10. 希望を求めて
一木は今すぐにでも阿蘇に向けて出発したそうだったけど、私は反対した。
「だって、まだ余震が続いてる」
私は3.11を思い出していた。揺れが収まって数時間後に津波がやってきて、私たちを恐怖のどん底に叩き落とした。だから、すぐに動いたってどうにもならないこともある。まずは情報を集めようよ。
私の説得を受けて、一木はいったん落ち着いたようだった。腰を降ろして、しばらく無言でテレビを見続けた。
熊本市内の状況をレポーターが懸命に状況を伝えていた。棚の倒れた商店、崩落した塀や看板、避難する人々。益城町の方が特に深刻らしく、複数の家屋が倒壊し、火災も発生している。九州電力は川内原発に異常なしと発表。だが、阿蘇市が画面に映ることはなかった。
「明日には行くばい。あそこにおるんは優花だけじゃないけん。ヒツジさんも、牛も、チャオもおる。全部を優花一人に任せられん」
こういうまっすぐな目をしているときの一木は、決して止められないことを私は知っている。だから、うなずくしかなかった。
私は職場に「明日は行けません」という旨のメールを送った。また、足元が少し揺れた。この余震が続く中、とても営業しているとは思えなかったが、念のためだ。一木も同じようなメールを送っていた。
まだ太陽も昇りきらないころ、私たちはトランクにミネラルウォーターを積みこんだ。春とはいえ、朝は凍えるくらいに寒かった。一木がハンドルを握り、私は助手席のシートベルトを締めた。中古で買った黒塗りのSUV。車はアパートを出発した。
市内から阿蘇へ向かうには俵峠を越えるのが一番の近道なのだが、万が一を考えトンネルを通るルートは避けることにした。そうなると外輪山の北側、県道三三九号を通るルートを行くしかない。
車は緩やかな上り坂に入る。景色から次第に家が減り、電柱が減り、草原と空だけになる。大地の所々に、黒い筋のような亀裂が走っている。そのことが地震の大きさを物語っていた。
バラバラというヘリの音。どこから聞こえるのだろうと空を見上げたけれど、薄膜のような雲が日光をぼんやりさせるばかりだった。車は赤信号で一時停止した。一木は車のハンドルをトントンと指先で叩いた。いらだちが私にも伝ってきた。
再発進、車は山の中へと入っていく。道路は右へ左へ、激しく体が揺さぶられる。一木はアクセルを緩めない。私は窓際に強い力で押しつけられる。風景はものすごいスピードで流れていく。
直線に戻る。内蔵がシートに貼り付けられるかのように重く感じられる。そしてまたカーブ。なんども繰り返される左右への揺さぶりに眩暈を覚える。風景は加速を続ける。緑と黒の線が視界の中でぐちゃぐちゃになる。
そのとき、不意に木々が途切れた。車の右手が一気に開けた。牧草地が半月状に広がっている。その向こうには田んぼが並び、奥には黒い岩のような山が、阿蘇山が見える。
みんな、無事なんだろうか。この狭い盆地の中に、なぜだろう、懐かしい風景がたくさんある。お母さんも、優花も、テンさんも、ヒツジさんも、そしてカピバラも、みんなこの中にいる。私にとってはたった一年を過ごした土地なのに、故郷ですらないのに、忘れられない思い出がある。
「また、この景色を見りゃんとはな」
一木がぼそりと呟いた。
車は少しずつ斜面を下っていく。田んぼを横切る農道に、車が停まっているのが見える。中を覗いてみると、人がタオルを被って眠っていた。どうやら街中にいたら危険だと判断した人たちが、車を使って避難しているらしい。
小学校が見える。校庭には車や救急車が停まっており、テントが張られている。体育館の中にたくさんの人がいるようで、あふれた人間が入り口付近にたむろしている。絵に描いたような被災地だ。
私たちの車は、そんな光景をよそに坂道を登っていく。
そして緑の丘の上に白い二軒の家が現れる。桐山家と松風家、一木はその手前に車を停めた。
松風家から見覚えのある女性が姿を現す。乱れた髪、飾り気のない服、化粧もしていないのに愛らしさを失わない顔。
「ほんとに来てくれたんだ」
一木は車を降りて、優花を両腕で抱いた。
「無事でよかばい」
私はその光景を目の前で見ながら、不思議と心は落ち着いていた。一木の行動を批判する気にはなれなかった。そういう批判ができる立場にないことは、自分が一番よくわかっていた。それに、そうすることによって優花の心が少しでも安らぐのなら、今は特別に許したかった。
優花は私たちをリビングに招き入れて、今の状況を説明した。
「ヒツジさんを病院に連れて行きたいの。救急車を呼ぼうとしたけど、昨日の時点では受付できませんって言われて……」
なんでも、昨晩は単に上半身に傷を負っただけかと思っていたのに、今朝になって下半身もうまく動かなくなっているらしい。おそらく病院は昨晩の時点での状況を聞いて判断してしまったんだろう。
「ヒツジさんとテンさんをいったん旧小学校に運ばんか。さっき、そこに救急車が停まっとった。ヒツジさんのことも、テンさんのこともどうしたらいいか、俺たちだけじゃわからん。一度避難所に行って情報を集めたいけん」
そうして一木はダイニングにうずくまったヒツジさんに声をかけた。
「立てっと?」
一木が肩を貸して立ち上がろうとしたが、思いのほか重かったのか、ずるりとヒツジさんの身体が崩れた。
「一人じゃ無理だよ」
優花が反対側の肩を支えて、持ち上げる。腰がまっすぐになるにつれて、ヒツジさんがうめき声を上げる。慎重に、二人で歩を進めていく。
「ここを通って」
私は行く手にあるドアを開けて、三人を外に連れ出す。なんとかして、車の後部座席にヒツジさんを座らせることができた。
次は、テンさんだ。優花は死体を見るのを嫌がったので、私と一木が家の裏へ赴く。テンさんは地面に顔を伏せて転がったままだった。
全身の関節は硬まってきていて、思うように動かなかった。一木が頭の方、私が足の方を持ち上げることになった。両足は靴下を履いているのに冷んやりとしていた。
「なんだろ、まるで死体みたい」
「ああ、俺もまだ実感が沸かん」
私たちはテンさんをトランクに積んだ。足を折り曲げて、無理矢理トランクルームの蓋を閉めた。
小学校の校庭に車を停めた。ヒツジさんをもう一度降ろす気力はなかった。三人で車を降りて、体育館へ向かった。
体育館のそばに、サングラスをかけた女性が腰かけている。「赤星先生」と優花が呼んだ。一木も合わせてお辞儀をした。
「あの、母が……」
「大変なことになりましたねえ」
赤星先生と呼ばれたお婆さんはのんびりとうなずいた。
「でも、ここに来られたということは、無事だということです。まずは一安心。ほらほら、体育館の中に入ってください」
「母が、死んだんです」
優花の口から嗚咽が漏れた。
「あらまあ」
赤星先生が驚いているのか悲しんでいるのか、サングラスのせいでよくわからなかった。亡霊のようにゆっくりと立ち上がって、優花の肩を強く掴んだ。
「優花ちゃん、今が正念場です」
その言葉は優花だけではなく、私たち三人に言い聞かせているかのようだった。
「あなたがしゃきっとせんと、桐山農場は支えられません。失ったものは大きいけど、ここから立ち上がらんとなんにも始まりませんよ。今が、踏ん張りどきです」
その後、赤星先生が救急救命士のおじさんを呼んでくれた。その人の診察によると、ヒツジさんは傷の位置によっては下半身不随になる可能性があるとのことだった。ともかく一度、病院に送って検査した方がいいらしい。テンさんの遺体も死後措置のため、いったん病院に運搬するべきだと言われた。
まもなく救急車がやってきて、二人の体が担架に乗せられた。
「俺も同伴したか」
と一木は申し出たが、
「病院に行ったところで居場所はないぞ、自分の避難を優先しろ」
とおじさんに強く言われて、引き下がった。私たちは救急車が校庭を出て行くのを見送った。
赤星先生が私たちにおにぎりとお茶を配ってくれる。どうやら近くのスーパーが無償で避難所に食料を提供してくれたらしい。
「気を落とすことはありません。あなたたちの無事が確認できただけで、本当に良かったと思ってるんです」
よく考えると、朝からなにも食べていなかった。私たちはがむしゃらにおにぎりを頬張った。
体育館の周りでたくさんの老人が談笑している。テンさんが死んで、ヒツジさんが怪我を負って、世界が終わるような気がしたけれど、そんなことはない。この土地では、まだたくさんの人たちが生きようとしている。