8. 罪が見ている
私は光を求めていた。
一度は起きようと思ったけど、朝の日差しはあまりにも儚いうえに、氷のように冷たい空気の中で私は衣一つ身に纏っていなかった。細い腕を伸ばして布団をかき集めると、陽に照らされた一木の背中が見えた。彼も寒くなって飛び起きるんだろうな、と思いつつも、布団をえい、と引っ張って、自分の体に巻き付けた。そうして再びまどろみの中へと落ちていった。
まぶたの裏に焼き付いた光は暖かかった。でも、私がそれに手を伸ばすと、瞬く間に世界は暗闇に包まれた。私は怖くなった。
不意に、赤い光の粒が、夜空に弾けた。
花火が、ぼんやりとした残像を夜空に滲ませながら消えてゆく。
続いて、二発、三発。色とりどりの打ち上げ花火が窓の外を埋め尽くす。
隣には一木が座っていた。彼の顔が数え切れない光で照らされる。雑居ビルの二階と三階の間にある踊り場は、私たちだけが知る特等席。
「俺は、莉音のことが好きだ」
血流は恐ろしい速さで私の身体の中を巡った。喜びと、困惑と、恥ずかしさが、数秒のうちにあぶくのように弾けて消えた。いつかは言われるだろう、という予感はあったのに、私はなんの答えも用意していなかった。
あの日見つめ合った優花のまつげ。その感触をかろうじて思い出す。彼女の顔が、急に悲しみで歪むところを想像して、私はぞっとした。ああ、私のやっていることは父となにも変わらない。私の中の血がそうさせているのか、どうして他人のものを奪ってしまうのか。
私はどうするべきかわからなくなって、しゃがみこんだ。私の口に、いつの間に流れ出ていたのだろう、涙の味が広がった。私は一木に釈明しようとしたけど、うってかわって出てきたのはしゃっくりだった。
一木は私の肩をぽんぽんと叩いた。
「すぐに答えんでもいいけん」
一木が許してくれたことが、今の私にとってはありがたかった。
「一人で帰らせて」
「危なくなかと?」
私は黙って首を横に振った。これ以上、一木と言葉を交わしたくなかった。そんなことをしたら、本音が漏れ出してしまう気がした。一木の手を振り払って、雑居ビルを抜け出して、街道沿いを一人で歩いた。
夜風が吹いて、涙が少し乾いたら、私の気持ちも固まっていた。
アイツはバカだ。バカだから直球しか投げることしかできない。だから、私も全力で打ち返す。そうするのが唯一、バカに対する礼儀なのだ。
私は二人にメールを送った。優花には「今すぐ会える?」と。一木には「ごめん、明日まで待って」と。
優花は花火大会に行っていなかったから、私は再びあの長い坂道を登って桐山牧場に向かった。
チャイムを鳴らすと、優花が玄関の戸を開けてくれる。エアコンの涼しい空気が流れ出る。私の酷い顔をみて、なにかを察してくれたんだろう、
「私の部屋に、来る?」
と尋ねた。私はうなずいた。
優花は私の手を引いて隣の棟まで歩いた。そこはフローリングと白い壁紙に囲まれた、小さな部屋だった。私の部屋よりずっと整っている。整理整頓されているというよりも、そもそも必要なものしか置かれていないという感じだ。
入り口の横には水槽に入ったライトカオスがいて、それだけが異様な存在感を放っていた。まるで自然のものではないみたいに美しい生き物だった。
「リビングにあるとピカピカしてうっとうしいから」
優花はそんなふうにライトカオスを説明した。
「ねえ、優花はどうやってライトカオスを育てたの?」
「わかんない。気付いたら勝手になってたの」
私たちは水槽の周りにしゃがみこむ。ライトカオスの光が、私たちの顔を明るく照らす。
私は昔、お母さんが読んでくれた絵本のことを思い出していた。その中の最後のセリフが唇の先端からこぼれ落ちた。
「ライトカオスは、永遠の愛を願った人だけが手に入れられる」
「永遠の愛?」
「そう。そんな存在するかどうかわからないものを望んでしまった人の所にだけ、このチャオは現れる」
それはどこまで本当かわからない話だった。でも、そんなファンタジーが本物だと思えるくらいに、ライトカオスは私の想像をはるかに超えていた。生命力があふれ出ているのに、どこか幻想的だった。
「ねえ、優花はさ、本当は一木のことが好きなんでしょ?」
「そんなことないよ」
優花は首を横に振った。そのしぐさは妙にこなれているから、きっといつもその返答を繰り返してきたんだろう。そのうちに優花の本音も隠れてしまって、嘘から出た真なのか、真から出た嘘なのか、わかりにくくなってしまったんだろう。私はその建前を剥ぎ取りたかった。
「ねえ、もっと自分に正直になってよ。私、優花の気持ちを踏みにじりしたくないんだよ」
優花はうつむいて、目線を泳がせた。
「私、さっき、一木に告白された」
優花が顔を上げる。そのときの表情を、私は読み取ることができなかった。ライトカオスの光が風前の炎のように激しく揺らいで、優花の顔色を隠したからだ。
「私はずるい女。いつからか、一木のことが好きになっていた。なんでだろう。優花のことを傷つけたくはないはずなのに」
「別に、私は一木のことなんか好きじゃないよ。一木は私の隣に住んでる同級生。それ以上でも以下でもない」
「じゃあ、このライトカオスはなんなの?」
「私にもわかんないよ」
優花は弱々しくつぶやいた。
「たぶん、ライトカオスって、そんなにいいものじゃないよ」
優花はライトカオスを抱き上げる。白い身体は淡く光って、彼女を内側から照らしだす。
「私は知りたかったの。私と一木の関係を表す言葉を、ずっと探してた。テンさんとヒツジさんは、自分たちの関係を事実婚っていう形で周りに認めさせた。だから、私たちの関係も普通じゃなくていい。もっと、特別な言葉で語られるべきだと思った。周りのみんなは私が一木のことを好きだって言う。でも、それも私の本当の気持ちとは違っていた。なにが好きで、なにが愛なのかわからなかった」
優花はライトカオスを目の前に掲げた。
「ライトカオスを育てられたら、それが私たちの関係を象徴してくれる。昔はそう信じてた。でも、本物のライトカオスを手に入れてみたら、それだけじゃなんにもならないってわかった。四つ葉のクローバーを探している人は、いずれ必ず四つ葉のクローバーを手にする。それと同じように、私は言葉を必要としてたから、ライトカオスを手に入れたんだ。だけど、ライオンは違うでしょ?」
優花の視線が私を射る。
「私は知りたい。ライオンはどうして自分が一木を好きだって気付いたの?」
氷のように、なにかひんやりとしたものに触れた心地がした。
優花は、表向きは優しく、おおらかで、母性にあふれた女性に見える。だけど、本当は違うのかもしれない。人は誰しもどこかに足りない物を抱えている。優花の場合、それはある種の感情に対してのセンサーなのかもしれない。
わからない。私の中の優花が湾曲して、急に遠のいていくように感じられた。それはライトカオスの無表情な外見と混じり合って、人間ではない生き物へと姿を変えていった。
「じゃあ、私が一木と付き合っても、いいの?」
「いいよ」
「本当?」
「……応援する。だって一木もライオンもお似合いだから」
三角関係という言葉がある。ドラマとかでよくある、絶対に誰か一人が幸せを諦める関係だと、そう思い込んでいた。でも、その中の一人が壊れていたら、それは三角関係ではない。
私はずるい女だ。
一木と一つになったのは、それから結構経ってからのことだった。私は別に気にしなかったのに、彼が「受験が終わるまでは我慢する」と言い張ったからだ。
三月、私たちは塾に集まって、二人で合否を確かめ合った。同じ大学に受かっていた。
私たちは手を取り合って喜んだけど、周りの人たちの目もあったから、ちょっとだけ恥ずかしかった。先生に軽く報告して、すぐに私の家に向かった。開放的な気分だった。
それから、彼と私はお互いに強く抱きしめあって、キスをした。私と彼の唇が触れ合うと、二人の温度が同じになる。
彼は初めて「していい?」と尋ねた。
私はうなずいた。そうして、彼の筋肉質な両手が、私の制服のボタンをぎこちなく外す様子を見守った。
「逆だと、難しいたい」
顔をしかめる彼に「全然いい。むしろゆっくり外して」とねだる。
彼は苦笑しながら、自分のシャツをゆっくりと脱いだ。そして、ズボンとパンツも。
身体がベッドに倒される。私と彼の四肢がじかに触れる。彼のすべてが見える。首筋の血管や、そこに張り付いた髪の毛や、産毛の一つ一つまではっきりと感じられる。
彼は私の全身を探るように撫でた。最初は男の人が好きそうなところから始まって、くすぐったいところ、あまり見られたくないところ、そうして最後にあそこへと辿り着いた。彼は私をためらい気味に刺激した。
そのとき、私はあのライトカオスの青い目を目撃した。それはほんの数秒のことだった。びっくりして、私は思わず後ずさりした。
「痛かったと?」
「いや、そういうんじゃないけど……」
私はあたりを見回したが、ライトカオスの姿はどこにもなかった。幻覚? 白昼夢? 一瞬頭を巡ったいろんな考えは、彼との行為を続けたいという欲によってかき消された。
「ごめん。もっと続けて」
二回目は、なにも見えなかった。私は誰にも邪魔されることなく、彼のイニシエーションを堪能した。
私たちの身体はどうしようもない欠陥だらけだ。私の身体は彼を受け入れる器ではあったけれど、どこか窮屈で、動物的だった。
一木は、私の背中を抱きながら、私のことを初めて「莉音」と呼んだ。その変化に私はどきりとした。
言葉は自由。だから、どんな関係だって定義できる。そこには必ず彼の意志が反映されている。たかが名前だけど、一木が私を呼ぶ、その音が私を人間だと教えてくれる。
何度も交わったのは最初の一ヶ月くらいだった。新学期に入ってからは大学に溶け込むために慌ただしくしており、なかなかそんな余裕がなかった。
私たちは別々のアパートに引っ越した。だけど週末は毎回会った。
最初のうちはぎこちなかった彼のリードも、次第に手慣れたものへと変わっていった。そのたびにライトカオスが現れたが、私はそれを無視し続けた。
私は光を求めていた。
性的快感によって得られるそれは、ライトカオスの光とはなにかが異なるようだった。それでも私は、それを求め続けた。
私は忘れようとしていたのかもしれない。時間が経つほど、優花に対する罪悪感は小さくなっていった。しかし、それは決して薄まることはなく、むしろ種子のように凝縮されていった。