三章
三章
夏休み明け、階段の踊り場で、男子グループが一人の女の子を囲んでいたあの光景を、今でもよく憶えている。
事情はよく分からなかったけれど、女の子は怯えている様子で、男子グループの何人かは怒鳴っていた。ぼくはとっさに椅子を持って出向いた。最初に言った言葉は、「おい!」だった気もするし、「何やってるんだ!」だった気もする。ともかくぼくは仲介に入って、喧嘩を売った。男子グループはあんまり柄が良いとは言えない生徒で、ぼくに何度か挑発したのち、殴りかかってきた。あまり喧嘩慣れしていない動作だったので、ぼくは簡単に避けたつもりだったけど、場所がまずかった。彼はよろけて階段から落ちた。どれだけ重傷だったかは分からないけど、男子グループが騒ぎを大きくして、救急車を呼んだ。
その後、ぼくたちは職員室に呼ばれた。ぼくは一か月の停学を言い渡された。女の子を助けようとしただけなんです、と主張はしてみたものの、当の女の子は襲われていたわけではない、と主張しているようで、要するに、ぼくは一人でピエロみたいに踊っていただけだった。
女の子にとっては、これだけ騒ぎが大きくなって、関係者だと思われたくない。男子グループにとっては、ぼくに何とか恥をかかせてやりたい。教員にとっては、保護者からのクレームに対し、納得のできる処分をしなければならない。正しくないことでも、それで世の中はうまく回るのだ。
ぼくが処分を受けるだけで。
ぼくはなんだか色々なことがどうでもよくなって、学校を辞めた。
「正義のヒーロー」として何をすればいいのか、よく分からなくなっていた。ありがちな悩みだけど、正しさとは何か、それがそのころのぼくの命題であった。
チャットルームで色々話した記憶がある。ホップスターさんが、「生きていればそのうちいいことありますよ」と慰めてくれたことが印象に残っている。そして、その翌々日あたりに、友達の妹から遊びの誘いが来た。高校を辞めた、と聞いて、連絡してくれたのだった。神田さんはぼくの一つ年下の女の子で、中学の後輩にあたる。何度か遊ぶうちに、告白されたので、ぼくは浮かれて付き合うことにした。そのころのぼくがいかに浮かれていたのかは、スマッシュさんがよく知っていることだろう。
高校は出ておかなければいけないと考え直し、ぼくは定時制の高校に入り直した。定時制の高校では、様々な年代の人がいた。一つ年下の龍二くんは、一緒にゲームセンターによく通った。同い年のゴローニャくんや、神田さんの兄も同じクラスに通っていた。ぼくと特別仲が良かったのは、ともちゃんだ。ともちゃんは、何かとぼくに構ってきた。オンラインゲーム、特にFPSゲームが大好きで、そのスキルは非常に高い。ゲームでともちゃんに勝てるものといえば、ガンダムVSシリーズくらいだ。スマブラでも、カービィでも、ともちゃんは男顔負けの実力で、文字通り「負けなし」だった。ちなみにともちゃんは現在も交流が続いている友達の一人だ。底抜けに明るい良い子で、ゲームが好き。勉強は嫌い。そんな子だ。
プールの監視員のアルバイトも始めた。みんな良い人たちで、和気藹々としていたけれど、だからこそぼくは居辛かった。表面上は仲が良いのに、裏では陰口を叩き合う。だけど、お金を稼ぐことと早々に割り切って、ぼくは「仕事ができるけど付き合いの悪い」キャラクターを確立した。
高校二年生は、事故にあって入院したりしたけど、そこそこ楽しい毎日だった。スマッシュさんとオフ会し始めたのも、このころだった気がする。スマッシュさんは当時、まだ今よりもひねくれていなかったので、普通の会話をして、普通に楽しんだ。スマッシュさんは、ぼくにとって「自分よりも生きることがうまい人間」で、「自分よりも頭の良い人間」で、「色々なことを行動に移せる実力を持った人間」であった。今では見る影もないけれど。スマッシュさんから吸収した能力は多い。今でも本気を出せば、ぼくよりもスマッシュさんのほうが適任であることはたくさんあると思う。
神田さんとの付き合いは順調だった。と、思っていたのは、ぼくだけだったのかもしれない。ホワイトデーが過ぎた三月の終わりごろ、ぼくは神田さんから別れを告げられた。当時は何が何だか分からなかったけれど、スマッシュさんから指摘された内容(ポケモンやりすぎ、モンハンやりすぎ、ホワイトデーにケーキ渡すだけはひどい、誕生日にお金渡して好きなもの買っていいよはひどい)を鑑みるに、神田さんに対する愛情表現が不足していたからだろう。けれど、神田さんはすぐに別の男の子と付き合ったので、単純に別れる理由が欲しかったのだろうなあと、今ではそう思っている。
ぼくは引きずるタイプなのでしばらく引きずっていた。その引きずりようは尋常ではなく、ともちゃんをして「先輩は死んだ」と言い渡されるくらいだった。別れた、という事実と、自分が相手を傷つけた、という事実が、ぼくの内側にあった一貫性を破壊していたのだった。だけど、そんなことはともちゃんには言えなかったので、ともちゃんは「他にも女の子はたくさんいますよ!」なんて慰めてくれた。
そのころから、スマッシュさんと協力して週刊チャオサークルを盛り上げよう!という企画をがんばっていた。スマッシュさんはとても自分勝手なのでよく喧嘩した。ラジオでは喧嘩ばかりしていた気がする。だけど、なんだかんだで楽しかった。あのころのSkypeはほとんど二人だけで会話していた。スマッシュさんとの話題といえば、「好き」ということに関しての話が印象に残っている。最近こそ柔軟になってきたけれど、スマッシュさんは一つのことに固執するタイプだ。反してぼくは、今でこそ一つのことに固執するタイプだが、元々は結構ミーハーな性格だ。そんなうだつの上がらないぼくに、スマッシュさんはしょっちゅう、「本当に好きなのか」ということを言ってきた。スマッシュさんは、好きであることを他の人に認めてもらうために努力を惜しまない人だった。そういうスマッシュさんは、ぼくにとっては憧れだった。嫌いなものこそたくさんあるけれど、ぼくは、一体何が好きなんだろう。正義のヒーローとして生き過ぎたぼくは、本来のぼくの形を思い出せなくなっていた。ぼくは、本当に、誰かを助けることが好きなんだろうか? ぼくは、何が好きなんだろう?
父、母との関係も、さすがにこのころには「うまくやる」ことができるようになっていた。父は自分の言うことを聞いてくれる誰かが必要なのだ。そうでなければ、自分の存在意義を確認できない。だから、父の言い分をくみ取ってやれば、あとは自分の好きでいい。そういうコントロールの仕方を学んだ。
高校では適度に遊んで、適度に勉強した。ともちゃんや龍二とゲームセンターに行ったり、バイト先のメンバーでボウリング大会をしたり、そういうありがちな青春を送った。
しかし、ここで事件が起きた。いや、起こしたのはぼくだ。チャットルームでFさんが馬鹿にされていたのを、ぼくは「正義のヒーロー」として見過ごすことができなかった。ぼくは正義のヒーローの必殺技その一を使い、悪意をぼくに集めることで、チャオ界隈から失踪した。
だけど、慣れたもので、ぼくはそんなに精神的につらい気持ちにはならなかった。
ちょうどそのころ、プールの監視員のバイトでは、川崎さんという優秀な人に出会うことで、ぼくのコミュニケーションスキルを大幅に上げることができた。川崎さんはバイトを盛り上げることを真剣に考えて、みんなが仲良く楽しくバイトをできることを目指して努力ができる人だった。ぼくに協力を仰いで来たのも、その一環だ。ぼくはその考えに憧れて、川崎さんに協力してバイトを盛り上げることにした。楽しくやりたいのは、みんな一緒だ。必要なのは話題だけ。ぼくは共通の話題を増やすべく努めた。色々な人から色々な話を聞いた。話を聞くことで、ほかの人も一生懸命色々なことを考えて生きていることを知ったぼくは、少しずつ「自分を作る病気」を解消して行った。元々「自分を作る病気」は、思うが侭に生きているだけでは不利益が大きいために身につけた能力だ。要するにそれは、本来の自分で世の中を渡る自信がなかった、ということなのだと思う。だけど、それは他の人も同じだ。他の人も、本来の自分で世の中を渡る自信なんて持っていない。どころか、仕事とか、勉強とか、将来とか、そういう色んな悩みを抱えて生きているのが普通なのだ。一貫性がなくても、仕方がない。誰しもが「そういう人間」でいられるわけではないのだ。
盛り上げるために、裏から人をコントロールすることもあった。ぼくは人の考えていることがなんとなく分かるので、川崎さんが表から、ぼくが裏から支えることで、みんなが楽しいバイトを実現することができた。陰口はがらっと減ったし、仲が良くなかった人たちも、ぼくや川崎さんを題材にして仲良くなることができた。
そのころには、もうすでに神田さんのことを引きずるのはやめていた。他の人と同じように、前向きに生きようという意志がぼくの中にあったからだ。普通の人間になれた気がして、ぼくは嬉しい気持ちだった。だけど同時に、ぼくは川崎さんには絶対に勝てない、ということを感じていた。川崎さんが話すときと、ぼくが話すときでは、明らかに違う。ぼくは、人から好かれていない。好かれることができない。そのときはどうしてなのか分からなかったが、大きな理由は、「ぼくのことがよく分からないから」だろう。普通の人間になれたようで、ぼくは全く普通の人間にはなれていなかったのだ。ぼくは劣等感でいっぱいだった。
けれど、川崎さんが「盛り上げること」に一生懸命なように、ぼくも「普通の人間になること」に一生懸命だった。たとえそうなれなくても構わなかった。ようやくぼくは、「覚醒」を身につけることができたのだった。覚醒とはすなわち、今までの自分の考えを否定し、あるいは組み換え、新たな考えを作り出すこと。色々な自分を作っては捨ててきたぼくだけど、ここで一つの芯を得ることができたのだ。
劣等感は既になかった。ぼくは川崎さんにはなれなくていい。黒川くんにもなれなくていいのだ。ぼくは、昔から「正義のヒーロー」だったけど、考えてみれば、ぼくは好きな人より嫌いな人のほうが多い。助けたい人より、挫きたい人のほうが多い。ぼくの心は狭い。正義のヒーローは辞職することにした。代わりにぼくは、自分勝手なヒーローになることにした。
ちょうど今くらいの時期。バイト先の高校生で、市川さんという子がいて、ぼくはその子の話を聞くのがとても好きだった。その子の話には悪意がなかったからだ。その素直さにぼくは惹かれつつあった。ぼくにはないものだったから。何度かデートをして、付き合うことになった。
気が向いたので、チャオ小説を書き始めた。Skypeではダークさんと話す機会が増えて、二人でよく遊んでいた。ハンゲームで主に遊んでいた。チョコットランドでは、ぼくが炎属性の戦士を使っていて、ダークさんは闇属性の魔法使いだった。しょっちゅう笑っていた記憶がある。ダークさんの大学の友人とも交流があった。「お絵かきの森」の逸話はぼくの持ちネタの一つになっている。小説の話もした。ぼくの話も、たくさんした。そういえば、あのころはとても楽しかった。すべてがうまく行っていた。聖誕祭になって、DoorAurarとして復帰した。ばれないと思ったけど、ばればれだった。今くらいの時期から、ぼくのアイデンティティは固まりつつあった。ぼくは意志の弱い人間が大嫌いで、自分の考えを持たない有象無象が嫌い。反面、意志さえ強ければ、大悪党でもぼくにとっては「あり」だ。卑怯な手段を用いて人を貶める人間は大嫌い。自尊心ばかり高くて、人を貶める人間は大嫌い。ぼくに媚を売る人間も大嫌い。そうして嫌いを増やしていった結果、ぼくに好きな人間はあまり残されていなかった。チャオ界隈の人間たちは、幸い意志の強い人間ばかりだったので、ぼくは嬉しかった。
前回の反省を活かし、ぼくは市川さんとしっかり向き合って付き合ってきたつもりだ。市川さんは素直だけれど、自我の強い人ではない。だから相手の欠点が鼻につくことがあったけど、ダークさんに「おまえは人の欠点を受け入れることのできない人間です」と言われたことをきっかけにして、自分の人格を改変する事も出来るようになった。ぼくは成長できるようになったのだ。
学費の安い情報系の専門学校に入った。年間十二万円。自分で働いて通えるところがいい、そう考えてのことだ。親には頼りたくなかった。専門学校ではあまり深くプログラミングの技術を教えてはくれなかったけど、資料と環境はあったから、自分で学習した。目標は、とりあえず、チャピルさんとプログラムの話ができるくらいだ。チャピルさんのことをぼくはあまり知らなかった。けれど、チャピルさんは意志の強い人だ。ぼくにとっては好きな人間だ。仲良くなるためには同じ土台に立たなければいけない。だから、プログラミングをやろうと決めた時から、ぼくの目標はとりあえずそれだった。他の目標と言えば、そこそこ安定したところに就職することだろうか。
スマッシュさん、ダークさん、ろっどの三人でSkypeをする機会が多かった。小説に関しても、色々なことに関しても、お互いの意見を交換することが、ぼくはとても心地よかった。表面上だけで会話するのは、ぼくにとっては朝飯前どころか、その分野においてぼく以上に「レベルの高い」人はおそらくほとんどいないだろう。互いの考えを否定できる環境が、ぼくには居心地が良かったのだ。普通の人間からはかけ離れているかもしれないけれど。ダークさんとチャオ小説を一緒に書いたこともあった。スマッシュさんはこのころ、更に捻くれつつあった。
専門学校でも、ぼくは簡単にみんなの中心人物になることができた。川崎さん・トレースである。
冬木野さんが中々来なくなってしまったこととか、斬守くんの覚醒を見届けられないことが、ぼくにとっては心残りだ。ぼくは覚醒の余地を残しつつも、自らの枷を破ることのできない人間を見て、もどかしく思う。いつまでも卑屈なばかりでは仕方がない。ぼくは散々不幸ではあったが、気力と根性でここまで来たのだ。他の人もできないはずはない、と思っている。
しかし、「覚醒」をもってしても、人の気持ちを変えることは難しい。
アルバイトでは、川崎さんが卒業し、Mさんというお局様が支配権を握っていた。彼女は若い女の子に対し非常に厳しく、裏から手をまわして辞めさせようとしている始末。ぼくが覚醒するだけでは、彼女をどうにかすることはできない。だから、ぼくは彼女に辞めていただくことにしたのだった。「裏から手を回す」ことにかけて、ぼくは何せ、超一流である。簡単に辞めさせることができた。
チャピルさんが、ぼくたちに積極的に歩み寄ってきてくれたことが、ぼくにとってはとても嬉しかったことだ。
超チャオ小説――今となってはあまり活動していないが――を元手に、ぼくたちはチャピルさんと仲良くなることに成功した。ぼくは元々、友達が欲しい人間だ。他人がいるほうが、ぼくの人生は心地よい。一人の時間も必要ではあるけど、他人といる時間も同じくらい貴重なのだ。ぼくは常に友達がいたわけではないから、余分に、その貴重さを知っている。しかも、意志の強い人だ。ぼくは意志の弱い人間が大嫌いだ。特に流されやすい女の子とか、被害者意識の強いやつとか、人の悪口を言うことしか能のない人間とか、人の欠点を指摘することにかけては超一流だけど自分の欠点は認めないやつとか、どんなに外見が良かろうと、内面の強さを伴わずしてぼくは人を好きになることはない。ぼくの知る限り、チャピルさんはとても意志が強い。これは貴重な人材だ。
ということで仲良くなったのだった。
ぼくは常々、「やる気のある人たちで何かしたほうが面白い」と思っていて、多くの場合、それは叶わない。
なぜかというと、人の意志はそんなに強くないからだ。
だから、ぼくくらい、あるいはぼく以上に意志の強い人たちが、ぼくは身近に欲しいのである。
四章へ続く