6. 蜻蛉

 変態とは、動物が成長する過程で体の形を変えることです。決して変な意味ではありません。
 例えばオタマジャクシがカエルになるとか、ヤゴがトンボになるとか、多くの生き物が水中から陸上に適した形に姿を変えていきます。
 チャオもその例に漏れず、変態することでより長い時間を陸上で生活できるようになります。ただし、長いと言ってもあくまで両生類ですから、ずっと水を与えないと死んでしまいます。
 本当に陸上で長時間生き続けるには、ライトカオスにするしかないのです。

 チャピルの変態にはまだ時間がかかりそうでした。私たちは先に牛舎の見学に向かうことにしました。
 お風呂場の脱衣所で作務衣に着替えます。私はライオンの容姿をまじまじと観察しました。軽くウェーブがかかった明るい髪に、鮮やかな桃色の唇。普段化粧なんてする機会のない私にとって、ライオンのファッションはすごく若者っぽく見えました。作務衣だけが野暮ったいのでなんだかちぐはぐでした。

 私がライオンを牛舎に招き入れると、すぐ、ライオンはなにかに気付いたようです。
「カピバラの所とはずいぶん違うんだね」
 私たちの牛舎はつなぎ飼い方式、すべての牛が柵で区切られているタイプです。TKG牧場のような大規模かつハイテクな牛舎を見た後だと、私たちの牧場はいかにも普通と思われるかもしれません。
「こっちの方が日本ではメジャーなんだよ。一頭一頭をちゃんと管理できるっていうメリットがあるんだよ」
「ふうん」
 私は必死でつなぎ飼いのいいところを説明しているのですが、この努力が伝わっているのでしょうか。

 次に、私たちは分娩房へと向かいました。昨日生まれたばかりの子牛が、いつの間にか自力で歩けるようになっていました。子牛は母牛の周りをぐるぐると回りました。
「かわいいじゃん」
 ライオンは子牛に興味を持ったようでした。
「触ってもいいよ」
 ライオンの人差し指が子牛の頭にちょこんと触れました。
「よし、お前は真っ黒だからダークだ」
「勝手に名前を付けないでよ」
 私は注意します。これから母牛と引き離さないといけないのに、不要な情が沸いてしまうじゃないですか。
 でも、ライオンはそんな注意は意に介さずといった感じで、
「ダークはこれからいいおっぱいをたくさん出すんだぞ」
と言いながら、子牛の鼻筋を何度も撫でました。子牛もそれに答えるように、ライオンの指先をぺろぺろと舐めました。

 リビングに戻ると、テンさんが降りてきていました。
「あら、あなたがライオンちゃん? かわいいわねえ。どこから引っ越してきたの?」
「横浜です」
「あらそうなの。懐かしい~! 私の大学もそこらへんにあったから、私、一時期横浜に住んでいたのよ。今はもうこんなおばさんになってしまったけど、あの頃は私も若くてぴちぴちだったのよ。ねえねえ、横浜のどのあたりなの?」
「栄です」
「栄、じゃあ結構反対側ね。あたしは青葉区だったから。でもいきなりこんな田舎に引っ越してきて、牛だらけでびっくりしたでしょ? ねえ、どうしてこっちに引っ越してくることになったの?」
「母の仕事で」
「お母さんはなにやってる方なの?」
 ライオンはテンさんの質問の多さに、しばらく圧倒されていました。助け船を出そうにも、人の話に割り込むのは正直言って苦手です。私は一木の姿を探しました。でも、彼は二階に上がってしまったのでしょうか、どこにも見当たりません。
 テンさんはひとしきりライオンのプライベートを聞きまくったあと、「そろそろご飯にしようかしら」と言って台所に立ちました。ライオンは緊張がとけたのか、はあ、と足を投げ出しました。

「いいね、優花は」
「え、どうして」
「なんか、家族って感じがするじゃん」
「私たちは本物の家族じゃないよ」
「本物じゃなくても、寄り集まってちゃんと家族らしくなってる。それがいい」
 私にはライオンの感覚がよくわかりませんでした。
「ねえ、ライオンの家ってどんな感じ?」
「私の家? つまんないよ」
「どんな感じ?」
「1LDKに私と母が二人だけ。お父さんは昔近所に住んでたけど、不倫だったみたい」
 ライオンは感情を込めることなく説明しました。
「お父さん、今は阿蘇に住んでるかもしれない」
「どうしてわかるの?」
「引っ越したって手紙をもらった」
「会いたくないの?」
「まあ、会えたらでいいよ」
 ライオンはどこか遠くを見ながら答えました。その言い方はなんというか――あまり期待値を上げないようにしているみたいだったので、私は不安になりました。だって、私には二人もお父さんがいて、いつでも好きなときに会いに行けます。それと比べると、ライオンの境遇はあまりにも寂しくて、想像するだけで胸が痛くなります。

「できたわよ~!」
 キッチンからテンさんの呼ぶ声がします。テーブルの上にはホットプレートが置かれていて、その上に肉と、たくさんの野菜が盛られていました。
「ミルクじゃないじゃん!」
「まあ細かいことは気にしないで! 食べて食べて!」
 テンさんはあっけらかんと言い放ちます。
「準備はいい?」
 私たちは箸を握りました。テンさんのトングが肉をがっしりと掴んで、鉄板の上に肉をぶちまけました。肉から脂がこぼれて、鉄板の上でジュワッとはじけ、香ばしい煙がリビングの中に充満します。
 テンさんはトングで大胆に肉と野菜を掴み取ると、ざっくばらんにライオンの皿に盛りました。続いて私の皿にも。この肉に塩だれをかけて食べるのが、桐山・松風家の作法です。ライオンは控えめに肉を一切れだけつまみ上げて、それからぱくりと口に含みました。
「おいしいかい?」
「ふふぁい」
 ライオンは本物の肉食獣になったかのように、ただひたすらに肉を食い続けました。私も負けじと食べました。あれだけ牛を見た後なのに、私たちが大切に育てている牛なのに、とても残念な事実があります。肉がうまい。
 香りに誘われたのでしょうか。一木も二階から降りてきました。私たちが無心で肉を喰らい続けているのを見て、すぐに自分の皿と箸を取り出しました。
 しかし、この戦場に情けはありません。一木の取ろうとした肉をライオンが次々にかっさらっていきます。
「ああ……」
 一木は野菜をむしゃむしゃと食べました。

 その間もチャピルはずっと繭に包まれたままでした。普通なら二時間が経過した頃から徐々に繭が薄くなっていって、成体になったチャピルが現れるはずです。だけど今回は、私たちがご飯を食べて、食器を洗い終わってもなお、同じ姿を維持し続けていました。
 ライオンが来てからゆうに三時間以上が経っていました。私は繭の表面に触れてみましたが、ざらざらした不気味な触感が指先に残っただけでした。
「まだ変態してる」
 ライオンもチャピルの様子を心配そうにのぞき込みました。
「変態、終わりそうにないね」
 これを見てからライオンを帰そうと思っていたのですが、どうしましょうか。
 窓の外を見ると、山の端に太陽が沈みかけていました。六月になって日が長くなったといえ、この盆地では太陽はすぐ隠れてしまうのです。
「泊まってく?」
「いや、明日学校あるし」
 ライオンは立ち上がりました。
「早いけど帰ろう」
 私はチャピルを見やりました。やっぱり、あまりにも長すぎる。こんな状態が長く続くなんて、なにかがおかしいとしか思えませんでした。
「私もついていく」
「わざわざいいって」
 ライオンはびっくりした様子で、私を引き留めました。
「気にしないで。ついでにチャピルをホームセンターに連れて行くから」
 私は繭を抱えたまま、玄関へ向かいました。

 街を目指して斜面を下っていきます。後ろの空は真っ赤なのに、前の空は群青色だから、まるで夜に向かって進んでいるみたいです。私たちの影は先が見えないくらいに長くなって、進行方向を針のように指していました。私たちは自分の影が指す先を追いかけました。
 ホームセンターの方がライオンの家より近かったので、先に寄っていくことにしました。
「ここに来るのは初めて?」
「うん」
 ライオンは特に迷うこともなく、一直線にペットコーナーに向かいました。客はまばらで、蜻蛉さんだけがレジの中で頬杖をついて暇そうにしていました。
 ライオンは蜻蛉さんを前にして足を止めました。
「えっと……」
 ライオンが私をうながしましたが、それより前に蜻蛉さんが立ち上がりました。
「待て。お前、莉音だろ」
 ライオンは、こっくりとうなずきました。
「どうしてここまで来た」
「こっちに引っ越したから」
「そうか」
 蜻蛉さんは天井に視線を移しました。
「仕事中だから手短に説明するけどな。なるべく話しかけないでくれないか。俺には今、別の家庭がある。昔のように遊んでやったり、食事に連れてってやることはできないんだ」
「なんで」
「お前も大きくなったからわかるだろう。妻子持ちのおっさんが女子高生と飯を食ってたら、どういう目で見られるか」
「でも」
「お前のことは、今の家族に説明してない。まさか会えるとは思ってなかったからな」
「どうして私だけが許されないの?」
 ライオンの手が、わなわなと震えていました。私はどう声をかけたらいいかわからなくて、繭を強く抱えました。
「莉音のせいじゃない。全部俺のせいだ。俺は二度も過ちを繰り返してきた。だからこそ、今度はちゃんと父親を全うしたいんだ。そのために、お前には俺と会わなかったことにして欲しい」
 蜻蛉さんは、深々と頭を下げました。
「すまん」
 ライオンはその頭を、見下すように眺めました。
「むかつく」
 ライオンは唇を真一文字に結びました。眼光が、蜻蛉さんを見透かすように鋭くなりました。
「あんただけがのうのうと幸せになろうとしてるのが、私には許せない。手紙に書いたことは全部嘘だったんだね」
「すまない」
 ライオンは怒りを抑えるかのように、大きく深呼吸しました。
「いいよ、もう金輪際この店には来ないし、私はあんたのことを恨み続ける」
 ライオンは蜻蛉さんに背中を向けると、足早に通路を引き返しました。私はどうするべきか、一瞬躊躇してしまいました。
「お前もだぞ、優花」
「え?」
「お前だって、今の家族からすれば疎ましく思われてるんだ。すまないが、これからは店員と客の関係だ」
 そんなこと急に言われたって、私にも、どうしたらいいかわかりません。振り返ると、去りゆくライオンの背中が見えました。
 少し悩んでから、私はライオンの方を追いかけました。その背中にまだ可能性が残っていると信じて。

 お店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていました。かすかな太陽の残光が、山の端を刃のように浮かび上がらせていました。
「信じらんない」
 ライオンは私の方をちらりと一瞥しました。
「今日は、一人で帰りたい」
「ダメ」
 私はライオンの腕を掴みました。そうしないと、私とライオンとの関係が閉ざされてしまうような、そんな気がしたからでした。
「ねえ、良いように考えようよ。私たち、同じお父さんから生まれたんだよ」
「そうだね。私がお姉ちゃんで、優花は妹」
 莉音は苦々しげに答えました。
「じゃあ、私たちは家族だよね」
「ごめん。今はそんな気分になれない。すくなくともあの男の中では、優花だけが家族で、私は家族じゃない」
「それは……」
 言いかけたところで、莉音は私の手を振りほどきました。その拍子に、私の抱えていた繭がするりと落ちて、道路の淵で弾みました。繭はぽちゃんと水田に落ちました。野生のけりがキイキイとうるさく鳴きました。
 けりの巣の中に小さな卵が四つ並んでいます。あれを守るために、けりは夫婦で交替しながら卵を温めているのでしょう。ひるがえって、私たちはどうなのでしょうか。卵のように、共通して守らなければならないものがあるのでしょうか。
 繭を救出した頃には、莉音はどこかに行ってしまっていました。私は繭の表面についた泥を落とすため、軽く擦りました。繭は私になにも語ってはくれませんでした。

 家に帰ったら、繭を持ったまま布団に入りました。ライオンと蜻蛉さん、二人の姿が夢の中に浮かび上がります。二人とも、私から離れていって欲しくない。だけど、私が話しかけようと近づけば近づくほど、二人の顔は憎しみに染まりました。
 どうして、裏目に出てしまうのでしょうか。そこに大きな誤解があることはあまりにも明らかでした。だけど、私がそれを解こうともがけばもがくほど、ほつれはより激しく絡まっていきます。気がつくと、私は真っ黒な生糸でがんじがらめにされていました。手も足もでないまま、私は二人が去って行くのを見ていることしかできませんでした。
 私の胸の中で、チャオの繭だけがほのかに光を発していました。私にとって、唯一側にいてくれるのがこの繭でした。いいえ、チャオには決してそんなつもりはないでしょう。ただ私の方が、この行き場のない気持ちをぶつける対象を探していて、繭はそこから逃げも隠れもしないだけでした。
 私は繭を強く抱えました。繭は黒い糸と結びついて、カイコのように一体となりました。そして糸を飲み込みながら、次第に大きくなっていきます。私の意識は、次第に朦朧としてきました。
 気がつくと、繭の糸はもうほとんど残ってはいませんでした。糸のすき間から、神々しい光が漏れ出していました。その光はまるで灯籠のように、不思議な文様を私の部屋に浮かび上がらせました。繭はどんどん薄くなっていきました。それと共に、光も次第に強さを増して、私は思わず目を細めました。
 光の中に、ライトカオスがいました。テレビでしか見たことのないその生き物が、私の目の前にいました。
 透き通るように白い体と、青い瞳、頭上で輝く光。この世の物とは思えない美しい姿。私はライトカオスに手を伸ばしました。肌に触れるとぬくもりが指先から流れ込んできました。あらゆる悩みは私の頭から抜け落ちて、温かい水が私の心を満たしました。
 天井に浮かび上がる波模様を目にしながら、私は眠りへと落ちていきました。

このページについて
掲載号
週刊チャオ チャオ20周年記念号
ページ番号
9 / 16
この作品について
タイトル
ライカ記念日
作者
チャピル
初回掲載
2018年4月30日
最終掲載
週刊チャオ チャオ20周年記念号
連載期間
約7ヵ月26日