二話 だから僕はホップになって

 やっぱり、タマゴはぴくりとも動かなかった。七時になったので僕はタマゴを元の場所に置いて、ダークチャオに別れの挨拶をしてダークガーデンを出た。チャオガーデンに戻って、ふと人気を感じて窓を見るとまたあの女性がいた。今日は青のダウンジャケットを着ていた。女性は僕の方を見ていて、僕と目が合っても目を逸らそうとしない。僕はすぐに目を逸らしたけど、視線を感じる。周りのチャオを眺める振りをしながら、僕は休憩所に繋がる扉を開けた。そしてすぐにその女性に話しかけられた。
「ダークガーデンに行ったんだ」
 やっぱり話しかけられた、とうんざりした気持ちと、緊張した気持ちを自覚した。多分、緊張の方が強かった。なんとかしなきゃいけないのだから。
「はい」
「バッジをつけたチャオ、何匹いた?」
「一匹です」
 この人は何を言いたいのだろう。そういえば、あのダークチャオ以外のチャオは全員売り物だった。五匹の中の一匹が飼いチャオで、そのチャオにだけ惹かれてしまうなんて運が悪いように改めて思う。あのチャオが売り物だったら良かったのに。
「そのチャオ、私のチャオなんだけど」
 期待が胸をよぎった。あのダークチャオとの距離が一気に縮まった気がした。この人と仲良くなれば、ずっとあのダークチャオと一緒にいられるのではないか。
「元気にしてた?」
「元気でしたよ」
 僕は高揚しながら答えたが、すぐに違和感を覚えた。自分のチャオが元気かどうかなんて見ればわかるのではないだろうか。昨日もそうだったが、この人は休憩所にいてばかりで、ガーデンの中にいるのを見たことがない。ここに来るのは自分のチャオを引き取るためじゃないのだろうか。いや、それとも僕が帰った後に引き取っているのか。それで、ダークガーデンの中でのダークチャオの様子のことを聞いたのか。そう考えれば不思議じゃないけど「元気にしてた?」という言葉から放たれる白々しさが拭えなかった。僕は思い切って、
「どうかしたんですか?」
 と聞いた。
「最近会ってなくてさ」
 回りくどい言い方だと思った。何をそんなに聞いて欲しいのだろう。
「なんでですか?」と僕は聞いてあげた。
「まあ話せば長くなるんだけどさ。このあと時間ある?」
 正直なところ、僕は早く帰って親を安心させてやりたかった。それに、家に帰ってからの落ち着く時間がないと、一日の収まりが悪いような気もする。でも、あのダークチャオのことを知るための逃してはいけないチャンスのような気もしていた。当然、今なら何を天秤にかけてもダークチャオの方が重くなる。迷う必要はない。
「ありますよ」
「じゃあ、ファミレスでも行こうか」
 僕は親に、ちょっと遅くなる、夜ご飯も食べてくる、とだけメールを送って、彼女についていった。受付の女性が好奇の目で僕たちを見ていた。
 デパートを出る頃には、外では雨が降っていた。強い雨でもないが、傘がないと結構濡れるだろうなと思うような雨だった。すっかり辺りには雨の匂いが漂っていた。冬の雨は冷たいコンクリートの匂いを際立たせる。
「降られるなんて思ってなかったよ。傘入ってもいい?」
「どうぞ」
 気さくな人だ。高校生と相合傘なんてして恥ずかしくないのだろうか。そんな感じで僕は冷静を装いながら、動揺していた。女性と密着するのには全然慣れていなかった。時折ぶつかる腕は分厚いダウンジャケットが覆っているはずなのに、女性の腕だと思うと色と柔らかさを持った特別なもののように思えて恥ずかしかったし、僕が簡単に女に翻弄されるような意思しか持っていないことが悔しかった。
 移動中はまったく喋らなかった。彼女もずっと前しか見ていなかった。そのどこか余裕のある、楽しんでいる雰囲気に僕はきっと呑まれていた。僕はその雰囲気を楽しめなかったし、意識は彼女に奪われていた。僕は状況さえ整えば、すぐに俗な人間になってしまうのだろうか。
「サイゼでいい?」
 と突然話しかけられたときには「え?」と、少し馴れ馴れしい返事をしてしまった。僕は恥ずかしかったけど、彼女はまったく気にしない様子で目の前にあったサイゼリヤに入っていった。僕もすぐに傘を畳んで、傘用のビニールに入れると彼女についていった。
 僕たちは窓際のテーブル席に向かい合って座った。荷物を椅子に落ち着けたところで彼女は早速、
「さて、何から話そうかな」
 と言ってメニュー表を開いた。何を食べようかな、と言いたかったんじゃないかと思うくらい自然な口調だった。僕は何もできないので、次の言葉を待った。
「とりあえず、あたしは美郷です。それとあたしカルボナーラ」
「真木大輔です。そして僕はドリア」
 そこで丁度店員が水を持ってきた。美郷さんは店員が去ってしまいそうになるのを引き止めて、メニューを簡単に伝えた。店員が去ると、美郷さんはまた僕の方を向いて話を続けた。
「真木くんはチャオ飼ってるの?」
「いや、飼ってないです」
「じゃあ、チャオ飼いたいの?」
 チャオを飼いたいんじゃない。あのダークチャオを飼いたいのだ。
「特に飼いたいわけじゃないです」
「それなのにチャオガーデンにいたんだ。しかもマニアックなことにダークガーデン」
 お姉さんが子供をからかうような笑顔だった。実際そうなのかもしれない。多分この人は僕が親しみやすいようにこういう態度を取っているんだろうけど、正直下手くそだと思った。これじゃあ尋問だ。でもその姿勢はわかったので、この人には近づいてもいいかなと思った。
「あの場所が好きなんですよ」
 と、はぐらかす。いきなり、あなたのチャオがすごく気に入って、なんて言うのは常識的にもどうかと思うし、自分の心の内をさらけ出すのには抵抗があった。でもダークガーデン自体を気に入っていることも事実なので、下手な嘘をつくよりは気が楽だ。
「へえ、変わってるね」
「そうですか?」
「うん」
 そこで一度会話が途切れた。美郷さんも視線をグラスに移した。そろそろ本題に入るな、と思って、僕は美郷さんのグラスと僕のグラスの間に視線を置いていた。
 思ったよりも沈黙は続いた。その間にカルボナーラとドリアも運ばれてきた。その時は美郷さんもグラスから視線を外して「どうもー」と言った。店員が去るとすぐに視線はグラスに注がれた。出会ったばかりの僕に、何をそんなに考えて話そうとしているのだろう。その中に、僕の知りたいことはどれだけ含まれているのだろう。
 美郷さんが目を上げた。
「ダークガーデン、あたしのチャオ以外はみんな売り物だったんだよね」
「はい」
「あの子、ホップって言うんだけど、なんでホップしか預けられていないんだと思う?」
「チャオを飼っている人はダークチャオに育てたがらないから?」
 チャオガーデンの受付の人に聞いた言葉だ。でも、それ以上の情報を僕は持っていない。
「そう」
「でも、なんで育てたがらないのかはわかりません」
 それを聞いた美郷さんは悲しそうに笑って、その後に「あ」と零した。
「もしかして、チャオのことはそんなに知らない?」
「はい」
「ふふん、ダークガーデンに二日も来るくらいだからもっと詳しいのかと思った。いや、知らなかったからダークガーデンにいたのかな」
 僕が話についていけていないのを見て、美郷さんはすぐに続けた。
「チャオはね、悪人に育てられないとダークチャオに進化しないんだよ」
 僕が覚えたのは、チャオを知った喜びでも信じられないことを聞いた驚きでもなく、不快感だった。誰が神で、人を悪人だと決めて、その人の人生を左右すると言うのだろう。そんな的外れな考え方がチャオを飼う人たちの頭上に掲げられているなんて馬鹿馬鹿しい話だ。きっとどこかの馬鹿がダークチャオに進化させた人を虐げるためにそんなことを言い出したのだろう。
「だから、ダークチャオを飼っていると悪人だと思われちゃうんだよ。その飼っている人が進化させたかどうかもわからないのに、印象でね。ダークガーデンで売られてるダークチャオは、元々捨てチャオだったんだって。捨てチャオを保護するのと、新しい飼い主を見つけるためにあのガーデンが作られた。でも、新しい飼い主はあんまり見つかってないみたいだね。元々捨てチャオだったチャオを買い取ってくれる優しい人なのに、飼ったら悪人だもんね。そりゃあ嫌だよ」
「でも美郷さんは買い取ったんじゃないんですか? もしそれを引け目に思っているんだったらどうかと思いますけど」
「違うよ。ホップは元々チャオガーデンにいたコドモチャオだった。それをあたしがダークチャオに進化させちゃったんだよ」
 一瞬言葉に詰まったが、僕は口を開いた。
「自分を悪人だと思っているんですか? 悪人だなんて他の人が言ってるだけです。事実が全てです」
「ダークチャオに進化した」
「それは事実ですが、認識が間違っています」
「ごめん、今のはただの意地悪で言っただけ」と美郷さんは笑う。
「そうなんだけどね。でも、他の人が言ってる、っていうことも事実なんだよ」
 僕は黙る。確かにそうだ。彼女は相談したいわけではないのに、僕は何を勝手に喋っているんだ。
「それに、あたしは悪人で合ってるよ。少なくとも世間的にはね」
「なんでですか」
「ホップがダークチャオに進化したのは、あたしがホップに暴力を振るったからだよ」
 今度こそ、僕は何も言えなくなった。
「あたし、外ではこんな感じで元気なんだけどさ、家の中では違うんだよね。親と上手く行ってなくて。親は信念のあるかっこいい女の子が欲しかったらしいんだけど、あたしは別に信念なんかないし、かっこいい女になんかなる気もなかったし。髪を染めた時もすごい怒られたしね。そんで親にバレないようにホップを飼い始めたんだけど、結局バレちゃって、その上親はホップにデレデレになっちゃってさ。親と一緒にホップにデレデレするのなんてあたしは絶対嫌だから、ホップに冷たく接してたし、近寄ってきたら突き飛ばしてた。ホップは人懐こいから、なんで突き飛ばされても寄ってくるんだよ。それで怖いのはさ、そんな生活を続けてたら本当にホップを嫌いになっちゃったことなんだよ。何度突き飛ばしても寄ってくるのが鬱陶しい、一々ホップの体が黒くなっていくのも鬱陶しい。思考が行動に支配されるなんて、人間って不思議だよね。そのままホップはダークチャオに進化しちゃって、それを理由に親の当たりも強くなるし、あたしもホップを突き飛ばしちゃうし。それでこのまま親の手でホップが可愛がられるのも、あたしの手で傷ついて行くのも良くないと思って、ダークガーデンに保護してもらってるんだ。外であたしは冷たく振舞う理由なんてないのに、ホップの前ではそうなっちゃうかもしれない。そういう制御の効かない力があたしは怖くて、まだホップにも会えてないんだ。だからもしもダークガーデンにこれからも来るようなら、責めてホップに優しくしてあげて欲しい。すごく自分勝手なことを言ってるのはわかってるけど、お願いしたいんだ」
「美郷さんは悪人じゃないですよ。少なくとも僕にとっては」
 僕は美郷さんのお願いには答えずに、そう言った。同情するつもりで言った。でも僕の本心は確実に違うことを思っていた。ホップとの触れ合いの中にあった唯一の引け目、他人のチャオを愛することが許されたのだ。こんなかわいそうな人を目の前に喜びしか覚えていないなんて、悪人は僕の方かもしれない。でもあえて僕はこう思いたい。
 美郷さんは悪人ですよ。少なくとも僕にとっては。
「ありがとう」
 こちらこそ、僕とホップが共有すべき悪役になってくれて、ありがとう。


「君は何を考えているんだ?」
 ミスターがダークガーデンの墓に腰掛けて、僕に問いただす。僕はミスターの隣に座って、両足の間の砂利を眺めている。そこにはホップも他のチャオもいない。ミスターと一緒にいるときは必ず僕たち以外の人や動物はいない。
 僕はホップと一緒にいたい。できることならより知りたい。そして僕は今日、美郷さんと一緒に夜ご飯を食べた。そこでは確かにホップのことを知ることができた。美郷さんという飼い主のことも知ることができた。僕が意外にも愛のためなら悪人になれることを知ることができた。でも、僕は状況に対して冷静になれていない。ミスターはそのことをわかっている。
「美郷さんを悪役として共有する、だなんて、それを望んでいるのは君だよね。ホップの望みであるかどうかなんて、考えてなかったよね」
「話を聞いたときは」
「今も、じゃない? ホップが美郷さんを憎んでいることを望んでいるでしょ」
 そうだ。ホップのかわいそうな境遇を知って、僕はホップの味方をしてあげたいと勝手に思っている。ただ一体一で触れ合うよりも、敵を共有して味方になった方が距離が縮まると、僕の感性は勘違いをしている。
「いや、勘違いでもないよ。そうすることで君が距離を近しく感じられるのならそれは真実だ」
「わかってるよ。でもそう信じ込むのは、多分僕の美学が許さないんだと思う。僕とホップの関係のあり方じゃない」
「じゃあどんなあり方がいい?」
「理解の上にある愛を持った関係」
「そうだろう? その信念に従うんだったら、今後感情に振り回されるのはやめなよ」
「うるさいよ」
 ミスターがいるのは僕の素直な気持ちを引き出すためだ。なんでそのミスターに素直な気持ちを引き出したことを咎められなきゃいけないのだ。ミスターはうるさい。
 でもきっとミスターがうるさくないと、僕は簡単に俗な人間になってしまうのだろう。きっと今回僕が思ったことは、僕と同じクラスにいる高渕加奈子をいじめる三人組の女生徒がしていることと同じことなんだろう。確かあの三人組は同じ中学の出身で、元々仲が良いらしい。そして高校に進学してから自分たちのグループに入ってこようとした高渕さんを必要以上に冷たくあしらっているのだ。きっとあの女たちは同じ敵を共有することで絆を感じているのだろう。あいつらを支配しているのは、それだけなのだ。なんてつまらない人間だろう。僕はそんな人間には絶対になってやらない。でも、素直な自分を知らないというのもまた盲目的で馬鹿馬鹿しい。自らの哲学に支配される人間も、哲学以上の人間にはなれないのだ。結局複雑な人間が一番面白い。その複雑な要素を自覚するために、僕とミスターが別々に存在するのだ。それが僕の真実。素直な気持ちだけが必ずしもその人の真実を表すとは限らない。
 だから僕はそれを理解した上で、ミスターの言う通り信念通りにホップを愛したい。その振る舞いから得るものは、きっと今の僕にとっては一番価値がある。
 隣を見るとミスターはもういなかった。池の向こう側には銀色のタマゴがただ置いてある。今、現実のダークガーデンでホップはこのタマゴを見て何を思っているのだろう。僕のいないダークガーデンで何を感じているのだろう。僕はまだ何もわからない。だから僕はホップになって美郷さんに飼われるところから始める。


 僕はチャオガーデンの岩場の上で寝転がっている。チャオガーデンには僕の他にもチャオがたくさんいて、みんな思い思いの場所で遊んだり眠ったりしている。中には人に飼われているチャオもいて、いつも時計の短い針が“8”を指したときにガーデンにやってきて“6”を指したときくらいにいなくなっていく。チャオガーデンに残るのは僕を含めて五匹くらいのチャオたち。僕たちは相変わらず思い思いのことをしている。
 いつも通り、その日も人に飼われているチャオがいなくなって少し静かになった頃、チャオガーデンに人がやってきた。僕は岩場の上からその人を見ていた。その人は僕が覚えている限りでは初めて見る人で、頭の色が明るかった。その人は僕たちを見回して、まっすぐ僕のところに向かってきた。
「君がいいなあ」
 とその人は笑って、僕の頭を撫でた。僕の頭に手を預けるような優しい撫で方だった。今まで様々な知らない人たちが僕の頭を撫でたけれど、この人が一番優しいなと僕は思った。そして僕はそのままその人に飼われることになった。その人は僕を抱っこして家まで連れて行ってくれた。腕の中は温かくて、柔らかかった。それほど長い時間抱っこされたのは初めてだったので、僕はとても幸せだった。
 その人は家の前まで来ると少し怖い顔になった。扉に僕の知らない何かを刺してゆっくりと回して、それと同じくらいゆっくりと扉を開けた。そのままこの人は音を立てないように、家の中に入って一番近くにあった扉を開けて中に入った。その人は扉についたつまみをカチャリと回して、僕をベッドの上に置いて、その人もベッドに座った。
「はあ、ごめんね。バレると面倒なんだよ」
 と僕に向かって囁く。
「あたしは美郷。君は今日からホップ。いいよね?」
 そう言って、美郷はまた僕の頭を撫でた。やっぱり美郷の手は優しかった。
 そうして僕はずっと美郷の部屋で過ごしていた。美郷が帰ってくる度に僕は飛びついて迎えたし、その度に美郷は僕を撫でてくれた。そして美郷は帰ってきてからはずっと部屋で僕と遊んでくれた。美郷の愛情を感じて、僕も美郷に愛を返していた。この時が、僕が生まれてから一番幸せな時期だった。
 あの日美郷は、コーヒーというものを部屋に持ってきていて、僕にはミルクというものを持ってきてくれていた。それを飲みながら美郷と僕は並んで座ってテレビを見ていた。何だったのかはわからないけど、美郷は途中からコーヒーも飲まずに夢中でテレビを見ていた。僕もそのなんだか綺麗な、動く画面と美郷を交互に見ていた。そんな時、突然美郷の部屋の扉が開いて、僕の知らない人が現れた。美郷はすごく驚いて、それを見た僕もすごく驚いた。
「鍵は」
 と美郷は小さく叫んでいた。いつもの美郷の口ぶりからすると、多分鍵って言うのは扉についているつまみのことだった。いつもは横向きになっているけど、今日は縦向きになっていた。美郷は部屋に入るといつも真っ先に鍵を回すけど、今日はコーヒーとミルクで両手が塞がっていたのでそれができなかったのだ。
「お前、チャオを飼っていたのか!」
 と部屋に入ってきた人は怒鳴った。この家に美郷以外の人がいることは物音や話し声でわかっていたから、人が入ってきたということに恐怖はなかった。でも、怒っている人というものを初めて見たので、僕はとてつもなく怖い思いをした。すぐに僕は美郷の背中の後ろに隠れようとした。でも美郷がすぐに立ち上がったので、僕は隠れる場所を失ってただ立ち尽くしていた。美郷の足の間から見える人が一歩を踏み出そうとしたとき、今度は美郷が、
「入るな!」
 と怒鳴ってその人の方へ近づいていった。僕から離れていく美郷の足。閉まる扉に、その向こうで怒鳴り合う二人。僕の知らない世界が扉の外にあった。その世界から帰ってくる美郷は、僕の知っている美郷でいてくれるのだろうか。それが怖かったけれど、扉から目を離すことはできなかった。扉についた鍵は、取っ手を回せば扉が開くことを示していた。僕は鍵を閉めてしまいたかった。そうしてベッドの中で眠って、いつもと同じ朝を迎えたかった。でも、鍵に手は届きそうになくて、僕は座っていることしかできなかった。
 扉が開いた。入ってきたのは、悲しそうな顔をした美郷だった。こんな美郷も、僕の知らない美郷であった。美郷が僕の知らない一面を見せる度に、僕の胸は苦しくなる。それはきっと、僕に見せていた顔が美郷の全てだと僕が思い込んでいたからだろう。でも、美郷が僕が思っているよりも、きっと複雑な人だった。
 美郷は僕を抱き締めて「ごめんね」と泣いた。僕は抱き締められる以上のことはできなかった。
 それから僕たちはまたいつもの生活に戻った。変わったことと言えば、美郷が以前よりも鍵の方を気にするようになった。鍵を閉めた時も確認をするけど、部屋で僕と遊んだりテレビを見たりしている時もちらちらと確認していた。僕はその瞬間を迎える度に意識が現実に帰ることになり、思い切って美郷と遊べないことを悲しく思った。
 そんな風に美郷はよく鍵を気にしていたのだけど、それは部屋の中にいる時だけだったのかもしれない。僕はたまに美郷と散歩に行くとき以外に部屋の外に出ることがなくて、その時も美郷が鍵を気にしていたかなんて覚えてないから、それが正しいのかどうかわからない。でも美郷はその日、部屋を出た後に扉の鍵を開けっ放しにしていた。美郷は朝慌ただしく着替えたり歯を磨いたりして、急いで部屋を出て行った。こんなことは少なくとも僕がこの家に来てからは初めてだったので、珍しいことだったのだと思う。つまみ以外の風景はいつもと何も変わらないのだけど、僕は全然落ち着けなかった。僕にはそのつまみしか見えなかった。美郷が怒鳴ったり、知らない人が怒鳴ったりする世界と繋がる扉が、今いつでも開く状態になっている。扉が開く瞬間の映像が頭の中に何回も流れた。僕は怖くて、ベッドの掛け布団の中に隠れていた。
 気づいたら僕は眠っていて、目が覚めても掛け布団の中なので今が昼なのか夜なのかもわからなかった。ゆっくりと顔だけを掛け布団から出すと、部屋の中も暗かったし、カーテンの外も暗かった。どうやら夜みたいだ。
 僕はそのまま美郷の帰りを待った。辺りが暗くなる頃には、いつも帰ってくる。そして、外から足音が近づいてきて、玄関が開かれる音がした。美郷が帰ってきた、と思って、僕はベッドの上に座り直して部屋の扉の方を見た。でも、扉は開かれなかった。代わりに、いつも扉の外から聞こえる知らない人の話し声が聞こえた。一人は美郷を怒鳴ったあの人だ。帰ってきたのは美郷じゃなかった。
 いつも美郷が「お風呂入ってくるね」と言った後に聞こえてくる水の弾ける音が聞こえた。あの怒鳴る人がお風呂に入っているのだろう。美郷がいなくて、あの怒鳴る人が家の中にいると思うと落ち着けなかった。美郷を早く出迎えたい反面、怒鳴る人の目に入ることが怖くて、僕はまた掛け布団から顔だけ出した中途半端な格好で美郷を待っていた。
 それからしばらくして、僕はまたうとうとしていた。なんとなく美郷がそろそろ帰ってくる気がしていた。そんな時、突然部屋の扉が開いた。僕は驚いて扉の方に目を向けて、そこにいる人影を確認した。あの怒鳴る人だった。僕が掛け布団から顔を出した状態で動けなかった。掛け布団の中に逃げたら、逆に見つかってしまいそうな気がしたからだ。でも結局、怒鳴る人と目が合った。
「いたいた」
 怒鳴る人が一歩を踏み出した。
 その時、丁度家に美郷が帰ってきた。家に入って美郷の部屋はすぐのところにあるので、美郷は家に入ってすぐに怒鳴る人が自分の部屋に入っているところを見たのだ。
「何やってんの」
 と美郷の震える声が聞こえた。
「お前のチャオを可愛がろうとしてただけだ。飼った以上はぞんざいに扱うのも、捨てるのも人道的じゃない。俺たちにはこのチャオを幸せにする義務がある」
「何が幸せだ!」
 美郷は叫んで、怒鳴る人を突き飛ばした。怒鳴る人は開いた扉に叩きつけられ、よろけたところを美郷に掴まれて部屋の外に引っ張り出された。そしてすぐに美郷は部屋に入って鍵を閉め、掛け布団を強く抱きしめながら声をあげて泣いた。扉の外でまた怒鳴る声が聞こえた。


 ホップのことを理解するのには、まずチャオのことを知らなければいけない。銀色のタマゴを孵すのにも、きっと知っておいた方が良いことがあるだろう。
 ホップと出会ってから初めての休日、そして冬休みの初日、僕は昼に図書館で『チャオ入門』という本を借り、それを持ってダークガーデンに来ていた。銀色のタマゴの前に本を広げて、ホップと並んで見る。本をタマゴの前に持ってくるときは、池に落とさないように気をつけた。濡らすだけでも気が引けるが、赤く濡れていたら次にこの本を読む人に要らない心配をさせるかもしれない。本とホップを同時に抱えて池を渡るのは不安だったので、僕は池を二往復した。ホップは池に入ってもなんとも思わないのだろうけど、それでも僕が抱っこして池を渡った。ホップは抱っこをすると、僕の胸にしがみつくようになっていた。 本の中にある情報は、必要のないものが多かった。祖先にあたる生物がいないだとか、体を構成している物質のほとんど水分だとか、転生についてはよくわかっていないだとか、そんなのばかりだった。あとはヒーローチャオ、ダークチャオ、ニュートラルチャオというものが存在していることや、進化をすることなど、今では知っていることが書いてあった。ただ“ヒーローチャオ、あるいはダークチャオへの進化”という項目の中に、目を見張る情報が載っていた。それは進化の条件に関する文章で、
『チャオは善人に育てられるとヒーローチャオに進化し、悪人に育てられるとダークチャオに進化する。また、善人がチャオにとって好ましくないこと、つまり暴力を振るったり睡眠を妨害したり嫌いなものを与えたりすると、チャオはダークチャオに進化する。逆もまた然りであり、悪人がそう言った行動をすると、チャオはヒーローチャオに進化する。人間の善悪の判断は、チャオの心理状態によってされると言う説が有力である』
 と書かれていた。つまり、ホップの心理状態から言えば美郷さんは善人にあたるのだ。美郷さんを敵として共有するという僕の愚かな野望は真に砕け散ったと言ってもいいだろう。そもそもそんなことをするつもりはなかったのだけど、有力説という形でも目の前にしたら衝撃だった。それを悲しいとは思いたくなくて、僕の視線はホップに縋った。ホップは何もわからないと言った風に頭の上にハテナマークを浮かべて僕の方を向いた。本物のホップの姿に僕は寧ろ安心してホップを撫でるとハテナマークはハートマークになった。
 そうか、と思った。人の善悪を決めて、その人の人生を左右するのはチャオだ。僕やチャオを飼っている人にとっての神ってきっと、チャオのことだ。そこまで考えて、いや、中身のないことを考えるのはやめよう、と僕は恥ずかしく思った。
 次にタマゴのことを読んだ。これは予想外であったが、チャオのタマゴは温める必要がないらしい。放置しておけば勝手に生まれるのだ。また『タマゴを優しく揺すったりしてやると、生まれたチャオが懐きやすくなる傾向がある。生まれたときのチャオの気分が、生まれて初めて見た者への第一印象を左右するからだと考えている』とも書いてあった。そして驚くべきことに『よほど強い衝撃を与えなければ叩き割っても問題なく生まれる。しかし、懐きにくくなるので飼い主とチャオが良好な関係を築いていくためには推奨しない』とも書いてあった。銀色のタマゴ云々ではなく、そもそも叩き割るという方法があることに驚いた。ホップは、と思ってホップの方を見たがすぐに、それはないな、と思い直した。試しにホップの頬の辺りに僕が手を当ててみると、ホップは顔や体を摺り寄せてハートマークを浮かべた。
 僕はこの銀色のタマゴの中を見たい。正直なところ今は、ホップと一緒に割ろうとしているのは“ついで”のようなものだ。昨日はホップと一緒に何かをしたいからタマゴを孵したいのだと思っていたけど一度冷静に考えてみたら、銀色のタマゴの中を見たい、という気持ちと、ホップと一緒に何かをしたい、という気持ちはまったく別のものであることに気がついた。銀色のタマゴの中を見たいという気持ちは、チャオガーデンに初めて来たときのような、一生のパートナーに出会うことになるかもしれないという気持ちに似ている。銀色のタマゴに何かを期待している自分を僕は自覚していた。
 でも、この銀色のタマゴを叩き割るのには抵抗がある。中には生き物が入っているのだから、うっかり殺してしまったら僕は人の道を進めなくなってしまいそうだ。放置していれば生まれる可能性もあるのだから、下手に手を出さない方が無難なのだろう。結局、僕はそのままタマゴには何もせず、ホップと過ごした。これだけ長い時間一緒にいられるのは初めてだったので、ガーデンの中を歩き回ったり他のチャオと触れ合ったり木の実をあげたり、色々なことをした。いつもと同じように、七時になったらダークガーデンを出ようと立ち上がる。長い時間一緒にいても満足はできない。寧ろ隣にいて当たり前のようだったホップと別れるのは寂しかった。いつもと同じ顔のホップをまたひとしきり撫でてから、僕はダークガーデンを出る。ホップがいなくなるとより寂しさは増した。そして休憩所に入ったところで、美郷さんに大きめの声で呼び止められる。美郷さんの存在に気づいていなかった僕は、かなり驚いた。
「ごめんごめん、そんなにびっくりするなんて思わなかったからさ」
「はい」
 一瞬怒りが込み上げてきて、その後すぐに違和感に変わった。僕は寂しさを感じていたつもりだったのだけど、いざ人が話しかけてきても全然満足できなかった。僕は一人になったことが寂しかったのではなく、ホップがそばにいなくなったことが寂しかったのだ。
「今日も来てたんだ。ホップはどうだった?」
「今日も元気でしたよ」
 そんなことを言うくらいだったら会ってあげればいいのに、と思ってしまう。でも、それは僕が親と上手くやれていて、ホップのことも好きだからそんなことを思うのだというような気もする。何せ僕は僕の人生しか歩んだことがないのだから、僕以外の人の感覚なんてわからない。それでも、美郷さんはホップにとっては善人なのだ。僕はわがままにホップのことばかりを思う。
「そっか。良かった」
 少しの沈黙があって、
「またサイゼ行かない?」
 と美郷さんは言った。美郷さんは何かを話したがっているのだろう。それで美郷さんが救われるのなら、僕は特別損をするわけでもないので一向に構わなかった。
「いいですよ」
「じゃあ行こっか。今日は雨も降ってないしね」


 昨日と同じサイゼリヤに行くと、そこそこ混んでいた。でも空席がないほどではなかったので、僕たちはすんなりと入店できた。今日は窓側ではなくて、店の内の方にある四人掛けのボックス席に向かい合って座った。
「あたしドリア」
「僕はハンバーグとライスで」
 すぐにチャイムで店員を呼ぶ。店員にメニューを告げたあと、今日は美郷さんが水を汲みに行った。客が多くて店員が忙しいということと、店員を呼ぶのが早過ぎて店員が水を持って来られなかったからだ。水を持ってきた美郷さんは、座ってすぐに喋り始めた。
「二日連続で話を聞いてもらっちゃうね。ごめんね」
「いいですよ」
「あたし、本当はガーデンにも行きたくないんだ」
 いいですよ、なんて簡単に言ったけど、僕は息が詰まった。なんとなく、まだ美郷さんとホップには繋がっているものがあると思っていたけど、美郷さんにとってはそれすらもないのだ。あまりにもホップが可哀想だった。でも、僕は美郷さんの感覚がわからないから美郷さんが何をできて何をできないのかもわからなくて、何も言えない。
「あそこに行くとなんとなく罪滅ぼしができた気になるんだ。何度も言うけど、すごく自分勝手だと思う。毎日来てるわけでもないし。でも、ガーデンに行く自分がいると思わないとあたしもやっていけないんだ」
「そう、なんですか」
 僕は相槌しか打てない。もちろん、美郷さんが救われることは僕も良いことだと思う。でもそれ以上に、僕はホップに救われて欲しいと思っている。二人とも救われるには、きっと美郷さんが変わるしかない。でも僕は美郷さんに何も言えない。手詰まりだ。
「あたしにそれ以上のことはできないよ。ホップからしたらあたしがガーデンまで来ていても来ていなくても会えないんだったら同じこと。だから責めて、真木くんにホップのことを可愛がって欲しいんだ。何度も言うけど、よろしくお願いします」
 昨日とは違って、ホップのことを考えたあとだからだろうか、喜びは感じなかった。ホップの幸せに関して僕は無知だ。勝手にホップの気持ちを決めつけて話を進めてしまうのには抵抗があった。それに、ホップの虚像が視野から外れたことで、美郷さんの境遇もわからないなりにも可哀想だと思った。もし仮に、僕が美郷さんを批判したらどうなるだろう。「君はあたしのことをわかっていないんだよ」と言われるのだろうか。それとも泣き出してしまうのだろうか。どちらにしても、良いビジョンではない。
「可愛がりますよ」
 前よりも明確な返事の仕方だと思う。もちろんそれは、美郷さんを救おうという気持ちがあったからだけど、そう思い切れているわけではなかった。ホップを可愛がるのは、自分とホップのためという面が大きいのだ。だって、それで十分じゃないか。でも、結果的に美郷さんも救われるのであれば、尚更良い。
「ありがとう」
 また、美郷さんのお礼で話は終わった。そしてすぐにメニューが運ばれてきた。僕たちは料理を黙々と食べた。美郷さんの方からたまに「学校どこ?」とか「彼女いるの?」とかそういう言葉があったくらいだ。僕は質問に答えたけど、そこから話が広がるような答えではなかった。こんなぎこちない会話になってしまうのは、きっと僕たちの間にある共通点がホップだけだからだ。それに加えて、僕がホップをすでに可愛がっていることを美郷さんは知らない。美郷さんからホップの話題が途切れてしまえば、あとは僕たちを繋ぐものなんてないのだ。探せばあるかもしれないが、美郷さんは上手く見つけられないようだし、僕も持っている話題なんて全然なかった。でも、これでいいんじゃないかとも思う。美郷さんが話したいことを話して、僕が聞く。これだけでも僕たちがわざわざこういう形をとって話した意義はある。その形が本当に収まりのいいものなのかどうかは分からないが、美郷さんが料理を食べ終わるのを見計らってからコップの水を一気に飲んで完結させた。そのときに、美郷さんの手と僕の手が似ていることに、初めて気づいた。
 家に帰ってすぐに美郷さんからメールがあった。帰り際に、美郷さんにメールアドレスを教えてほしいと言われ、教えたのだった。明日もガーデンに来るのか、という内容だった。僕は、美郷さんは行くんですか、と返信した。しばらくして、明日は雨降るみたいだしね、どうしようか、と返信があった。僕は、それならやめておきます、と返信した。すぐに、わかった、と返信があった。もちろん、僕は明日もダークガーデンに行く。

このページについて
掲載日
2014年12月2日
ページ番号
2 / 3
この作品について
タイトル
ヘルメタル・クラッシュ
作者
ダーク
初回掲載
2014年12月2日