2. 夜の鳴き声
間違ってスマホの撮影ボタンを長押ししてしまったときのように、記憶はときどき断片的で不明瞭なゴミを残す。それは大きな背中だった。ワイシャツの背中を掴んで、短い髪の毛をよじ登って、顔を上げたときの世界が広がる感覚。ただそれだけが記憶の底にこびりついている。
あとになって、それは私の父だったと知った。私は五歳の頃まで、時々父親と遊んでもらっていたのだ。
父との思い出は、具体的な形を伴って私の部屋に残されていた。ずっと引き出しの奥に眠っている、秘密の思い出。
> りおんへ
> おとうさんは、らいげつから とおいところに ひっこすことに なります。
> くまもとけんの あそ というところです。
> もうあえないかも しれませんが、りおんとあそべて たのしかったよ。
> こんごは とおくから りおんのしあわせを ねがっているね。
> おとうさんより
だから、母が横浜から阿蘇への引っ越しについて話し始めたときも、私はこの手紙のことを思い出していた。
「いいよ、ついてく」
母は目を丸くした。
「ほんとに? ド田舎よ、あそこ」
「うん、別にいい」
母が集めてきた寮の資料をゴミ箱に突っ込んだ。もちろん、友達と会えなくなるのは嫌だったし、新しい学校に溶け込むのは苦労するだろう。だけど、それ以上に、私をここまで育ててくれた母に、高校卒業までは寄り添ってあげたかった。それに、私は自分のルーツが辿れるチャンスが巡ってきたことに、わくわくしていた。
今日一日で、本当にいろんな言葉を覚えた。クラスメイト達に話しかけられても言ってる意味がよくわからなくて、何度も聞き返してしまった。ぎゃんかわ、とか、あーね、とか、ばってんばってん、放課後になって、多くの生徒が部活でいなくなってくれて、ようやくほっと一息つけた。
まあ、それなりにうまくやれたんじゃない?
薄暗い田んぼが見渡す限り続いている。あぜ道を一人で歩いていると、小バエが私の腕に止まるので、振り払う。太陽はすでに西の山に隠れている。人も、街も、車もない。マジでなにもない。ヤバイ。
アパートの戸を開けてかばんを降ろす。私の部屋には、未開封のダンボールがまだたくさん残っている。それらを隅に寄せて寝転がると、ひんやりとした畳の感触が私の背中を冷ました。引っ越し前はあんなにも膨らんでいた期待が、嘘のようにしぼんでいった。
本当にここで良かった? まだわからない。
テーブルの上に、500円玉が一つだけ置かれている。
母はホテルに勤務しているので、夜遅くなることが多い。そんなときには、いつもこの500円で、私はコンビニのパンやおにぎりを買って食べた。冷たい母だと思われるかもしれないが、そうじゃない。料理、仕事、家事、全部を一人に求めるなんてどうかしてる。だから、私の方から、夜はコンビニで済ますことを提案したのだ。
とはいえここは横浜じゃない。スマホの地図でコンビニを検索すると、かなり遠くの方に一つだけピンが立った。ショルダーバッグに筆記用具と財布を移して、外へ出る。しばらく歩くと、進むべき道も黄昏に溶けてなにも見えなくなる。スマホの灯りだけがアスファルトを照らす。
キイキイという奇妙な音が、どこからともなく聞こえてくる。手の中の明かりがふらつく。本当にこんなところにコンビニがあるのだろうか。
横浜の街でも、夜一人で歩くときは変質者に注意するように言われてきた。だけど、阿蘇の夜にはそれとは別種の怖さがあった。妖怪や物の怪の類が……いや、私はそんなこと信じないけど、ちょっと出てもおかしくないっていうか、なにか私の知らないものがこの闇に潜んでいてもおかしくないっていうか……そう思うと、私は自然と早足になった。
しばらく歩き続けると大通りに出て、街灯が道を照らすようになった。横断歩道を渡った先にコンビニを見つける。店の周りを羽虫が飛び交っていたが、気にしてはいられなかった。
パンとミルクティー、コンビニで買って、ふう、と一息つく。次の目的地は塾だ。昼間受付に行ったときはなんともなかったのに、夜は未知を恐怖に変える。意を決して、大通りへと出る。
塾は交差点を通過した先の、雑居ビルの二階にあった。私が来たときにはニ、三人の生徒が着席していて、みな黙々と自習に励んでいた。私は隅の方に腰掛けて、さっき買ったパンを食べた。
学校ではあんなにいろんな人に話しかけられたのに、塾生たちは不思議なくらい私に無関心だった。しばらくすると、部活帰りの生徒達が次々に入ってきて、私の隣にも二人の男子生徒がかばんを降ろした。どうやら席を詰めた方が良さそうだ。
先生がホワイトボードの前に立つと、すぐに講義が始まった。生徒達のシャープペンシルがカリカリと音を立て始めた。
――これは後から聞いた話だが、阿蘇市から大学に進学するためには、まず下宿を取って熊本市内の高校に通うのが普通らしい。だから、この塾に通っているような人はみな下宿を取れない事情を抱えていて、勉強にも手を抜くことが許されない。
なにも知らないこの時の私は、急にそんなガチめの空間に放り込まれていた。そして二時間の講義が終わる頃には、げっそりと疲れ果てていた。ほっぺたを机にひっつけて安らかに目を閉じた。
……ふと、視線に気が付く。隣の席の男子生徒が、じっと私を見つめている。
「なに?」
「お前ライオンじゃなかと?」
パコンと音がして、その男の頭上に丸めたノートが落とされた。同じ制服を着た、眼鏡の男子生徒が側に立っていた。
「まずお前が名乗れや」
「はい」
その男は一木と名乗った。眼鏡の方はカピバラというらしい。二人とも同じ高校の普通科に通っているらしい。私は福祉科だから、接点がないのは当然だった。
「カピバラって本名?」
「いや、本名は片原」
「カピバラでよかと。みんなそう呼んどるけん」
一木が答える。カピバラは忌々しげに一木を横目で見る、その様子から察するに、事実だからなにも言い返せないらしい。
「そっで君はライオンだけん」
「なんで?」
私の本名は莉音だ。なんとなく音は似ている気がするけど、それ以上の意味があるのか?
「こいつに名前のことを言っても無駄だぞ」
まあなんでもいいか。カピバラよりはマシだし。
「マシってなんだよ」
しまった、つい口が滑った。
「おーい、電気切るぞー」
先生の声が教室に響いて、私たちは追い出されるように教室を出た。階段を降りたところでもう一度夜道を見据えると、息を大きく吸い込んだ。
「なんばしよると?」
後から降りてきた一木が、私のことを不思議そうに見た。
「心の準備」
一木はきょとんとした。
「夜道を歩くのに勇気が要るから」
「へえ、ライオンにも勇気が?」
一木は目を見開いて大げさに驚いた。
「ライオンって、あんたが勝手に呼んでるだけだから」
「この近くに住んどると?」
「十分くらい歩く」
「一緒に行ったろうかい?」
「はあ?」
「んにゃ、俺らバス来るまで暇だけん」
悪気はないらしいが、ちょっと警戒してしまう。とはいえ一人で行くのもそれはそれで怖い。
「いいけど」
私はしぶしぶ了承した。
薄暗い農道を縦一列に並んで歩く。やはりまた、甲高い鳴き声が聞こえてくる。
ほら、闇の中に、得体の知れない生物がいる。そいつは私のことをじっと見ていて、私を脅かせようとしてる。
この懸念を伝えると、一木はぶっと吹き出した。
「こりゃけりたい」
一木は私からスマホを受け取って、周囲の田んぼを照らした。あぜ道を見つけるとずかずかと入っていく。
「勝手に入っていいの?」
「どうせばれんけん」
一木は電灯を田んぼの中央に向けた。こんもりとした茶色い塊が水田の中に浮かんでいる。小枝を積み重ねて作られた巣の上に、鴨のような鳥が座り込んでいる。鳥は私たちを見て立ち上がる。奇妙なくらい長い脚だ。
「美脚の鴨か」
「だけん、けりだって言いよるのに」
「熊本にしかいない鳥?」
「全国にいると思うけどなあ」
カピバラが苦笑しながら、けりに向かって石を投げる。けりはもう一度激しく鳴いて私たちを威嚇した。
なぜだろう。私は父と遊んだ記憶を思い出していた。
父も動物が好きだった。公園で犬を見かける度に、私の手を引いて近づいていった。
「おい、ポチ」
父が犬に手を伸ばす。ポチと呼ばれた犬は、たぶんポチという名前じゃない。噛みつきそうな勢いで父に向かって吠えるその犬が怖くて、私は父の脚の裏側に隠れた。
「恐がりだなあ、莉音は」
父は私を抱え上げた。そうすると、急にポチは足元の小さな生き物になって、私は安心した。
暗闇から聞こえてくるキイキイ声も、正体がわかってしまえばどうということはない。
この日以来、私は臆せずに塾に行けるようになった。そしてこの二人の男子生徒の隣の席に座るようになった。