1-緑化-1
「緑化」と「幻化」
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一人の男は12時になる前に、「逃げ」を選択した。
広い広い街の中を駆け抜け、路地を発見した。が、それは遠い遠い坂のこと。
そこまで逃げ切るということをも選択したその男は、その路地まで走れば良い。
足の速めであるその男は、それだけで良かった。だが、問題はあったのだ。
「なんで着いて来るんだよ」
そう、逃げ惑うその男を静かに尾行する人影があった。
尾行とは言うが、堂々としたその尾行には恐ろしさがある。男は逃げ惑った。
走って走って、しかし追いかけてくる。そこに恐怖を覚えたのだ。
着いてくるその男の風貌は、まさに聖職者といった感じであった。
十字架が付いたペンダントを首からぶら下げ、暑そうな全身を覆う服装。
聖職者であっても、ここに来た。コスプレだとも思ったが、まさかそんな訳は無いだろう、と考え直す。
路地に向かっているとバレたなら逃げる意味は無くなる。それに、聖職者がここにいるんだ。
もしかしたら、戦いを止めようと相談に来る人かもしれない、と男は考えて、振り向く。
「戦おうってのか?」
聖職者にそう聞くが、返答は帰ってこない。
道路の上に一直線に並ぶ形で、どんどん迫ってくる。
どうしていいか分からず、混迷し男はそこに立ち尽くす。そんな場合であっても、聖職者は近づく。
そして、止まったのであった。
じっと行動を見るつもりで立っているが、一向に動かない。
しばらくすると、腹が痛むことに気付く。腹を壊したのかと、聖職者の方を向きながら手を腹に当てる。
確かに手には血が付いていた。
自分の後ろを、遠ざかる足音が通る。
振り向くと、先ほどの聖職者であった。驚いたのは、右手。
右手にはただのペンダントだと思っていた十字架が握られており、その先に血が付いていた。男の血であった。
聖職者は距離を取り、立ち止まる。男は腹の痛みに耐えながら、構える。
普通にナイフであったが、検査の見落としとしか考えられない。武器であったら、なんなのか。
一瞬にして近づいたはず。刹那、手が背中から回るのを見えた気がする。
"chao"が起こす現象というのはこのことなのか。明らかに不思議だ。一瞬で目の前にいた聖職者が消えたのだから。
「盛夏の候、いかがお過ごしでしょうか。御健勝とその良い結果をお祈り致しまして、ご挨拶です」
背中。振り返ると、確かにそこにいた。笑みを浮かべ、立っていた。
「胎児は生まれてくる自分を何と認識しているのだろうか。むしろ、何も認識していないのだろうか?」
そう言いながら、聖職者は後ずさりをする。
「認識をしていないのならば、君も同類だ」
瞬きをした瞬間、聖職者はもう一度腹に、十字架を突き刺していたのであった。
声にならない叫び声を挙げ、男はその場に倒れこむ。
「ここまでの人生を、まだほとんど何も送っていない胎児と同類とすることに抵抗はある。
この場合、後者には希望がある。未来がある。お前はどうだ?」
聖職者が物凄い勢いで後ろに下がる。道路から離れない。
男は痛がりながらも、近くの花壇に向かい歩き始める。
「胎児も夢を見る。自分の未来を夢見て。しかし、絶望をも夢を見る。どちらも考えることのできるのが、頭の良い"それ"である」
花壇に倒れこむ。痛さのあまり、気が動転してしまった。
隠れなければ死ぬ、といった思考がなぜか駆け巡る。走馬灯を体験している者ならば感覚がわかるだろうか。
脳内物質が通常の何倍をも分泌される。あの感覚。考えすぎて、空回りするあの感覚。
その瞬間だ。男の体から数本、赤い茎の白い花びらを持つ花が生えてくる。
声を出す気力すらない男は、その様子を見て絶望した。
「医者ヘッケル…。知ってるね?彼は人を知ろうとした。内部を知ろうとした。
偉業を成し遂げたんだ。彼は失敗するのを恐れず、失敗をした。その分、ショックを気力に変える力を失わなかったんだ。
私は感謝する。三秒後、君はその花壇で華麗に死を迎える。そして、もう一度夢を見るんだ」
指で「三」を表した瞬間のこと。脳に来た。自覚した。
「緑化」を自覚した。"chao"が目覚めた。
目覚めたと同時に聖職者は飛び込んできた。やや上がり気味に、素早く移動する。
それがあいつの"chao"であると、一回で二つ自覚した。
花壇まで来て、手前で立ち止まる。
迂回し、足の裏からゆっくり十字架を突き刺す。神経を触り、痛みが走る。
限界まで差し込むと、おもむろに抜く。そして、花壇からゆっくりと男を出した。
花に一礼し、十字架を胸に振り下ろす。
だが、直前でその動作は止めさせられることになる。