3. 呼名

「もうすぐ出るばい!」
 ヒツジさんの呼ぶ声がして、私は糞尿を掃除する腕を止めました。出る、というのはウンコのことではありません。子牛が産まれそうなのです。
 本来三日前が出産予定日のはずでしたが、なかなか産まれなくてやきもきしていました。でも、今朝になってようやく産気づいて、ついにその時が来たようです。

 分娩房の中は奇妙な熱気で満たされていました。母牛が地面に横たわっています。そのお尻から、液体がぽたぽたとこぼれ落ちています。膣口から子牛の小さな蹄が見えています。
「自力で出られそう?」
「まだわからんばい」
 ヒツジさんは母牛のお腹をぽんぽんと叩いて、牛を励ましました。
「濃厚飼料をバケツ一杯持って来んか」
 牛舎を出てすぐ横に巨大な漏斗形のタンクが設置されています。私はその下にバケツを置いて、飼料をたっぷりと注ぎました。
 子牛の出産は、月に一度くらいの頻度でやってくる、よくある出来事です。私たちが牛を強制的に出産させているというと、抵抗を覚える人もいるかもしれません。でも、乳牛である以上は必要なことです。母牛は出産しないと母乳を出すようにはならないのです。
 子牛の後ろ足がずるりと産道を抜けて、胴体が吐き出されるように地面に転がりました。ぬるぬるとした羊水に覆われた、できたてほやほやの命です。
 子牛は懸命に立ち上がろうとして、すぐに転んでしまいます。そんな子牛の身体を母牛はぺろぺろと舐めました。子牛はまた立ち上がろうとして、転びます。母牛は子牛を舐める行動を何度も繰り返しました。
 ヒツジさんが母牛の側に飼料を置きます。やっぱりお腹がすいていたのでしょう。母牛は思い出したかのように、がつがつとエサを食べ始めました。

 この子牛の父親は、誰なのかわかりません。精液だけ買ってきて、人工授精で繁殖させているからです。
 だけど、ヒツジさんは――血のつながりを無視していえば――この子の父親と言えるのではないでしょうか。
 それは私にとっても同じでした。

 ……私の母、テンさんは私が七歳の時に蜻蛉さんと離婚し、十歳の時に再婚しました。再婚と言っても、婚姻届を出していない結婚……いわゆる事実婚です。事実婚すれば、名字を変える必要がない代わりに、デメリットもいくつかあるらしいですが、難しいことはよくわかりません。
 ヒツジさんはそんな母の再婚相手です。今更お父さんと呼ぶのもなんとなく違和感があって、私はいつもヒツジさんと呼んでいます。そしてそのヒツジさんの息子が一木です。
 そんなわけで、私たち二つの家族は同じ家に住んでいるのに、私は松風優花で、あいつは桐山一木なのです。

 リビングに戻ると、いつの間にか一木が帰ってきていました。机に向かって参考書を広げています。
 おかしな時代になったものです。あんなにいたずらっ子だった一木が、大人しく受験勉強しているなんて、まるで勉強好きな宇宙人に洗脳されたみたいでした。
 私は集中している人を邪魔しないように、そろりそろりと歩きました。

 チャピルの水槽を横から軽く叩きます。チャピルは賢いので、この合図だけで水面から上がってくれます。マットレスの上に着地して、とんとんとジャンプして水を切ります。
 私はチャピルの水槽に手をかけ、そのまま持ち上げようとしました。
「ちょっと待たんか」
「なあに、邪魔だった?」
「そぎゃん意味じゃなかと」
 一木は手をかざして私を制しました。
「あー、お前がライトカオスのことで怒りよるなら、俺が悪かったけん。すまんばい」
「え? 別に怒ってないよ?」
「そうっと?」
 私たちは顔を見合わせました。
「弁当にブロッコリーが五つも入っとったけん、てっきり、俺を殺す気かと思ったばい」
 私は単にブロッコリーを消費したかっただけなのですが、なにかとんでもない勘違いをさせてしまったようです。

「優花、ちょっとこっち来んか?」
「うん」
 私は一木の隣に座りました。
「言い方が悪かったばってん、ライトカオスを育てること自体はよかことと思っとるんよ」
 私にとってはほんの小さなすれ違いでも、一木はたいてい正直に謝りました。
「俺のせいで、優花を不安にさせてしまっとったもんな」
 一木は私の頭を撫でました。

 がちゃりと渡り廊下の扉が開きました。テンさんが私たちの方を見て、口元を手で覆いました。
「あらあ、お邪魔だったかしら」
「お母さんは引っ込んでて!」
「はあい」
 テンさんは扉を閉めました。一木は私の頭から手を離しながら、忌まわしそうに扉を見ました。
「変な邪魔が入ったけどな」
「うん」
「二人で名前を決めた日も、こぎゃんふうに座ったよな」
 頭の中でミンミンゼミがけたたましい声で鳴いていました。夏の日差しが地面を焼いて、暖められた空気のせいで遠くの景色が歪んでいました。
「あっつい」
 私が靴箱の前で嫌そうに立ち往生していると、一木が私の手を引きました。
「よかとこがあるばい」
 一木は私を校舎の裏に連れて行きました。そこは別に特別な場所ではありませんでした。ただ、ブロック塀の上からブナの葉が地面に向かって張りだして、気持ちよさそうな木陰を作っていました。私たちはその塀によじ登って座りました。
「なんか、今更新しいお父さんとか、変な感じせんと?」
 私はうなずきました。
「だけん、新しい名前をつけたか」
 一木は近くに落ちていた枝を拾って、砂の上に両親の名前を書きました。
「俺げのお父さんはヒツジさん、優花のお母さんはテンさん、よかとね?」
 たしかに、捻って読めば、そう読めなくもありません。それに、お母さんがテンと呼ばれることが、なんとなく腑に落ちている自分がいました。
「おもしろいね。私にも名前つけてよ」
「えー、優花は優花ばい。なんの動物にも似てなか」
「そうかなあ?」

 ――太ももから伝わるチャピルの冷たさが、私の意識を戻します。
「俺はあんとき、お前に名前をつけんかった。俺と優花の関係だけは、ちゃんと言葉にせんといけんと思っとった」
 そう。一木は誰かに私を説明するとき、絶対に一言では説明しませんでした。恋人とか、友達とか、兄妹とか、そう割り切ってくれたら楽だったのに……だけど、私にとっても、それらの言葉はどこか足らなくて、私の気持ちを完全には置き換えてくれないのでした。
「俺たちは不完全な家族だけん、自分らの関係を説明する言葉は、自分で作らんといけん」
「自分で作る?」
「それが特別ってことたい」
 特別な言葉……一木のような相手を表す言葉があるのでしょうか。こんなに近くにいるのに、手も握らないし、キスもしない。だけど大切な時には必ず側にいてくれる。
 私にはわかりません。都合のいいものを求めすぎているような気もします。

 チャピルは私たちのことを、不思議そうに見つめていました。
「相変わらずこいつはなに考えとるか、さっぱりわからんばい」
「そう?」
「頭の上にはてなとかぐるぐるとか、出してくれりゃいいぽよ」
「なにその語尾」
 私は笑いました。
「そういう球があったら便利ぽよ。人の気持ちだって、牛の気持ちだってわかるぽよ」
 一体どこでそんな言い回しを覚えてきたんでしょうか。
「ま、たしかに便利だけどね、さすがに現実味がないよ」
 現実を超えたところに、その言葉はあるのかもしれません。

このページについて
掲載号
週刊チャオ チャオ20周年記念号
ページ番号
6 / 16
この作品について
タイトル
ライカ記念日
作者
チャピル
初回掲載
2018年4月30日
最終掲載
週刊チャオ チャオ20周年記念号
連載期間
約7ヵ月26日