3 Chaos Regeneration
「……目に見えて衰弱していますね」
人形みたいに動かない患者の、輪をかけて人形みたいな状態の患者を見て、お医者チャオさんはそう診断した。
もう、三週間を過ぎた。
キャプチャー欠乏症の治療法確立の為に動き続けるスタッフ。その動きは、目に見えて焦りがあった。
タイムリミットは、これっぽっちも残されていない。いつ患者が消えてしまってもおかしくはない。そういう状況だ。
僕にできる事は、コドモチャオの傍にいる事だけだ。
そんな夜の暗い病室に、静かなノックが響く。入ってきたのは、見慣れた顔だった。
「お邪魔しますね」
暗がりの中に光る金の髪が、闇に慣れた僕の目には少し眩しかった。
「患者の様子はどうですか?」
「いつもと同じか、それ以上に静かだ」
もはや体の一部分と化したと言っても過言ではないチャオマイクを指差して告げると、看護師さんも溜息を吐いて顔を俯かせた。
「……何もできないんですね。せっかく前に進むチャンスができたのに、それを失ってしまうなんて」
「君だけの責任じゃないよ。そんなに気負う事はないさ」
流石に一ヶ月ほども付き合いがあると、僕の言葉からも敬語が失われていた。彼女の方が優秀そうだったから思わず敬語で接し続けていた僕も、5歳の差がある事を知ると簡単に態度が崩れるものだと再認識した。最初あれだけ睨まれ続けた僕が、彼女に慰めの言葉をかけるようになるとは。
「でも、悔しいです。自分の無力さが」
「……僕も同じだよ」
唯一。
唯一僕が、このチャオを助ける事ができる糸口と成り得た可能性を持っていた。
それは、このチャオと言葉を交わす事ができる唯一の人物であるというだけの事だ。それだけでも、お医者チャオさんを始めとして結成されたスタッフの目に希望はあった。
その結束が一ヶ月足らずで崩れるなんて、あまりにも残酷だ。
「私、幼い頃にチャオと一緒に暮らしていたんです」
突然、看護師さんは顔を俯かせたまま自分の過去を語り出した。
「幼い頃って……どれくらいの頃?」
「まだ小学生くらいの頃でした。一人っ子だった私の、唯一の姉弟だったんです」
そうやって過去を振り返る彼女の顔は、とても幸福そうには見えない。きっと良い話ではないのだろう。
「そのチャオを連れて朝に帰って来たお父さんが、私に向かって何度も念を押して言ったんです。この子の事を頼むぞ、お姉ちゃんって。凄く嬉しかった。お父さんにそう言ってもらえた事も、新しい家族ができた事も。だから、ずっと外で遊んでました。鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたりして……」
僕は窓の外へ目を逸らした。
何の因果か、今日は満月だ。静かに眠るコドモチャオがいるので電気を消しているが、そのせいかこの月明かりが眩しく感じる。
――自分の口が、重く感じる。それはきっと、彼女も同じなんだろう。聞くべきか、聞かないべきか。
迷う心に嘘を吐いて、僕は問う。
「そのチャオは、どうしたの?」
彼女の声が震えてる事に、僕は耳を傾けずとも気付いていた。
「……夕方になっても、見つけられなくて……」
いや、耳を傾けたくなかったんだろう。
彼女の声は、あまりにも哀し過ぎた。
チャオ特有の早老症に最も有名なものが一つある。
その名を、先天性生存寿命障害という。キャプチャー欠乏症と同じく稀にしか起きない病気だ。
これを患ったチャオは、10時間で死ぬ。
過去幾度となく医療従事者がこの症状に関する調査を徹底的に行ったが、今でも原因は不明。10時間のタイムリミットはあまりにも短く、キャプチャー欠乏症以上に解明が困難とされる。
だが、治療法はないと言うわけではない。10時間の命を救う、たったの一つの方法があるのだ。
それは、チャオに愛情を注ぐ事。即ち、転生させる事だ。
そうする事により、転生前の優位性のある能力を受け継ぎ、負の面の能力を切り捨てて生まれ変わる事ができる。つまり、10時間の命と別れを告げる事ができるのだ。
単純で、極めて難しい。
愛情の注ぎ方は、人それぞれだ。だから、チャオがその愛情を理解できずにこの世を去るというのは、普通のチャオでも珍しい話ではない。
彼女は……それに失敗した。
「暗くなってきた頃に、お父さんが私を迎えにきたんです。でも、まだかくれんぼは終わってないから帰りたくないって言ったのに……」
終わらないかくれんぼ。
少女の身には、とても残酷な事実が隠された遊びだった。楽しく遊んでいただけなのに、何も悪い事をしていないのに、もう二度と顔を見る事もできなくなってしまった。
「仕舞いには泣いてお父さんの手を振り払って……お父さんは、私に何度も謝って……」
もう、彼女の顔は涙でぼろぼろだった。僕はその頭の撫でてやる事しかできない。
かける言葉が、見付からない。
「そのチャオの病気の事を知った時、私は悔しくてしょうがなかった……私が、あの子を死なせてしまったんだって……たった一人の家族も守れなかったんだって……」
「君が死なせたんじゃない。病気のせいだよ。運が悪かっただけだ」
「でも! でも、助ける事ができたのに! あの場には、私しかいなかったのに……!」
「一緒に遊んであげたじゃないか。たった一人のお姉ちゃんとして。その掛け替えのない思い出を、誰も咎めたりはしないよ」
そうやって慰める僕の心にもヒビが入り始めていた。
コドモチャオに残された命は、もう僅かしかない。助けられる可能性を持っているのは、僕しかいない。
でも、打つ手がない。
この子に愛情を注いでも受け取ってはくれない。僅かな延命措置もできない。誰も助けてくれない。僕にしてやれる事は、何もない。
どうする。
このチャオの世界は、未来は、希望は、こんな狭い病室の中だけに留まってしまうのか。
『寂しい』
冷たい機械音声が、僕の背筋をなぞる。
はっとしてコドモチャオを見ると、その顔は窓の外に向けられていた。月を見ているようだ。
『寂しいよ』
その声にどんな感情がこめられているのか、僕にはわからない。本当に寂しそうな声をしているのか。この機械音声のように冷たい声なのか。
「……あの、なんて?」
涙を拭って、それでも涙の止まらない看護師さんが僕に訊ねる。
「寂しいって」
「そう……ごめんね、何もできなくて」
彼女は立ち上がって、ベッドの上のチャオの頭を優しく撫でた。
「ごめんね」
何度も何度も謝って、優しく撫で続ける。
結局、僕達はこうする事しかできない。彼女のお父さんも、僕達もだ。若い命が消えてしまうというのに、こうして謝る事しかできない。このチャオも、何も遺さずに消えてしまう。
せめて、このチャオになにかしてやれる事はないのか。
僕は必死に考え続けた。
――――
「……よし」
出発の準備はできた。
僕の姿は白衣では無く、この病院に訪れた時と同じ服だ。
あれからこの病院にほぼ泊まり込みだった為に、荷物はこの病室に置きっ放しだった。ある意味好都合だとも言える。あまり人には見られたくない。
チャオを隠すのには、荷物を詰めていたリュックで大丈夫だろう。目的地に行くには、タクシーを呼べばいい。懸念すべき事項は、病院を出るまで誰にも見付からないようにする事だ。
「ちょっと窮屈だけど、ごめんね」
マイクを介しての言葉ではないが、一応謝りながらチャオをリュックに詰めた。患者に対してなんたる愚行か、と言われてもおかしくはない。だが、この場はしょうがない。我慢してもらおう。勿論、マイクを置いて出かけるわけではない。向こうに到着してから使おう。
そして僕は、こっそりと病院から抜け出した。
あらかじめ病室からタクシーを呼んでおいたので、病院の前で待ち惚けというちょっとマズい状況にはならずに済んだ。
「どちらまで?」
「えっと、ソレアナまでお願いします」
気だるい声で了承した初老の運転手が、ドアを閉めてアクセルを踏み出した。
今日に限って、このチャオは寂しいという言葉を訴え続けた。
もうすぐ死んでしまう。そう判断した僕は、せめてソレアナの美しい景色だけでも見せてやれないかとこのチャオを連れ出した。リュックから顔を出したチャオの視線は、タクシーの窓を流れる景色を見ていた。その表情に変化はないが、興味を持っているのか退屈なのか。
「その子、退院したんですか?」
不意に運転手がそう聞いてきたので、僕は急いで適当な言葉を並べた。
「ええ、そうです。観光に行く途中で病気になってしまったんですけど、晴れて退院になれましたので」
「そうですかぁ。それはよかったですねぇ、おめでとうございます」
運転手の祝福の言葉が胸に突き刺さる。事情を知らないからしょうがないのだが、空気読めよと怒りたくなってくる。
「ソレアナって言えば、先週頃から凄い事になってるって噂をご存じですか?」
「噂?」
「ええ。なんでも、水路の水が謎の光を放ってるだのなんだの」
「光?」
「詳しい事は私も知りませんがね。まぁ、特に害もなさそうだっていうんで、気兼ねなく楽しんでくるといいですよ」
それ以降は特に続く会話も無く、チャオと同じように外の景色を眺めたりしていた。
ソレアナの近くであるこの街にも、少なからずソレアナから伸びた水路をちらほらと見かける。中にはこれを辿ってソレアナまで歩く観光客もいるのだとか。
ただ、この暗い時間はやはり徒歩で歩く人影は見られない。ソレアナへと向かうのは車くらいだ。バックミラーには、他のタクシーやワゴン車の姿も見える。
不意に、僕は腕の中にいるチャオの事が気になった。今はお互いにマイクを付けていないが、果たしてこの子は今どんな心情をしているのだろうか。
ここでマイクを取り出すと、運転手に余計な詮索をされてしまうかもしれない。誤魔化すのも面倒なので仕方なくこのままにしているが、何か異常はないかと心配になってくる。
「お客さん、どうかしましたかぁ?」
「ああ、別に。流石にこの時間帯だと眠いかなって」
結局誤魔化した。
「そうですかぁ。……おっとぉ」
運転手の驚きの声は、僕の驚きとも重なった。
途中にある水路が、うっすらと青く光っている。
「もしかして、これが……」
「どうやらそうみたいですねぇ」
確かに、見間違いではない。水路は光り輝いている。とても神秘的なその光景に、僕は思わず見惚れてしまう。
「……ぁ…………」
突然、コドモチャオが声を漏らしたかと思うと窓へと手を伸ばした。
動かないものと決め込んでいた僕は、突然動き出したコドモチャオに酷く驚いてしまう。
「お客さん、この辺りでいいですか?」
「えっ? あ、ああ、はい」
どうやら運転手は気付いていないらしい。好都合だ、さっさと降ろしてもらおう。
「ありがとうございましたぁ」
特に詮索する事もなく、タクシーは僕達の前から去った。僕は急いでチャオにマイクを取り付けて、問診をしてみる。
「どうしたの?」
だが、チャオは何も答えない。その意識はソレアナの方向へと向いている。
そして突然、チャオは僕の腕の中から降りた。
「えっ?」
あまつさえ、チャオは二つの足で立った。
有り得ない。キャプチャー能力を持たないこの子は、立つ事も歩く事もできなかったはずだ。それなのに、何故。
「いったい、どうして……?」
『いきたい』
その一言を残して、チャオは……歩いた。
歩いた。
早歩きした。
走り出した。
「ちょっ、待てよ!」
おかしい。何もかもおかしい。
昨日まであんなに人形みたいに動かなかったのに、水を得た魚のように苦も無く走っている。
しかも、速い。僕も急いでチャオの後を追ったが、僕以上のスピードで走っている。これが病人の走りなのかよ。
「くそっ! どうなってんだよ!?」
僕の医学知識が、現実に否定される。
こんなの、どう考えても普通じゃない。
人ごみの中を通り抜けた。
近くの倉庫も通り抜けた。
どこに向かっているのかわからないまま、僕は必死にチャオを追った。
輝く水路が、僕達を導くようにすら見える。
そうして着いた場所は、噴水だった。
「……なんだ、あれ」
眩しい。
こんな夜中に、噴水の前に人集りができてる。何の見せ物かと、僕は目を疑う。
噴水が、一際強く光り輝いている。途中の水路なんかよりも、太陽のように眩しい。
『いきたい』
聞こえた機会音声に、意思を感じる。
「おい! そこにいるのか!?」
焦る僕の言葉は、もう問診する気はさらさらない。それ以前に、患者と話す言葉でもない。
『いきたい』
そしてチャオは、同じ言葉を繰り返す。
いきたい? いきたいって何だ? 行きたい、なのか? いや違う。きっとチャオはそこの噴水にいる。それにまさか逝きたいなんて酔狂な言葉を吐く筈もない。
じゃあ――
「……生きたい、のか?」
『いきたい』
即答だ。
間違いない。あの子は、生きる事を諦めてはいない。だから……だから?
なんであの子は、こんな場所にやってきたんだ? ここに、生きる為の方法があるのか?
あの……噴水の中に?
刹那。
噴水の光が、狂おしいまでに輝く。
眩しいなんてもんじゃない。光以外に何も見えない。閃光に世界が支配される。
あれだけの人間が、僕の視界から消え失せる。眩しいから見えないのか、本当にいなくなったのかわからない。
そんな時間が、たった刹那に僕達を包み込んだ。
それをその場の全員が体験した事は、何事かと周囲を見回す人達の姿から理解できた。
僕もその一員だ。
だが、最も早く理解できたのは僕だけだろう。
「あいつだ……!」
人混みを掻き分け、噴水にいるであろうチャオの元へと走る。未だ混乱の中にある人混みの中を通るのは容易だった。
チャオは。患者はどうなったんだ。いったい何がどうなったんだ。
医療従事者としてだけではない。たった一ヶ月だけだったけど、あの子の親として、姿を見たい――!
そこにあったのは、たった一つの卵だった。