12. 鏡像
どうして、私はこんなにも惨めな気分なんでしょうか。ずっと前からわかっていたことじゃないですか。一木が私のことを好きじゃないってことくらい。
私は一木から一度も好きだなんて言われたことはなかったし、その点で裏切られたという気持ちは全くありませんでした。それなのに、私は一木を許すことができなくて、そのことが自分でも奇妙で、理不尽でした。
服を脱いで風呂場に入ります。姿見に無垢な体が映し出されます。ライオンよりは多少肉付きは良いかもしれないけど、起伏がないってわけじゃない。身体も顔も、美醜でいえば、そう彼女と変わらないはずでした。
そう、私たちはなにも変わらない。優花の像が映写機のように磨りガラスに投影されている。そのシルエットに自分自身を重ねる。
長い間、私たちは違う場所で、違う道を歩んできた。それなのに、一木が私を家族として受け入れてくれたあの日、私は優花を自分の双子のように感じた。明らかに違うのに、どこかが私と同じ他人がいる。その喜びを感じていたのは、私だけだったのだろうか?
優花のライトカオス。それを育てられたということは、優花の中にも愛する気持ちがちゃんとあるということだ。私はその力をまだ信じている。
ライトカオスの青い瞳が、私をじっと見つめていました。ライオンはかつて、この子を永遠の愛と呼びました。だけど、このライトカオスを手に入れてから、それは私の側から離れていったような気がします。
湯船にライトカオスを浮かべます。ライトカオスを中心に、乳白色の淀みがお湯の中に広がっていきます。それと同時に、薄汚れたライトカオスはその美しさを取り戻していきます。かすかに透けたしなやかな身体と、頭の上で燦然と輝く光。ぼうっと、見とれました。
不意に、私の頭の中に鮮明なイメージが浮かび上がりました。あの阿蘇山の火口湖に、ライトカオスを突き落とす。それは考えれば考えるほど、素晴らしいアイディアのように思えました。エメラルドグリーンの火口湖からは、とどまることなく蒸気が噴出しています。その蒸気がライトカオスの白い肌を飲み込んでいきます。やがてぽしゃんと小さな水音がして、次の瞬間、ライトカオスは今までにない激しい光を発しながら、湖に溶けていくでしょう。ライトカオスとはいえ、所詮はただの生き物。本当に高い温度には無力です。
ライトカオスを殺す。どうして今まで、こんな簡単なことに気付かなかったんでしょうか。それをやり遂げたあとのことを考えると、晴れ晴れとした気持ちになります。この家に残っている住人のうち、ヒツジさん、テンさん、牛たちはすでに他所へ行ってしまっています。あとはライトカオスと、私さえいなくなれば、全部すっきりするじゃないですか。
やめてよ、優花。あなたの人生に、無駄なことなんて一つもない。ライトカオスはすでに優花の一部になっている。だから、それを殺すなんて絶対にダメ。
私は風呂場の扉を開ける。浴槽の中の優花が目を見開く。彼女の戸惑いを気にせず、私も湯船に足を入れる。二人を抱えた海は、水かさがあふれ、床を一瞬で水浸しにする。水面の上に私と優花の髪の毛が垂れて、複雑に絡み合う。その黒い糸をすくい上げる。
私のことを許さなくたっていい。永遠に呪い続けてくれたっていい。本音を言えば、私はずっと優花のことが羨ましかった。暖かい家庭も、可愛い顔も、彼氏みたいな男も、全部持ってた。でも、それを奪いたいとは思わなかった。一木が優花のことを口に出すたびに、ずっとそのままでいてほしいと思った。
優花の脚。私の足元まで伸びている、きれいな脚だ。指先は彼女のくるぶしを伝って、ふくらはぎへ、それから太ももの側面を沿って、骨盤を越え、おへその周りを優しく撫でる。
私たち、本当は一つになれたら良かったのに。こんなときに一番与えたい人にそれを与えることができない。
……私はライオンを憎んでなんかいません。ライオンにとっては、ずっと私のことが心残りだったんでしょう。一木と出会う度に、私の存在を思い出して、苦悩してきたのかもしれません。
でも、私にとって、それはライトカオスだったんです。毎日、私が自分の部屋に帰ると、そこには決まってこの白い偶像がいました。いつまでも燃え続けるこの光を絶やさぬように、ずっと一木の帰りを待っていました。
私は長い間、物語の中を生きていました。テンさんとヒツジさんが始めたこの牧場で、私は大切なことを教えられていたような気がします。巣のように共通して守るべきものがあるのなら、私たちは本物の家族のように繋がっていてもいい。テンさんは再婚することで、私に居場所を与えてくれました。
だけど、私はそれだけじゃ満足できなくなりました。母の与えてくれた場所に住み着くのではなく、自分の居場所を自分で作りたくなりました。憧れ、と言い換えてもいいかもしれません。ライトカオスは、その象徴に過ぎないんです。
でも、結局一木は別の人を選びました。この五年間、そんな予感がなかったと言ったら嘘になります。テンさんが死んで、牧場を守る人が誰もいなくなったことで、本当の意味で物語は終わりました。ライトカオスにとどめを刺したとき、私は夢から覚めて、ようやく現実の中を歩けるようになるんです。
……私たち、本当は違うライトカオスを見ていたのかもね。
どういう意味?
優花は誤解している。ライトカオスを表す言葉は一つじゃない。このチャオは鏡のように私たちの見たいものを写し出す。私はそこに永遠の愛を求めていた。だから、あの時の私はそれがあると信じることができた。
さすがに今はもうそんなものないって分かってる。だけど、優花のライトカオスには、確かにその片鱗はあったんだ。それは私にとって、心の底から信じられる一つの真実だった。優花が見せてくれた光に、私は手を伸ばし続けることができた。
だから、ライトカオスの光は、純粋に優花自身の内側から出た輝きなんだよ。優花はなにも諦めないでよ。自分のやりたいこと、全部やったっていいんだよ。ライトカオスを育てたとき、きっと強い意志が優花の中にあったはず。それを自分の憧れだなんて、簡単な言葉で片付けないでよ。
わかりません。あのとき私がどんな気持ちだったかなんて、とっくの昔に忘れてしまいました。一度切れてしまった糸がもう元には戻らないように、私はこの先ライトカオスを二度と育てられないでしょう。
だからいっそ、殺してしまった方がいいんです。ライトカオスというものに、なんの価値もないんです。もちろん、高校生の頃の私は、これ以上美しい生き物はこの世にいないと思っていました。だけど、大人になった今は、それがすべてじゃないことを知っています。蜻蛉さんも、佐々木君も、ライトカオスを諦めてなお幸せそうに暮らしています。むしろライトカオスを諦めたからこそ、幸せになれたのかもしれません。
私だってそうです。この五年間は、私にとって、いろいろなものを諦めるのに十分な時間でした。
私はお風呂に浮かんだライトカオスに目をやりました。薄く透けた肌が水面と混じり合って、独特な光沢を描き出しています。本当に、罪深いまでに美しい存在です。このチャオを殺したとき、私の未練もきっと死んでくれるはずです。
私は優花にライトカオスを殺させるわけにはいかなかった。ライトカオスは優花の子。それは彼女にとって、最も大切なものだった。だからライトカオスの両脇を抱えて立ち上がった。派手な水しぶきが立って、水面に映った白い鏡像がかき消される。後ろを振り返らず風呂場を出る。
お風呂場の電気が急に消えて、私の視界は奪われます。ライオンも、ライトカオスも、どこかずいぶん遠い所に行ってしまったみたいです。
波は次第に弱くなります。湯船の壁で反射され、私の体でもみ消され、やがて凪のように静かな水面になります。
私のたった一つの望みは、ついさっきまでライトカオスを殺すことでした。それを取り上げられた今、私は自分自身のために、何をしたらいいのでしょうか? どこを目指せばいいのでしょうか? よくわからなくなってしまいました。
もし仮に、ライトカオスを殺せたとしても、私は同じ疑問に辿り着いていたのでしょう。現実はフィクションと違って、ちゃんとした結末があるわけじゃない。最初は両親をなぞるように始まった物語も、どこか違う波紋を残しながら、私たちの関係を揺らしていきます。
だから、私はもう一度立ち上がります。肌の上を水が滴り落ちていきます。一歩ずつ、重力を感じながら、力強く足を踏み出します。母なる海を抜け出したら、そこには今までとは違う大地が広がっています。