(後編)ページ3
あの忌々しい悪魔が僕のお腹に降臨した、次の日の朝である。
目が覚めたとき、『緑川守は気づいた。昨日のことは全て夢であったと』なんていうナレーションが入る夢オチであることを期待したのだが、残念ながらそれは叶わず今日も起床時、僕のお腹の上で忌々しい悪魔が寝息を立てていた。
僕は布団を払いのけ、ついでにグリンも払いのける。しかし、すごく今日は蒸し暑い。
嵐に見舞われた大海のように荒れ狂った髪の毛をかきむしりながら、部屋を出る。
そして階段を目の前にして、ふと思い出す。
『僕から離れたら――』
思えば昨日の災いの始まりはこの階段落ちだったな。
同じ轍を踏むのはごめんだ。しかし、だからと言ってグリンを叩き起こしてついて来てもらうというのは。
もっとごめんだ。
結局プライドを優先する道を選んだ僕は、手すりを握り締め慎重にゆっくりと丁寧に階段を下りていった。
ゆっくり降りている時点でプライドを喪失したような気もするが、まぁこれで何も起きなければ呪いに勝った事になる。気がする。
通常の数倍の時間をかけて、半分あたりまで階段を制覇した時。
ぞわわ。
としか言いようの無い、得体の知れない恐怖に襲われたのだ。
可能であればその恐怖の根源を知らぬままでいたかったが、そうも行かないだろう。
恐怖は、僕の左手から感じられ――視線を左に向けると、文字通り手すりを掴む僕の左手の上に、それは『いた』。
黒くて、平べったくって、触覚がついていて…と、説明しているだけで気分が悪くなる。
僕に出来うる可能な限りの詳細な解説をして、誰か一人でも多く僕と同じ気分を味わわせてやりたい所だが…。
そんなことをすると、先に僕がダウンしそうだ。簡潔に言う。僕の左手の上にゴキブリが居座っていたのだ。
「#$%&!」
奇声を上げたのは無論僕である。
僕の左手がゴキブリ用へリポートになっただけでも絶叫マシーンなんて目じゃない恐怖だったにも関わらず、なんとそこから羽を広げて宙へ飛び立ったのだ。
コレが燕の雛とかだったら感動ドキュメンタリーになるが、コイツは違う。どう見ても違う。全然違う。
心臓が口から飛び出しそうな、とはまさにこのことだなと思うぐらい驚いた。その拍子に、僕はバランスを崩し、
「あ」
階段を、落ちていくのだった。
飛び立つ瞬間のアイツの顔が、笑っていたような気がする。
「僕が寝ている間に何があったのかわからないけれど、似合っているよ」
現在の空模様を描写しろといわれても、『青い空、白い雲』と小学生でも思いつく薄汚れたボロ雑巾のような常套句を述べるぐらいの気力しか僕には無い。
そんなわけで現在、青い空と白い雲に見下ろされながら学校への道のりを低速で辿っている。傍らでは、グリンがぷよぷよ浮かんでいる。
グリンが似合っていると言ったのは、僕の頬に張られた絆創膏のことである。いうまでもなく、先ほどの階段落ちによる産物だ。
「昨日の話の続きだけどさ」
口を開いたのはグリンだ。
自然を守れっていう話か。僕にどうしろと言うんだ。サハラ砂漠をサハラ密林にしろとでも言うのか。
「安心してよ。キミに出来るコトなんてたかが知れてるんだ。だから僕もキミに過度の期待をしているわけではないんだよ」
いちいち頭に来るやつだというコトは昨日の時点でわかったことだが、あえて言おう。いちいち頭に来るやつだ。
「とにかく、考えてよ。何の取り柄も無い、キミにも出来ることをさ」
自然を守るために、僕にできることねぇ。
勝手に木とか植えたらだめだよなぁ、などと思案しながら、僕は足を動かし続ける。
その度に、僕の右の足元ではぴょこぴょこと揺れる物体がある。従来より、若干短くなった靴紐である。
今朝を家を出る時、靴紐を結んでいる時に切れてしまったのだ。
そうやたらと切れるものでもないと思うが、切れてしまったものは仕方が無い。
早々に起きたアンラッキーにより苛々を募らせていた僕は、靴を履きかえるコトすらも煩わしく思い、そのまま履いてきてしまったのである。
ところで、下駄の鼻緒が切れると縁起が悪いというコトを耳にしたことがある。
それは靴の場合にも当てはまるのだと言うコトを、後に身をもって体験することになるのである。
無論、この僕が。