11. これからどうする?
その夜、私たちは熊本には戻らずに、そのまま桐山家に泊まることにした。病院からの連絡を待つ必要があったし、テンさんの訃報を関係者に知らせる必要もあった。やるべきことは、まだたくさん残っていた。
「ねえ」
私は一木のシャツの裾を引いた。
「こういうとき、私はどの部屋に泊まったらいいんだろう?」
「俺の部屋に来んか?」
「はあ?」
あらためて、こういうときの一木が何の役にも立たないことを思い知る。私は優花の手前、それができないから聞いてるのに。
「もうちょっと真面目に考えてよ」
「なんの話してるの?」
渦中の優花が話に割り込んできた。
「こいつがどん部屋で寝るかって話ばい」
「うーん」
優花は唇に指を当てて悩んだ。
「テンさんの部屋だったら、空いてると思うけど」
「そりゃあ空いてるだろうけど!」
「それか来客用の布団が階段の下にあるよ」
「それを先に言ってよ!」
私は来客用布団をリビングに持ってきて敷いた。一木と優花におやすみを言って、リビングの電気を消すと、ほとんどなにも見えなくなった。枕の位置を足でまさぐった。
この家に来たのは高校生の時以来だ。しかも、泊まるのは初めてだった。敷き布団の上に立つと、冷蔵庫のかすかな駆動音と、窓から見える星明かりが私を包み込む。いつもだったらセンチメンタルな気分に浸れたかもしれないが、今日ばかりは日中の疲れの方が勝っていた。布団を被って目を閉じる。まだ、明日がある。そのためにも今日は寝た方がいい。
ドンッという地響きが、私の目を覚ます。激しい揺れと轟音。昨日の比じゃない、強烈な揺れだ。私は布団の端を強く掴んで、じっと堪えた。揺れが収まると、一木が二階から降りてきて部屋の電気を点けた。二人とも無事。だけど、優花は? 私たちは目配せして、ゆっくりと渡り廊下へのドアを開けた。ちょうど同じ時、反対側の扉が開いて、優花のほっとした表情が見えた。
「無事か?」
「無事じゃない気がする」
「どういう意味?」
優花は私の質問に答えずに、家の裏へと向かった。一木がスマホのライトを点けて、目の前を照らした。そこはちょうどテンさんの遺体を見つけた場所だった。そしてその遺体の横には、漏斗型の巨大なタンクがあったはずだ。
そのタンクが倒れている。巨大なタンクは牛舎の屋根を破壊し、大きな穴を開けている。牛舎の壁はぐしゃりと潰れ、もはや原形を留めていない。あまりの惨状に言葉を失った。
一木がライトを動かして、崩れた部分を明るくする。タンクからこぼれた茶色い粉が、砂煙のようにあたりを漂っている。
牛舎の裏手に回って中に入る。足を踏み入れると、牛たちはみな立っていた。まるで逃げさせてくれとでも言いたそうだった。この牛舎では、すべての牛は鉄柵に繋がれている。そのことが牛をこの場所から動けなくしていた。
牛舎の奥では、瓦礫に足を挟まれて二頭の牛が倒れている。その目が弱々しくこちらを向く。脚を怪我しているが、死んだわけではなさそうだ。
優花が牛の耳に付けられたタグを見て、瓦礫の山に視線を送った。
「あの下に、あと四頭いる」
ドンッと、また地鳴りがして、牛舎全体ががたがたと揺れた。
「こっから出るばい」
「この子たちは?」
優花は怪我をした牛の脚を見つめていた。
「手当てするんは無理ばい。いつまた崩れるかもわからん」
優花は申し訳なさそうに、牛たちから目を背けた。私たちが生き延びるためには、彼らを見捨てなければならない。
布団を頭まで被って、目を閉じても、揺れが身体の中に残っているように感じる。うつらうつらしていると、地面に倒れたテンさんや、足に怪我を負った牛が現れて、私の頭を掻き乱す。地面という、決して離れられないものが私たちの敵になったとき、私たちは一体どうすればいい?
その思考は毒となって私の内蔵を巡った。今まで安定していると信じていたあらゆるものが、本当はなにも信じられないんじゃないだろうか。一木も優花を抱いて……いや、今そんなことを疑うべきじゃないのに、一木はこの家を守るために、精一杯自分ができることをしているのだから、私が信じないでどうするんだ。
こんな気持ちになるのなら、一木の言葉に従って同じ部屋で寝れば良かった。そうしたら、こんなつまらない寂しさを抱かなくて済むんだろう。もっと素直にならんば、と彼によく言われる。自分でも気付いている。どうしてこんなずるい女を、あいつは好きでいてくれるんだろう。
私はなかなか寝付けなかった。
翌朝、私が目を覚ますと、ほのかな醤油の香りが私の食欲を掻き立てた。優花が朝ご飯を作っていた。
「食べる?」
テーブルの上の料理、たぶん冷蔵庫にあった残り物だろう。肉じゃがとパンとスープというよくわからない取り合わせだったけれど、なんだか不思議とほっこりした。
「ありがとう」
「水道がいつの間にか直ってたから、作ってみた」
そう優花は説明した。
しばらく待っていると、寝癖まみれの一木も降りてきて、一緒に朝ご飯を食べた。テレビでは専門家が、一昨日の揺れが前震で、今日未明の揺れが本震であるというようなことを言っていた。と思ったら、別の専門家が両方とも本震だと主張して、スタジオで学術的な議論が始まってしまった。専門家の説明は難しくてよくわからない。要するに、私たちにとって重要なのは、今後も余震が続くということだけだ。
ごくりと、スープを飲み込んだ一木が口を開く。
「今いる牛を、どぎゃんかして避難させたか」
「そうだね」
優花もうなずいた。
「昨日死んどった分を差し引いても、あと54頭おる。どこに避難させりゃよかと? 優花、なんか知っとーと?」
「さすがにこの数になると……」
優花は眉をひそめた。
「やっぱ、農協に連絡してみるっきゃなかと?」
私の頭の中で、古い記憶が小刻みに震えた。54頭の牛が避難出来る場所……この近くに住んでいて、すぐに頼れる人……勢いで口を開いていた。
「カピバラの家に預けられるんじゃない?」
「TKG牧場か、あすこはたしかに大きいばってん、さすがに54頭は入りきらんばい」
「それに私たちの牛舎と全然違うから、いきなり入れても牛たちが馴染めないと思う」
そうじゃない、と、私は首を横に振った。
「カピバラは前に言ってた。昔は放牧してたけど、今はしてないって。だから、あの牧草地帯には、そういう設備だけなら残ってるかもしれない」
「できるんか、そぎゃんことが?」
一木は優花に目配せした。優花は目を閉じた。
「そりゃあ、牛舎よりは馴染みやすいかも知れないけど、いきなり放牧ってどうなんだろう……牛にも生存本能があるから、案外大丈夫なのかな。そんなことやったことないから、わかんないよ……」
「ま、可能性はあるばい」
一木は私に悪ガキのような笑みを向けた。そうしてさっそく電話をかけ始めた。
まもなくカピバラが大きなトラックを運転してきて、牛舎の裏口に停めた。五年ぶりに再会したカピバラは、なんだか以前よりも逞しく、制服よりも作務衣が似合う男になっていた。
「久しぶりだな、お二人さん」
「牛をよろしく頼む」
「もちろんだ。困ったときはお互い様だからな」
「それなら、値段ももうちっとまけてくれりゃあせんか?」
「いや、これがギリギリの値段だ。うちはビジネス経営だからな」
カピバラは快活に笑った。
牛の運び出しは難儀な作業だった。まず怪我をしている牛の傷口に包帯をまき、なんとか立たせる。
「よし、いい子だ」
一木が背中をさすりながら、言い聞かせるように前に進ませる。私はその縄を受け取って、牛舎の外で待つ。二頭目の牛を一木が連れてきたところで、その二頭をトラックの荷台へ連れて行く。細かく指図しなくても、牛たちは自らの脚でトラックに乗り込んだ。トラックが出発したら、戻ってくるまでの間に私たちは次の二頭を準備する。その繰り返しだ。
こうやってたくさんの牛を順番に見ていくと、それぞれの顔に違いがあることに気付く。真っ黒くて斑点の少ないその牛は、あのときのダークを思い出させた。ダークをトラックに連れて行こうとすると、脚を踏ん張って嫌がった。私は縄を強く引いて、無理矢理荷台に上がらせた。もうこれ以上は逆らえない。そのことを知ってか知らずか、ダークは名残惜しそうに牛舎を一瞥して鳴いた。
「こいつも桐山農場から離れたくないんだな」
それが分かったところで、私にはどうすることもできなかった。トラックの発車音が鳴き声の余韻をかき消していた。
生きた牛がすべて移動したら、今度は崩れた屋根を片付ける。しばらく手作業で黙々と瓦礫を除去していると、すき間から白黒の足が見えてきた。ある程度姿形が見えたところで、カピバラが大きな台車を運んでくる。二人がかりで転がして、牛の死体を台車に乗せた。
「これは食肉センター行きだな」
と、カピバラは言った。食肉センターというと聞こえはいいが、要するに牛を殺して、解体して、食べられる状態にする施設のことだ。
昨日から死体ばかりを見てきたせいか、生き物を殺めることになにも感じなくなってきている。本当につらい出来事があったとき、心は無に傾く。自分にとってどうにかできる出来事だけを考えて、どうしようもないことはなるべく考えないようにする。
「死体も売れるんか?」
「一応、買値はつくらしい」
「そばってん、お前んちの言っとる金額には全然足りん」
「じゃあどうするんだ?」
「ヒツジさんに聞いてみるしかなかと」
男達は淡々と金勘定のことを話していた。
一木の車に乗せられて病院へ向かった。土曜日だというのに、病院の中は慌ただしかった。私たち以外にも被災した人がいるんだろうな、と想像するけれど、気にしてはいられない。
私たちは病棟の五階に案内された。窓際のベッドにヒツジさんが横たわっている。別れてから一日しか経ってないにもかかわらず、ヒツジさんはずいぶんやつれたように見えた。
「昨晩もえれえ揺れたばってん、大丈夫だったと?」
ヒツジさんは自分のことよりも、私たち三人のことを心配していた。ヒツジさんの細い手が、私たちの手を順番にぎゅっと掴んだ。がさついた皮膚を通して、血液がどくどくと流れてくるのを感じた。大丈夫、この人はまだ生きている。
「無事でなによりたい」
看護師がやってきて、一木の名前を呼んだ。
「お二方は、ご家族ですか?」
どちらが答えるべきか思案していると、一木が代表して答えた。
「いえ、桐山は私です」
「では、こちらに来てください。主治医から話があります」
一木が出て行って、私たちは病室にぽつんと取り残された。優花がこちらをチラッと見て、はにかんだ。なにを話そうか、とでも言いたげに。
私はヒツジさんに大学時代の一木の話を教えた。優花は牛を避難させたことを話した。だけど、しばらくしたら話題も尽きた。
私たちはなんのためにここに連れてこられたんだろう。なんだか無性にイライラしてきた。桐山は私です。もっと他に言い方があったんじゃないの?
30分くらい経った頃、一木が病室に戻ってきた。
「ヒツジさんと二人で話をさせてくれんか」
と一木は言った。もう、これ以上、蚊帳の外に置かれるのはごめんだった。
「私も聞きたい」
そう口を挟むと、一木は少し迷うそぶりを見せたが、
「わかった」
と言って、椅子に腰を掛けた。私と優花、そしてヒツジさんの顔を順番に見た。
「ヒツジさんの足は直らん。最低でもあと二週間は入院、その後は車椅子生活が待っとる。元の生活には戻れん」
ヒツジさんは、すべてを知っているかのようにうなずいた。
「俺はもう現役じゃないけん、わーが好きなようにせえ」
「ほんとによかと?」
「ああ、前からそんつもりだけん」
一木とヒツジさんは、一体なんの話をしているのだろう。そこには家の違いによる確かな断絶があった。一木はきっと無自覚に、桐山家の当たり前を使って会話している。
一木はきっぱりと言い放った。
「俺たちはもう、これ以上、この土地で牧場経営を続けることはできん」
その目は優花だけを見据えていた。
「ヒツジさんはこんな身体だし、優花一人にも任せられん。元々三人でやっとった牧場を一人で支えるんは、無理がある」
「一木は、阿蘇に戻らないの?」
優花は一木の手にすがった。
「俺は戻らん。莉音を幸せにするって決めたけえな。本当は、この週末、俺たちはお互いの両親と顔合わせする予定だったばい」
一木は優花を振り払って、私の手を掴む。優花の顔がくしゃくしゃに歪んだ。私はこんな形で、優花に婚約の報告をしたくはなかった。
「優花、お前には選ぶ権利がある。このままここに残り続けたいんなら、方法はある。今後、俺げの土地はTKG協同組合の管理下に置かれることになる。そしたら、優花はヘルパーの一人として雇ってもらえばよか。もう一つの方法は、別の場所で新しい仕事を探すことたい。どっちかを選んでくれんか」
選ぶこととは、なにかを捨てることだった。少なくとも優花にとっては。
一木の言っていることは、きっと正しい。その正しさを込めた瞳で見つめられれば、きっと優花は断れないだろう。正論というものには、そういう暴力的な強さがあった。
私はずるい女。五年前、自分が作った種子が実を結んで、このような形で優花に渡される様子を、ただ黙って見届けるだけなのだから。
「少し、考えさせて」
優花はその言葉だけを、絞り出すように口から吐いた。
私たちを乗せた車は、桐山牧場に戻る。いや、今朝まではかろうじて牧場だったが、今はもうそんな名前じゃない。
優花は早々に後部座席を降りて、自室へと帰っていった。一木がエンジンキーを回して車を停める。二人きりになった。
「一木はさ、やり直せるならどこからやり直したいと思う?」
一木はハンドルを左手で握ったまま、まっすぐに前を見つめた。
「俺は後悔なんぞせん」
ああ、彼はいつもこうだった。私が間違いを犯しそうなときでも、いつだって前しか見ていなかった。結局そういう人のところに私は戻る。そして、同じ道を進むことになるのだ。
結婚への高速道路。そこには誰が決めたか知らないが、数々のイベントが連なっている。私たちは何度も確認してきた、その道のりを。
「どぎゃん苦労があろうとも、二人で進んでいくってな。両親や優花の意見なんぞ最終的には関係なか。だけん、今更後悔なんぞせん」
私は彼の二の腕に腕を絡める。そうは言うけどね、一木、ほんとに関係ないのかな。私、見ちゃったよ。一木のスマートフォンに、ライトカオスの写真が届いているところ。その優花の気持ちを無視して進んで、ほんとにいいのかな?
一木の瞳孔が私を捉えた。
私たちはずっと、優花に役割を押しつけてきた気がする。なにかが起きる幻想を抱かせて、ずっと待たせてしまっていた。
「そぎゃんこと、優花だって知っとったはずたい。俺らだけの罪じゃあなか」
うん、私たち三人の罪だ。私たちはいつだって罪深い。正しい選択をしているようで、実はそうじゃない、正しいことをすることが罪なことだってあるのだ。
だから、私は一瞬だけ、正しくない存在になるよ。
「ああ」
それが償いになるかどうかは、よくわかんない。だけど、こういうことをやって初めて、私は過去とちゃんと向き合える気がする。
「なるほどな。毎年四月十日になるたびに、俺が感じとったあの感覚。あれが罪だったとね」
一木はなにかに納得したようだった。
「そばってん、俺にはしきらん。今更正しくないことなんぞ」
別にいいよ。私がやるから。
「じゃあ、よろしく頼む」
うん、任せて。
みんなが正しくないことをしなくてもいい。一木にはいつも、前だけを向いていて欲しい。運転席に座ったときの横顔が、私はずっと大好きだった。