4. 君影草
毎年五月頃になると、山のふもとでスズランが小さな花を咲かせます。一面に広がった緑の上に、白い斑点がぽつぽつと浮かび上がります。スズランは牛に食べられることがないので、この花ばかりが生き残り、結果として牧場の名物となっているのでした。
その日、私はいつものように斜面を登って、学校から帰っていました。坂道の途中、おばあさんが一人でいるのを見つけました。サファリハットを深く被って、ボンヤリとした様子でスズラン畑の中に立ちすくんでいます。
私はなんとなく不安に思って、おばあさんに声をかけてみることにしました。
「どうかされましたか?」
おばあさんの顔がこちらを向きました。サングラスをかけているため表情はよくわかりません。
「もしかして、優花ちゃん? 大きくなりましたねえ」
はて、私はこの人に面識があるんでしょうか? 記憶を辿っても、こんな知り合いは思いつきません。
「私スズランを見たくて山を登ってきたんだけど、ちょっと疲れちゃって、どこか一休みできるとこない?」
「このあたりにはないですね。地べたに座るしか」
「そうですか、じゃあもう下りましょうかねえ」
おばあさんは畑の中から出ようとしました。その時、強い風が吹いて、おばあさんが杖をつきました。
「アイタタタタ」
「大丈夫ですか?」
私はあわてて駆け寄って、おばあさんの手を取りました。おばあさんはにっこりと微笑みました。
「最近腰が悪くなってしまってねえ、ここまで登ってくるのも一苦労だったんですよ」
「大変ですね」
私はおばあさんの手を引いて、道路まで連れていきました。といっても、このあたりは牧草地の真ん中なので、めぼしい道しるべは見当たりません。
「ここまで来たらもう大丈夫」
おばあさんはそう主張しましたが、私の心配は拭いきれませんでした。
「おうちはどこですか?」
おばあさんはここからそう遠くない集落の名前を挙げました。そこなら、普通に歩いていけそうです。
結局、私は集落まで手を繋いで歩くことにしました。おばあさんの家は立派な一軒家で、もしかしてこの人は地元の有名な人なのかな、と想像しました。
帰り際、おばあさんは私に小さな紙きれをくれました。見れば、それは俳句でした。
> 子の顔に君影草のかほりたつ
「これをあんたのお母さんに預けといてね。ほんに、今日はありがとうね」
おばあさんは私にしっかりと頭を下げて、家の中へ去っていきました。
帰ってからテンさんに、その老婆のことを話しました。
「あんた、それ赤星先生じゃないの?」
「赤星先生?」
「そうそう。あんたが小学校四年生だったとき教頭だった人」
「そんな人、よく覚えてるね」
自分の担任ならともかく、教頭の名前なんてそんなにはっきりと思い出せるものではありません。けれどもテンさんはうんうんとうなずいて
「優花は覚えとらんかもしれんけど、私はPTAでお世話になったんよ」
と言いました。ははーん、と、私は思いました。
「じゃあ、その人がテンさんとヒツジさんを引き合わせたの?」
「いや、それは全然」
「じゃあなんで?」
「うーん、なんて言ったらいいのかなあ……」
テンさんは夕ご飯を作る手を止めて、思い出を語り始めました。それはこういう話でした。
むかーしむかし、といっても八年前のことですが、ヒツジさんとテンさんは同じ家で暮らすことを決めました。長年雇っていたヘルパーが辞めることになって人手に困っていたヒツジさんと、ちょうど離婚が成立して自由を手に入れたテンさん、二人の利害が一致したことが決め手となりました。
同居を始めても、二人はしばらくそのことを誰にも言ってはいませんでした。でも、PTAで同じ委員をやっていた佐々木さんという人は、二人の関係性の変化にめざとく気付いたみたいです。
「松風さん、最近桐山さんとなにかあったの?」
そんな質問があったので、テンさんは彼女に、ヒツジさんと同居し始めたことを教えました。変な話ですが、テンさんはそれまで親族以外にそのことを教えてなかったらしいのです。
「だって、結婚って言っても、事実婚でしょう? だから名字も変わらないし、別に言わなくてもいいかなーって」
「なんか、ゆるいね……」
佐々木さんに教えた後、噂はいつの間にかほかの保護者の間で広まって、やがて二人が事実婚していることは周知の事実となったそうです。
「まあ、最初の頃はそれでもいいかと思っとったんよ」
テンさんはあっけらかんと言いました。
でも、しばらくして、テンさんはこの判断が誤りだったことに気付きました。事実婚という言葉をよく知らない人たちが、噂に尾ひれを付け始めたからです。テンさんはヒツジさんの愛人なんじゃないか、あるいは、やましい過去があるから再婚できないんじゃないか。そんな噂が、保護者の間では広がっていたようです。他の保護者からこっそり事実を確認されたりしたことで、テンさんもうすうす事態に気付き始めました。
「で、噂の出所を辿ってみると、どうも最初に言ってた佐々木さんって人が、そういうことを言ってるらしいってことがわかったの。まー、キレちゃったよね」
テンさんはPTAの全体会議で、名指しで佐々木さんを非難したそうです。すると、佐々木さんも「隠そうとする方が悪い」「あんたら夫婦がいると子供の教育に悪い」などと逆ギレして、会議を退室してしまいました。会議は一時中断となりました。佐々木さんはそれ以降、親子共々学校に来なくなってしまいました。
「そのときは私もプンプンしてたけど、あとになって、やっぱり佐々木さんをみんなの前で責めたのはよくなかったなあって思ったの。でも、仲直りしようにも本人が来ないからどうしようもなかったの。そんな時に、私たちを助けてくれたのが、赤星先生だったのよ」
話を聞きながら、私は小学生の時のことを思い出していました。佐々木瞬という同級生が、たしかにいました。私たちのクラスには生徒が十人しかいなかったのですが、佐々木君はその中では一番小柄で、すばしっこく、運動神経がいいという評判の生徒でした。
そんな彼が一度だけ、熱を出して休んだことがあります。
――蒸し暑い夏日でした。私は突然先生に呼び出されて
「佐々木君の家にプリントを持っていって欲しい」
とお願いされました。
「はい、先生」
とその時は素直に答えたものの、正直言ってあまり行きたくはありませんでした。ただでさえ暑いのに、自分の家から反対方向に向かわないといけなくて、うんざりしながら学校を出発しました。
田んぼの向こうに背の高いススキの草むらが広がっていて、それを抜けた先に佐々木君の家はありました。
「ごめんください」
私がチャイムを鳴らすと、品の良さそうな感じのおばさんが出てきました。
そのとき、玄関の奥の部屋に奇妙な水槽があることに私は気付きました。中には青い生き物が泳いでいて、足拭きマットが敷いてありました。
「あ、チャオだ」
青いチャオは私を一瞥し、ゆらゆらと漂いました。
「チャオを飼ってるんですか?」
と、私は聞きました。おばさんは困ったような表情をしながら、
「ええ、そう」
と答えました。
「あなたもチャオに興味があるの?」
「卵がうちにありますけど、どう育てたらいいかわからなくて」
それはチャピルの卵のことでした。離婚のときに餞別として、蜻蛉さんが私にくれたものでした。
「しばらく見ていってもいいですか?」
私のセリフに、佐々木君のお母さんは当惑した表情を見せました。だけど、私に帰る気が全然なかったので、断るのも面倒と思ったのでしょう。
「そんなにチャオが見たいなら、上がりなさい」
そう言って私を部屋に上げてくれました。
佐々木君のチャオは目の覚めるような青色で、頭には三本のトゲが生えていました。私がチャオを見ていると、佐々木君もいつの間にか部屋から出てきて、私にチャオのことをいろいろ教えてくれました。
「知ってる? チャオって両生類なんだぜ」
「両生類ってなに?」
「カエルとかと同じ仲間ってこと」
「へー、そんなこと知ってるなんて、すごいね!」
私は空気の読める子供だったので、とりあえず佐々木君を褒めました。佐々木君は白い歯をニカッと出して笑いました。
彼と話していて、私はうすうす気付いてきました。佐々木君の病気は、実は大したことがないらしいということに。でも、私はそのことを追求しませんでした。なぜなら、私にとっては、成体のチャオを見ることの方が、嘘を暴くことよりもずっと大切だったからです。
私はプリントを受け取ると、連日ススキの草むらを抜けて佐々木君の家に行きました。そんな日々が一週間くらい続きました。
「それが、赤星先生の作戦だったんだ」
テンさんは私の話に我が意を得たりといった表情でした。
「親というのは、結局の所、子供同士が仲良くされたら付き合わざるをえない。優花が佐々木君と友達になったから、向こうもみすみす無視できなくなったんでしょ?」
「そうなの?」
「そんなもんよ。それに子供がどういう振る舞いをするかによって、親の教育が行き届いているかどうかわかるもの。優花は、佐々木さんに認められたんだ」
「ふうん」
親の心子知らず、とはよく言ったもので、子供の頃の私はそんないざこざに全く気付いておらず、ただチャオに夢中になっていました。まあ、それでことがうまく運んだなら、きっと赤星先生のやったことは正しかったのでしょう。
佐々木君とは、その後中学校で別々のクラスになり、あまり連絡を取らなくなりました。今は一体どうしているのか、噂もほとんど聞きません。
ガチャリ、と裏口の扉が開いて、ヒツジさんが汗を拭きながらリビングに戻ってきました。
「さあて、夕ご飯にしないとね」
テンさんはもう一度腕まくりして、まな板に向かいます。動きを忘れかけていた時計の針が、また回り始めたようでした。
テーブルに残されたメモに、ヒツジさんが足を止めます。
「これ、誰の句だ?」
「赤星先生」
テンさんが答えます。
「そうか」
ヒツジさんはそのメモを何度か読み返しました。それから、胸ポケットのボールペンを出し、メモの後ろに一言書き足しました。
>> 過ぎる風炎 私たちの師
「たしか、卒業文集に住所も書いてあったよな」
「大丈夫、さっき家までの道のりを確認しておいたから」
私は胸を張って答えました。