1. 半月
チャピルの身体を掴んで、ゆっくりと水槽の中に沈めます。口からぷかぷかと気泡がのぼります。チャオという生き物はのんきなもので、こうして水につけておけば、いくらでもゆったりと楽しんでいられるようです。
不意に、チャピルの顔が苦しそうに歪みました。それと同時に、お尻から細長く茶色い塊が出てきます。塊がころんと水底に落ちると、チャピルはほっとしたような表情を浮かべました。
初めてチャオのウンコを見た人は「イメージと違う」とか「アイドルはそんなことしない」とか、めちゃくちゃなことを私に言ってきます。でも、しかたないじゃないですか。生き物なんですから、そりゃするでしょう、ウンコ。
「しっとーと? ライトカオスってウンコせんらしい」
リビングのソファに寝転がっていた一木が、胡散臭いことを言い出しました。
「どこで聞いたの?」
「蜻蛉さん」
「ホントかなあ」
水槽に落ちたウンコを拾いながら、私は考えます。やっぱり、この世に排泄をしない動物がいるなんて、そう簡単に信じられません。
「よかろ? ウンコせんかったら、いちいち片付けをすることも、堆肥を切り返すこともないけん」
「その話題いつまで続けるの?」
「俺はお前の片付けが楽になりゃあよかねと思っていっとるとよ?」
「あれ、そうなの?」
少し、意外でした。一木は牛には興味あっても、チャオのことはこれまでずっとほったらかしだったからです。そんな一木が今更ながら、私が楽できる方法を考えてくれていたなんて……私は水槽を見ながらほくそ笑みました。
「あれ、もしかして優花、もっとウンコ拾いたかったと?」
「そんなわけないでしょ……」
こうして私たちは蜻蛉さんにライトカオスの育て方を聞きにいくことにしたのでした。
ここで、話を簡単にするために、一木と蜻蛉さんについて不正確な紹介をさせてください。
桐山一木は私と同居している高校三年生で、私の兄にあたります。私も高校三年だから、兄というより親しい同級生のような感じがします。
蜻蛉さんは、私の父にあたる人で、いまは地元のホームセンターに務めています。
蜻蛉さんの専門はペットコーナーです。なので、チャオのことに関しては、蜻蛉さんに聞けば大体教えてくれるのです。
積み上げられたケージの中から、子犬や子猫がこちらを見ています。隣にあるサービスカウンターや、熱帯魚のコーナーにも蜻蛉さんの姿は見当たりません。どこにいるのだろうと思ったら、雑然と並んだペットフードの棚に、新たな飼料を詰もうとしている人影を見つけました。私はその背中をつつきました。
「また来たのか……」
「暇なんじゃないの?」
「そりゃそうだが……お前とは月一しか会わない約束なんだからな」
言われて、私も周囲を見回します。休日のホームセンターには暇をもてあました老人が多く来ています。この誰がどこで知り合いと繋がっているかわかりません。田舎のコミュニティというのは狭いものなのです。私は声を潜めました。
「ねえ、ライトカオスの育て方って知ってる?」
「どうしたんだ、急に?」
「蜻蛉さんなら知ってるって一木が言うから」
「そりゃあ、俺だって昔はライトカオスに憧れたさ」
手を動かし続けながら、蜻蛉さんは答えました。普段はやる気のない蜻蛉さんが、ライトカオスを育てようとしたことがあったなんて、なんだか意外でした。
「まあその時の経験から言うとだな、世の中に売ってるライトカオス育成本、あれは参考にならんぞ」
「そうなの?」
「ああ、自由な環境で育てた方がいいとか、いろんな木の実を食べさせるといいとか、いろいろ書いてある。全部試したが、それでも俺のチャオはライトカオスにはならなかった。ま、おかげでいろんなチャオの育て方はわかったけどな」
「今はライトカオスを育ててないの?」
「無理だ。俺には心がなかった」
一木が横から口を挟みます。
「こないだテレビでライトカオスを何度も育てとる人を見たとよ。ありゃあどうしとっと?」
その番組は、私もリビングで一緒に見ていました。その人はチャオ育成の専門家ではなく、ただの専業主婦なのですが、なぜかその人の育てるチャオは頻繁にライトカオスに成長するのです。
「俺が思うに、ライトカオスが育つのに必要なのは、いい環境だけじゃない」
蜻蛉さんは言い切りました。
「チャオは心の動物だ。だから、飼い主が考えていることが、なんとなくチャオに反映されるんだ」
「心がきれいかどうかってこと?」
「いや、そんな単純なもんじゃない。とにかく俺には心がなかった」
蜻蛉さんがそれを「心」と呼ぶ理由はよくわかりませんでした。だけどテレビで見たことを踏まえると、個人によって差があるということは、あながち間違ってなさそうでした。
「私も別に、心がきれいなわけじゃないよね」
「いや、お前らにはまだ可能性がある。お前は本当に良い子に育ってるよ、優花」
蜻蛉さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でました。単なるお世辞だとしても、私はその言葉に勇気づけられました。
ホームセンターを出た後、一木は思い出したように口を開きました。
「やっぱライトカオスってよかね」
「どうしたの、急に」
「だって永遠に生きとるとよ」
どこまでも続く田園風景の中を、私たちは歩いて行きます。色とりどりの屋根がぽつぽつと畑の中に建っています。
「永遠の命なんてないよ」
「まあ、実際はな。大概の人間よりも長生きで、過酷な状況を堪えられるっちゅうだけたい」
それは、否定できません。ライトカオスの寿命は、200年とも300年とも言われています。
「そっで十分たい」
「どうして?」
「将来なんかあったとき、ライトカオスを見りゃあそっときの気持ちば取り戻せる。変わらんのがよかね」
本当はすぐに帰りたかったのですが、田舎にはそんな都合のいい交通手段はありません。一木はバス停横のベンチに腰掛けました。私は近くの自販機でジュースを買って、口をつけて飲みました。
「一木も飲む?」
「んにゃ、大丈夫」
一木は後ろの山をあおり見ました。
「もっぺん大観峰に登りたかね」
なんの気なしにいいますが、一時間に一本しかないバスで家の逆方向に向かうのは正気ではありません。
「それ、ほんとにやりたいの?」
「最後の機会かも知れんけん」
「ふうん」
私はかばんからおにぎりを二つ取り出しました。一木と散歩してて寄り道するのはこれが初めてではありません。だから、出かける前に作っておいたのでした。
「食べる?」
「ありがと」
一木がもしゃもしゃとおにぎりをかじるその横顔を、私は目に焼き付けました
――三ヶ月ほど前のことだったでしょうか。一木が急に「大学に進学したい」と言い始めたのは。
私たちの家は牧場を経営しています。だからずっと一木は家業を継ぐつもりだと、そういう風に思い込んでいました。けれども彼には違う目的があるようでした。
「いっぺん別の視点から酪農というものを見てみたか。だけん、俺に時間をくれんか」
一木のその言葉が、リビングの空気を揺らがせました。私はこっそりとテレビの音量を下げました。
「お前の言うとる大学っちゅうんは、どこんこっば言っとると?」
ヒツジさん、というのは一木のお父さんのことですが、一木の言葉に興味を持った様子でした。一木は中の上くらいの大学の名前を挙げました。
「あたしはいいと思うけど」
私の母も口を挟みました。
「なんていうかねえ、あたしも一応短大を出たんだけど、まあ学校での勉強なんて大して意味は無いのよ。でも大学受験に一度全力で取り組むっていうのは、悪くないと思うんよねえ。自分に自信がつくっていうか、自分はこんなに頑張れるんだっていうことを証明できるっていうか」
「わら、勉強したことあったと?」
ヒツジさんが一木に尋ねると、一木はまっすぐヒツジさんの目を見返しました。
「わからんけど、頑張るけん」
「わに勉強なんぞしきらんだろうが」
そんな風にうそぶきつつも、ヒツジさんはなにかの希望を一木に抱いているようでした。
バスは田んぼの合間を抜けて、山道を上り始めます。私たちのよく知る街並みが、ミニチュアのように小さくなっていきます。それに伴って、街の背景に溶け込むように存在していた黒く大きな塊が、ゆっくりとその全貌を現します。
阿蘇山――
その雄大な岩山は東西に連なり、阿蘇のカルデラを分断しています。こちら側は阿蘇市、向こう側は高森町と南阿蘇村です。山頂には大きな火口湖があって、今も水蒸気がかすかに噴出しています。
田んぼや畑が、阿蘇山を取り囲むように広がっています。私たちの通う高校も、その中に紛れているはずでしたが、小さすぎて見つけることができません。
街の外側には、外輪山と呼ばれるカルデラの淵が、深緑の壁となってそそり立っています。私たちのバスは、その斜面をぐんぐん登っていきました。バスの隣で、数匹の牛が草を食んでいます。まもなく到着のようです。
私たちはバスから降りて、草原に立ちました。ここから見下ろすと、阿蘇市の全貌はいびつな半月のように見えます。
なぜ古代の人たちはこの半月の中に暮らそうと思ったのでしょうか。なぜ私たちはこんな壁に囲まれた場所で暮らしているのでしょうか。ここに来るたびに、いつもそんな疑問が沸いてきます。
「本当に阿蘇から出て行くの?」
一木は黙ってうなずきました。
「引き留めたって、聞かないよね」
私には彼を引き留めることはできません。だって一木は私にとって、本当は兄ではありません。血縁でもありません。恋人でもありません。私は一体、彼のなんだっていうんでしょうか。
それに私だってわかっていました。誰だって本当はこんな田舎に住みたくない。両親がこの街に来なければ、絶対にこんなところで暮らそうとは思わなかったでしょう。
でも、私は残ることを決めました。一木がいなくなっても、私さえ残っていれば、きっといつか戻ってきてくれる。そんな気がしました。
「じゃあ、行く前に、ライトカオスだけは二人で育てようね」
私はただ思い出が欲しかったのです。ライトカオスさえいれば、きっと私たちの関係は永遠になる。それなのに
「やっぱ、俺はライカを手伝えれん」
一木の目には、私とは違う形でこの街が映っていました。
「答えのない問題を解いとれるほど、暇じゃあなか。俺の成績は、志望校には全然足りんけえな」
ずっと一緒に過ごしてきたはずの彼が、私の知らない一面を見せ始めていました。