俺の右腕に防がれる。そこでぺーこは一旦下がった。道場の仲間たちにボコボコにされているせいか、相手の手を警戒する癖はついているようだ。
次は試しにこちらから右のジャブをワンパターンに連打してみる。ぺーこはガードを固めて少しずつ下がっていく。このままだとぺーこは不利だ。
ぺーこは思い出したように後ろに飛んで距離を取り、俺の右へ右へと回り始めた。ぺーこはやっぱり悪くないんじゃないかと思う。
突然ぺーこが飛び込んでくる。この打ち合いで初めて使う右のストレートで迎え撃ち、ダウンが取れると思った。が、ぺーこは俺の右ストレートを僅かな動きで避け、俺の懐に入った。とっさに俺は左へ飛び退く。ぺーこの右足は既に俺の左側にある。神段からぺーこの右手が飛んでくる。
ぺーこの頭が弾けるように遠ざかった。俺の左拳がぺーこの頭を捉えたのだ。ぺーこは倒れて動かない。
「ぺーこ!」
やってしまった。粉々のドアノブが脳裏をよぎる。
マミとニカも急いで駆け寄ってきた。ぺーこの顔を見ると目を丸くしているので本当にやってしまったのかと思ったが、どうやらぺーこは驚きのあまり固まっているらしかった。俺の左拳はぺーこの頭を捉えきっていなかったのだ。
とりあえず一息つき、ぺーこを連れてマミとニカも一緒に倉庫と化している個室へ入り、長椅子にぺーこを座らせて怪我の確認をする。見たところ、これといった怪我はしていないようだった。
「死んだかと思いました」とぺーこ。
「殺したかと思いました」と俺。
「ふざけてる場合じゃないですよマックルさん。裏鬼は危なすぎます」
とマミに怒られる。裏鬼とは俺が最後に出した技のことだ。他の者が使えば明らかに力が入らないところから、バックスイングをせずに腕を突き出す。先ほどのようにぺーこが明らかに俺の左側を捉えていて、左腕では迎え撃てないような場面でも一撃でノックアウトが狙える、おそらく俺しかできない技だ。もちろん、右腕でもできる。裏鬼とは俺のことを何かの大会で見たやつが勝手に付けた名前だ。
「ごめんなぺーこ。咄嗟に出ちまった」
「いや、すごかったです。さすがマックルさんです」
「そうか」
それから何か話して、ふわふわした気分のまま道場の中へ戻った。
神段の前に立つ。ぺーこが俺の夢の中から飛び出てきた。こんなことが本当にあるのか、と思う。ガラスの兜を見ながら、俺はぺーこが無事だったことを安心しているのか、裏鬼が捉えきらなかったことを悔やんでいるのかわからないまま、次々と入ってくる仲間たちを迎えた。