9. どおん

 私たちの小学校は、今年の三月に廃校となりました。もともと子供の数が少なかったからしかたがありません。でも、今後私たちの後輩が出てくることがないと思うと、なんとなく寂しい気持ちになります。
 校舎と体育館は取り壊されないまま残っているし、桜の木もそのままなので、一見すると以前と何も変わらないように見えます。でも、子供たちの声が聞こえてこない。停まっている車もない。そんな小さな違いを見つけるたびに、思い出の場所が失われてしまった実感が沸いてきます。

 だから、葉桜の側に人影を見つけたとき、私は自分の目を疑いました。スーツを着た男性が、私に向かって大きく手を振っていました。誰だかすぐにはわかりませんでした。
「ひさしぶり!」
「ああ、佐々木君」
 男友達の成長には、ときどきびっくりさせられることがあります。あの佐々木君がこんな好青年になるなんて。
 彼はニカッと白い歯を見せて笑いました。その顔だけは以前からなにも変わっていませんでした。
「今日はどうしたの?」
「いや、仕事で近くまで来ることになったから、寄ってみたんだ。廃校になったんだってな」
「仕事?」
「ああ、春から福岡県庁に勤めてんだ」
 佐々木君が仕事を始めていたことを、私はこのとき始めて知りました。そういえば成人式の時も、佐々木君の顔は見ていませんでした。
 彼が公務員になるなんて誰が想像したでしょうか。成長を感じられて嬉しい反面、私の中で彼について知らないことがあまりにも多くなっていて、なんだか別人に会っているみたいです。
「松風はどうしてるんだ?」
「私はまだここにいるよ。牧場の手伝いをしてる」
 こんな風に小学校の同級生と再会すること自体、すごく珍しいことでした。同じ地区で育ったはずなのに、まだ阿蘇に残っているのは私とカピバラくらいのものです。
「じゃあ、一木は?」
「一木は春から熊本市内の会社に勤めてるよ」
 私は有名な食品加工会社の名前を挙げました。
「へー、すげえな。じゃあさ、あのチャオ、チャピルだっけ? あいつは元気にしてるか?」
「ライトカオスになったよ」
「まじで?」
 佐々木君は目を丸くしました。私は数日前に、ライトカオスの写真を撮っていました。カメラロールからそれを探して、佐々木君に見せました。
「……やべえ」
 それはライトカオスを見た人が時々見せる反応でした。この様子を見ると、私は自分自身とのギャップをいつも感じて、なんとなく話題を逸らそうとしてしまいます。
「佐々木君のチャオはどうなった?」
「俺も中二くらいの頃にライカに育てようとした。でもうまくいかなかった」
 今回だけは、話題を逸らすことができませんでした。
「あるとき気付いたんだ。ライカを目指すのが絶対じゃないって。頑張って、試行錯誤しても、どうしてもうまくいかなくって、それで俺はチャオを育てることが全然楽しくなくなってたんだ。チャオなんて適当に可愛がっとくのが、俺にとっては本来の育て方なのかもしれないって、そう思ったとき、やっと俺はライカから解放されたんだ」
 私にはよくわからない感覚でした。私はライトカオスを育てるために、特別な努力をなにもしなかったから……もちろん育て方を調べたりはしましたが、結局よくわからなくて、それなのにいつの間にかチャピルはライトカオスになってしまったのです。
「優花はチャピルを可愛がっているか?」
「そのつもりだけど……」
「じゃあ、大事にしてやれよ」
 佐々木君の頬骨が影を落としました。
「大人になったら、もうライカに全力を出せる時間なんてないからな。だから、俺の分も頑張って欲しい」
 そう言い終えたところで、佐々木君はあわてて「あ、いや、松風が大人になってないっていう意味じゃないぞ」と付け足しました。
「わかってるよ」
 私は苦笑しました。佐々木君はスマホをちらりと見ました。
「そろそろ電車の時間だ」
「また来てね」
「ああ、いつになるかわかんないけどな」
 佐々木君が背中を向けます。葉桜が風に吹かれてざわめきました。不意に、私は彼ともう二度と会えなくなるんじゃないか、そんな不安に駆られました。
「ちょっと待って」
 呼び止めましたが、よく考えれば、佐々木君がここに残る理由はなにもありません。たった一人の私のために、たまにしか来ない電車を見逃す理由も。
「……ごめん。行っていいよ」
「あ、そうそう、てかLINE交換しようぜ」
 佐々木君はスマホを私に差し出します。
「今はさ、ネットとかあるんだから、別にどこに住んででも一緒じゃね?」
 本当にそうでしょうか? スマホをみんなが持つようになってから、私はむしろ人との距離がより遠くなったと感じることがあります。友達との写真とか、誰に宛てたかわからないつぶやきとか、必要じゃない情報まで目に入ってきて、そのたびに私の知り合いは、私じゃない誰かに染められているのです。
 だからこそ、こうして人と出会うということが本当に特別な意味を持っている。そのことに気付いているはずなのに、私は
「じゃあ、またね」
と手を振って、いつ会えるかもわからない人の連絡先を握りしめていました。

”『変わらんのがよかね』と君が言ったから、四月十日はライカ記念日”

 五年前、私はその日に名前を付けました。別に特別なことをするわけじゃありません。ただ、ライトカオスの写真を撮って、LINEで一木に送りつけてやるだけです。
 そこから毎年なにかしらのやりとりが生まれるのですが、今年はまだ、返事を受け取ってはいませんでした。

 その夜、牛舎の方から、牛たちの鳴き声が聞こえてきました。続いて蹄が地面を蹴る音も、まるでなにかに怯えているかのようでした。
 私はリビングのソファで、ヒツジさんはダイニングでテレビを見ていました。ちょうど夕ご飯の片付けを終えたテンさんが「私が見てくる」と言ってキッチンを出て行ったので、二人だけが部屋に取り残されました。

 それから五分ほど経った頃でしょうか。地面からどおんと轟音が聞こえて、私の身体は激しく左右に揺さぶられました。続いてなにかが割れるような音、瞬断する電気の音、スマホから鳴るけたたましいアラーム音、いくつかのことが同時に起きました。私は目の前のテーブルをしっかりと両手で掴みました。足元はぐわんぐわんと揺れました。私はテーブルの中に頭を入れるようにしてうずくまりました。とてもじゃないけど、それ以上のことはできませんでした。しばらくして、揺れは収まりました。私はゆっくりとテーブルから頭を出しました。
 ヒッと声をだしたのは自分でした。ダイニングでは、ヒツジさんが背中を押さえてうずくまっていました。食器棚の周囲に割れた皿が飛び散っています。近づいてみると、ヒツジさんの背中から、たらたらと血が流れ出ていました。破片の一つがヒツジさんに突き刺さっていました。
 たしか、リビングの棚に救急箱が入っていたはずです。あわてて包帯や絆創膏を取り出しました。ヒツジさんの側に近づいて、背中から慎重に食器の欠片を抜き取ります。シャツをまくり上げてみると、背中の傷は皮膚を突き破って奥深くに達していました。血はどんどん出てきました。どうすればいいかよくわからなくて、私はとにかく包帯をぐるぐると巻き付けました。
 また、地面が揺れました。先ほどに比べると小さな揺れですが、食器棚ががちゃがちゃと不穏な音を立てました。私は急に自分の身が心配になって、食器棚の扉を閉めました。ガムテープを持ってきて、棚の扉を固定しました。ひとまず、これで大丈夫でしょうか。

 ようやくあたりを見回す余裕が出てきました。食器棚以外にも、干してあったおたまや菜箸、冷蔵庫に貼り付けていたホワイトボード、エアコンのリモコンが落下しています。そして、また、緩やかな揺れ。テレビの画面にはいつの間にか大きなL字型のテロップが出ており、熊本県で震度七、そんな文字が目に飛び込んできました。
「ヒツジさん、大丈夫?」
「ああ」
 包帯を大量にぐるぐる巻きにしたおかげでしょうか、血液の染みはごく一部だけに留まっていて、特に広がっていく様子は見られません。ヒツジさんは背中を押さえたままダイニングテーブルの下に潜りました。ひとまず、そこにいれば安心できます。私の動転した心も、徐々に落ち着いてきていました。
 牛舎に行ったテンさんのことを思い出します。無事なのでしょうか。
「私ちょっと、牛舎の方を見てくる」

 先ほどまではあんなに騒がしかった牛たちが、不思議と静かになっていました。私はスマホの明かりを頼りに裏口を出ました。そしてはっと息を飲みました。
 牛舎の外でテンさんがうつぶせに倒れています。側には鉄パイプが転がっています。テンさんの頭のひしゃげた部分と、落ちた鉄パイプに残った血痕が同じ形でした。私はテンさんの脈をさぐりましたが、すでに息はありませんでした。
 どおん、とまた地鳴りがして、スマホがアラームを発しました。子供の頃からずっと過ごしてきた大地が、急に牙をむくのを感じました。どうしてこんなことに。
 私はテンさんを運ぼうとしましたが、私一人の力では無理そうでした。諦めて一人、桐山家へと引き返しました。ダイニングテーブルの下から、ヒツジさんがじろりと顔を覗かせました。
「テンさんはどぎゃんしたと?」
「死んでる」
 ヒツジさんはそれきり、言葉を失いました。

 私はどうしたらいいのでしょうか。母は死に、ヒツジさんは一応歩けるものの、怪我を負っています。私だけが無事だけど、それゆえに無力でした。また、地面が揺れました。私の日常というものが、もうほとんど壊れかかっていました。
 生き延びなければなりません。今、なにが使えるのか、一つずつ確認します。母屋の電気はひとまず付いているようです。水道は? 蛇口を捻ってみると、最初は透明だった水が、途中から鉄さびのような色へと変わりました。どうやら飲み水としては使えなさそうです。ガスは? 点きません。
 スマホの電波は? インターネットにはちゃんと繋がりました。ネットニュースのコメント欄で、みんな地震がすごかったというようなことを言っています。こんな風に投稿できるということは、逆に言うと、その人自身は無事なのかもしれません。私はとてもじゃないけれど、なにか投稿しようという気持ちになれませんでした。無事です、と言ったら嘘になるし、じゃあ不安を煽りたいかといったらそうでもないし……
 一木は? 無事なんでしょうか? 震源の位置からすると、一木も被災していたとして不思議ではありません。私は一木に電話しようとして、災害時の電話は御法度だったことを思い出し、LINEのメッセージに切り替えました。
> 大丈夫?
 数秒後、返事はすぐに来ました。
>> 大丈夫。そっちは?
> 私は無事、ヒツジさんは上半身に怪我、テンさんは死んだ
 今度は、返事がなかなか来ませんでした。一木の当惑が、目の前にいるように想像できました。
>> わかった。すぐ戻る
> あわてないで
>> こっちは無事だけん、自分の身の回りを心配せえ。なんか必要なものはあると?
 私はあたりを見回しました。取り急ぎ対処が必要そうなのはヒツジさんですが、一木に任せるよりも救急に送った方がよさそうです。となると、私にできることはなんでしょうか。
> 水が欲しい
 メッセージを打つ指先は乾いていました。

このページについて
掲載号
週刊チャオ チャオ20周年記念号
ページ番号
12 / 16
この作品について
タイトル
ライカ記念日
作者
チャピル
初回掲載
2018年4月30日
最終掲載
週刊チャオ チャオ20周年記念号
連載期間
約7ヵ月26日