一話 雨なんていつだって降っているものさ

「何をしているの?」
 ミスターがいつものように僕に尋ねる。僕もいつものように、何もしていないよ、と返す。
「そっか」
 先生が黒板に書いていく文字をノートに書き写さなくてはいけないのだけど、そういう気分にはなれない。机に突っ伏して、机の木の匂いを感じながらミスターの声を聞いているだけだ。そういう意味では何かをしていると言えるのかもしれないけど、ミスターが言う「何かをする」にはいつも「自発的に」と言うニュアンスが含まれているため、僕は何もしていないと答えるのだ。
 僕は森を想像した。どのような森なのか、僕はその森のことについてはまったく知らない。僕はその森の中にいて、机と同じ匂いのする木々に囲まれている。机と同じ匂いのする木なんて変な気もするけど、この机はこの木からできていて昔から同じ匂いを放っていると設定してしまう。辺りには机と同じ匂いが充満していて、それは木から発せられている匂いだ。そして深い森だ。見上げると薄い青の空があって、森とその中にいる僕に嘘くさい光を浴びせ続けている。僕はその嘘くさい光を浴びた森の中を歩く。道という道もないが、邪魔な雑草があるわけでもなく、歩きにくさは感じない。ただ木々の間をくぐり抜けるだけだ。
「森を歩くなんて、中学の頃に富士の樹海に遠足しに行ったとき以来じゃない?」
 ミスターは僕の考えていることがわかる。本当は机に突っ伏して、夏目漱石の「こころ」を読む先生の声を聞こえない振りしていることも、机の匂いを感じながら僕が森の中で歩く想像をしていることもわかっている。森の中の僕の隣にミスターが現れる。ミスターは長いとも短いとも言えない真っ直ぐで清潔な髪をしていて、整った顔立ちをしている。でも印象は薄くて、無個性とも言える顔だ。
「君は何を求めているんだ。こんなに苦労のない森なんてなかなかないよ。君の前にある木を倒してみたらどう?」
 ミスターが前方にある木に手をかざすとその木は倒れた。ミスターは魔法を使うようなこともできる。木は僕の行く手を塞ぐように横たわっている。しかし、大きな木ではない。僕はその木を跨いで先に進む。ミスターも僕に続いて木を跨ぎ、ついてくる。
「この程度の木なら君でもそうするよね。じゃあ、雨を降らせよう」
 雨が降ってきた。木々の間を歩くと雨が僕を強く打った。冷たく勢いのある、リアルな雨だ。雑草の生えていない土はすぐに水溜りを作り、ぬかるみ、泥を放った。僕は急に歩くのが億劫になってしまい、木の根元に座った。
「木の下でも、枝葉の隙間をくぐり抜けた水が君を打ち続けるよ」
 雨の欠片が僕を打つ。でも一度座ってしまうともう立ち上がれなかった。足に溜まった乳酸が急に僕の意識を支配する。歩き出して不快な思いをするよりも、このまま雨が止むのを待って、足を回復させてからでもいいだろうと思った。
「雨は止まないよ。あの嘘くさい青空を見ただろ? 雨なんていつだって降っているものさ。それに足だって回復しない。今君が感じているのは君の足そのものの重さに過ぎない」
 それでも僕は構わなかった。小さい頃のような雨の中をはしゃぎまわれる元気はもう忘れてしまった。このまま歳をとって寿命を迎えるような気もするし、ここで雨に打たれながら少しずつ死んでいくのも悪くはない。
「でも君はどこか不満なんだ。森の新しい一面に興味はないけど、森の新しい一面を知った自分になってみたい。脇道の先に興味はないけど、いくつもの脇道に迷った自分になってみたい。そう思って雨が降る木々の間を眺め続けるんだ」
 そうなんだろうな、と僕は思った。もうこの先を考えるのはやめよう。もし先にいる自分を本当に知りたいのなら、こんな想像をするよりも現実の中を動いた方がいい。でも、僕はきっと動かないだろうなと思った。
 僕は諦めて顔を上げ、黒板の文字をノートに写し始めた。僕の息が机に水たまりのような水滴を作っていた。


 帰りのホームルームはチャイムが鳴るよりも少し早く終わり、生徒たちは散り散りになっていった。一様にみんなマフラーを首に巻き始める。ほとんどの生徒が部活動に向かい、他の生徒はそのまま帰るか、教室に残って友人たちと駄弁るかのどちらかである。僕はそのまま帰る生徒の一人だった。どの部活動にも所属していないし、放課後の時間を割いてまで話す友人もいない。でも、嫌われているわけでも、話し相手がいないわけでもない。ただ学校において目立たない立場にいるだけなのだ。
 部活動に向かう人たちの楽しそうな表情を横目に僕は教室を出る。彼らは鬱陶しくも羨ましくもある。彼らが幸せに満ち溢れているからではない。彼らは部活動をすることによって大きな喜びを得るが、またそれと同時に様々な困難も乗り越えなくてはならないだろう。だが彼らはその喜びにも困難にも無邪気に立ち向かっていける。そうして彼らは変化を手に入れるのだ。その無邪気さが、無関心から来る怠慢を患っている僕を心苦しくさせるのであった。そのことで僕は一つ思い知ったことがある。楽しみ、苦しみながら得る変化と同じように、楽しむ、苦しむということもまた難しく、試練であるのだ。
 教室に残って駄弁る人はあまり気にならなかった。彼らには彼らの世界があって、僕が干渉する余地はないし、お互いに興味がなさ過ぎる。僕は友人と話すときに相槌を打っているだけということが多い。好きな音楽や好きなゲームはあるけど、趣味と呼べるくらいのものは持っていないので、友人と趣味について話すこともない。だから部活にもわざわざ入部して気まずい空気の中を過ごしたくないし、そもそもどの部活にも魅力を感じなかった。勘違いされそうだが、僕は無関心を気取っているわけではない。僕はどこに向かって歩けば満足できるのだろう。
 何かをしようと思ったこともあった。でもその何かを考えるのも面倒だった。具体的に行動するなんてもってのほかだった。そこまでして何かを得ることに価値があるのかと考えるといつも、そうでもないかもしれない、という結論に至る。確かに人生には幅があった方がベターだと感じることも事実だが、現状にこれといった不満はないし、無理をする必要はない。木の下で雨の欠片を受けながら眠るのもいい。ただ僕を取り巻く空気の中には「何もしない奴はクズだ」と言うような脅迫的な色が含まれていて、その色は僕が世界に対して持っている小さな期待を煽り、世界を見る目を惑わすのだ。
 しかし結局僕は部活動に入ることもなく、放課後の教室に残ることもなく、家に向かうのだった。教室の中はストーブがあるから言うほど寒くもないが、廊下に出てからはずっと寒い。僕は厚い手袋をしているのだが、下駄箱で靴を履き替えるときに一度外さなくてはいけなくて、その一瞬だけでも手が外の冷気にさらされるのが嫌だ。一度手が冷えると、手袋をしても冷えっ放しになる。校舎の外に出て、太陽の光を浴びても何も変わらない。夏はあんなにじりじりと暑い気を放っているのに、冬になった途端に冷たい空気の味方のように振舞うのはなんでだろう。
 学校から歩いて三分のところにある駅に行って、電車で隣の駅に行って、またそこから五分歩く。それだけで家に着く。家に着いてリュックを降ろすと、一日分の重荷を降ろしたような気になる。
 すると母親が僕を呼び、
「悪いんだけど、CD返してきてくれる?」と言った。
 レンタルCDの返却期限が今日であるらしく、母は夕飯の準備があるから僕に返してきて欲しいそうだ。まだ僕は玄関にいて、靴も履き替えていないのでそのまま行くのが効率がいいのだろうけど、家に着いたら部屋に入って一度温まりたい。でも母にすぐにCDを手渡されてしまったので、釈然としないまま僕はまた家を出たのだった。また重荷を背負い直したようであまり良い気分ではなかった。それに僕が住む町にあるCDショップではなく、電車で五駅離れた少し大きな市のCDショップで借りたものだった。
 電車に乗ってから僕は後悔した。CDを返すだけなのに、駅まで歩いて十数分電車でボーっとして駅を降りたらまた歩いて、CDを返したらまた行きと同じようなことをする。労力と結果が全然釣り合っていないような気がして、収まりが悪い気分になった。でも電車に乗ってしまったからには、まだCDを返した方が結果が残るということもあって、引き返さずにちゃんとCDを返すことができた。CDショップはデパートの中にあるのだが、さすがにデパートの中は暖かかった。マフラーと手袋を外したはいいけれど、それを入れるものがなくて結局手で持って歩いた。なんだか損ばかりしているような気がして収まりが悪かったので他のところにも寄ってみることにした。
 僕は地下一階に注目した。そこにはチャオのための施設、チャオガーデンがある。チャオというペットはなかなかに人気がある。その生態はわからないことだらけであり、まず動物に触れるだけでその動物の影響を何かしら受ける。例えばオウムであれば、オウムのようなトサカが生え始め、人間の言葉を真似て喋ると言った行動を起こす。トカゲであれば、切っても切っても生えてくる尻尾がつき、地面を素早く這う。こうして特徴をまとめると化物のようだが、見た目は愛くるしい。体長四十センチほどで二頭身、二足歩行(赤ちゃんの頃はハイハイをする)で水滴のような輪郭にポヨポヨとした触感。色は様々で、育て方によって姿形を大きく変える。虫で言うところの幼虫が成虫になるように、進化の概念も持っている。コドモのときに何をしたかによって、進化後の姿が変わるらしい。不思議な生き物だ。
 チャオガーデンは売り物のチャオたちが遊んでいる場所でもあり、飼われているチャオが預けられている場所でもある。飼われているチャオには特別なバッジがつけられ、売り物のチャオや他の飼われているチャオたちと区別される。僕の目当ては、売り物のチャオだ。もしかしたら、一生のパートナーと出会うことになる可能性だってあるのだ。僕は宝くじを買うような気分でエレベーターへと向かった。
 エレベーターには誰もいなかった。B1のボタンだけが光り、一人地の下へと向かっていく。そう考えると不思議だ。地の下へ行ってしまったら、一体どこに着地すると言うのか。そこは空の中のようにふわふわと浮かんでいられる場所なのか。まるで天の国だ。下るエレベーターの浮遊感によって、空を飛ぶための準備をしているみたいだ。それとも、その逆の地獄だろうか。地の下というと地獄の方がイメージに合う気がする。僕は地獄へ向かっているのか。一階で黒いコートにジーンズパンツを履いた中年の女性が乗ってきた。底の方が深い青で、口の方が白いシンプルなトートバッグを持っている。異様なくらいに何も入っていないように見えた。買い物をしたと言う様子でもなかった。その様子だけ見れば不思議だが、考えればすぐに答えがわかることでもあった。一階から下るエレベーターに乗ったということは、この人もまたチャオガーデンに行こうとしているのだ。きっとトートバッグは預けていたチャオを入れるためのものだ。
 地下一階へ着いて、エレベーターの開くボタンを押して中年の女性に先に出るよう目で促す。中年の女性は、ありがとうございます、と微笑みを見せてエレベーターを出た。彼女にとってこれは自然や常識、あるいはしっくり来る流れなのかもしれない。僕もまたそんな人の笑顔を見るとどこか安心するけど、自分は相手のために笑顔を作ることができない。当たり前のようで不思議な、人間の違いを考えさせられる。僕はチャオを愛するのだろうか。
 そんなことを思いながら僕はこの部屋に目を奪われていた。エレベーターを出ると右手側に細長く伸びた休憩所のようになっていて、そこには窓をのぞく一人の若い女性と、左手側にある受付にまた若い女性がいた。中年の女性は丁度チャオガーデンに入って行くところだった。正面にあるチャオガーデンと繋がる扉が閉まる。一瞬見えたチャオガーデンには芝生が見えたがチャオは見えなかった。扉の右側にチャオガーデンを覗ける窓が三つ。そこを覗けばチャオが見られる。僕は緊張している。この部屋は不思議な空間だ。何よりも白い。まるで現実と夢の間にある空白のようだった。僕は現実から覚めるかもしれない。
「いらっしゃいませ」
 受付の女性が喋ったのを機に僕は、
「中を見たいだけなんですけど、チャオガーデンに入っていいですか」と聞いた。
「いいですよ」と当然返される。入っていいということはわかっているのだけど、その手順がないとしっくり来ないように感じられたのだ。ああ、するとこれは笑顔を見せるという行為に似ているのかもしれない。笑顔は見せないけど、店員には確認する。僕は一貫性がない人間なのだろう。僕には何が起こってもおかしくない。
「ありがとうございます」
 扉の向こうにはチャオガーデンがあった。噴水、溜池、人工芝、博物館にありそうな岩場、カフェに置いてあるものをそのまま小さくしたようなパラソルとテーブルと椅子、小さなテレビ、空をイメージして書かれた壁紙、その上の方に僅かに見える空調、空の中に大きな雨雲、様々な色や形をした、でも大体同じ感じのチャオ。実際、足を踏み入れてみるとそこは現実だった。外と同じように空気があって、水があって、僕の体があった。夢は夢でなければ価値がないのだろう。
 唯一、チャオの頭の上に浮かぶ球体と、先ほどエレベーターに乗っていた女性がチャオを撫でたときにその球体がハートマークになったところだけが現実離れしていた。
 もう一度周りを見渡すと、嘘くさい青空の壁に描かれた雨雲のところに扉があることに気がついた。
「雨なんていつだって降っているものさ」
 とミスターが言う。
「空と言われて青空しか想像できない人は馬鹿だ。でもそんな間抜けさに君はどこか憧れている。雨なんか見ずに森の先へ行って、何かを得たい。君は雨雲を見なかったことにする? それとも雨雲の中を見て夢見ることを諦める?」
 そんなことを言われなくても、僕は空に雨雲がかかることを知っている。今更、見るも見ないも変わらない。今日はここに来ただけでお腹いっぱいだ。もう夜と言える時間になってきた。帰るという選択が一番自然に感じられた。そして僕はチャオガーデンから出て行った。


 その日、僕はベッドの中でまたチャオガーデンにいた。岩場の上に座っていた。岩場の傍にはミスターが立っていて、三つの窓の内の一つに若い女の顔が見えている。でもどんな顔をしているのかは全くわからない。僕は彼女の後ろ姿しか見ていないのだ。茶色のセミロングの髪と、ベージュのセーターに赤っぽいスカートだったと思う。あと紺のトレンチコートを手に持っていた。僕が持っている彼女に関する情報はそれだけだ。きっと彼女もチャオを飼おうとしていたか、あるいは既に飼っていてチャオガーデンに預けていたのだろう。どのチャオが彼女のチャオなのだろう。そのチャオと僕が仲良くなれば、僕も彼女と話せるのだろうか。
 そこまで考えて、僕は自分が女性と関わりたがっていることに気づいてショックを受けた。僕はそんな俗な発想の持ち主だったのか。夜はどうも思考が制御できない。だからこそ、こんな発想が出てきたことに嫌悪を覚えた。勢いに任せて窓にシャッターを閉じる。そして、僕は自分が俗な発想を嫌っていることに気づいた。人と違うスタイルでありたいのだ。それでありながら、周りの人間を羨ましがるのだから――こういってしまうのは嫌だけど――悩んでいるのだ。でもそれがわかったところで、僕はどうしようもない。僕には足りないものが多すぎる。
「足りないものなんて誰だって持ってるよ。ないものねだりをしたってしょうがないだろう?」
 とミスターが言う。
「まったく、そうなんだけどね。でも、自覚してねだっているわけでもないんだ。僕にはどうしようもない」
「気の毒だね。まあ楽しめればいいんじゃないか?」
「後から思い返して、楽しかったかもと思うことはあるかもしれないけど、実際その中にいるとそうは思えないもんだよ」
「そっか」
 周りのチャオ達を見渡す。どんなチャオ達がいたのか明確には思い出せないので、思い出せる形と色を適当に組み合わせて補完すると、それっぽくなった。不思議なことに、ガーデン自体はかなり細かいところまで思い出せるのだ。空調の位置、噴水の形、溜池の輪郭、空の色、そして雨雲の扉。あの扉の向こうには何があるのだろう。そこには間違いなく空気があって、水があって、僕の体があるのだろう。でもそんな現実以外のものに、頭の上のハートマークに、僕はまだ期待しているみたいだ。
「そういえば、ミスターが昼に言ったことは少し間違ってるよ」
「なんて言ったっけ」
「空と言われて青空しか想像できない人は馬鹿だ。でもそんな間抜けさに君はどこか憧れている、って言った」
「ああ、言ったね。で、どこが間違ってる?」
「そんな間抜けさに君はどこか憧れている、ってところ。僕は馬鹿なんか嫌だ。晴れた森の中を進む人間よりも、雨の森の中を進む人間の方が憧れる」
 言ってから、僕は自分からとてつもなく離れた人間像について話しているんじゃないかと思って可笑しかった。
「あの扉の先に行かなくてよかったね」
「なんで?」
「こんな思いはできなかったから」
 そう言われると、恥ずかしかった。少し黙った後に、ああ、としか言えなかった。ああ、とも言わなければよかったと後悔する。
「まあ、まだ行かない方がいいよ。こんな想像の中で行ってしまったら、それこそつまらない」
「明日行くよ、もちろん実際にね」
 そこで初めてミスターが驚いた顔を見せた。
「君が積極的なことを言うなんて珍しい。でも多分いいことだよ、それって」
 僕は黙る。まだそれがいいこととは思い切れない。それに、僕が珍しい振る舞いを見せたことが恥ずかしかった。それがいいことだと言われたことも。
「何でミスターはいるの?」
 と言って僕は誤魔化した。でも、それはそれで恥ずかしかった。


 体育の時間はあまり好きじゃなかった。運動は得意じゃない。今の時期はバスケットボールをしているのだが、極力パスをされないように敵の傍にいて、うっかりパスが回ってきても、すぐに近くの味方にパスをする。そうしてとりあえず目立たなければやり過ごせる。教室で座っていようが体育館で動いていようが、この授業を受けている時の生々しさに夢の入る余地なんかなかった。もし僕がバスケットボールを得意に思っていたら違ったのかもしれないけど、現に僕はバスケットボールが苦手だ。そもそも、僕の手は白く細く、毛もほとんど生えていない。まるで女の手のようだ。親からは綺麗だと言われるけど、僕からして見れば「だから何だ」というものであった。こんな非力な手には、バスケットボールなんて出来そうになかった。やっぱり僕が人と違うスタイルを確立するには決定的に足りていないものがある。
 今日学校に向かうときには、帰りにまたデパートに寄ろう、と思っていたのだけど、授業を全て受け終わる頃にはすっかりその気は失せていた。なんと言っても今日は雨が降っていた。わざわざ雨の中を歩いてまで行って何になるんだろう。そんな気のまま、僕は家に帰ってきていた。自分の部屋に入ってベッドに腰掛けると、もう僕のすることはなかった。
「昨日の夜はあんなに張り切っていたのにね」とミスター。
「そんなに張り切っていたかな。どっちにしたって昨日の夜はどうかしてた」
「夜の方が素直なのかもしれないのに。後から思い返すとどうかしてたと思うけど、実際その中にいるとそうは思えない、のかな?」
「やめてくれよ」
「君に足りないものを教えてあげるよ。それは可能性っていう言葉だ。覚えておくといいよ」
 なんで僕はミスターに怒られているのだろう、なんて白々しいことを一瞬思って、僕は反省した。少なくとも、今僕にはしたいと思ったこと、するべきことが一つある。チャオガーデンの扉の向こうに行く。こんな具体的で簡単なことが僕の行動の指針になり得たことは今までにない。僕の能力でも十分にこなせる。このまま雨に打たれて少しずつ死んでいくのも悪くはない、なんて嘘だ。雨なんていつだって降っているもので、僕はその中に生きているんだ。なによりこのままでは僕は周りの人間の中の“何もしない奴”に分類されて人生を終える。この機に僕は僕を説得しなければいけないのだ。
 リュックを背負って、僕はまた制服のままデパートへと向かった。濡れた靴は気持ち悪く、十二月の雨は冷たかった。でもそういうものだろう。あまり濡れないようにと買った紺色の大きめの傘を持って、雨の中を歩いた。
 デパートに着くと、マフラーと手袋をリュックの中に入れた。傘は持ったままだが、これで昨日に比べて余裕を保てたような気がした。傘が大きくても、結局風に煽られた雨に当たって濡れた。ズボンの裾と靴は特に濡れた。外にいるときよりも、濡れた自分を強く感じる。でもそんなに気にはならないので、そのまままっすぐエレベーターに向かって下矢印のボタンを押す。今日はエレベーターに誰も乗っていなかった。自分だけの世界に向かうようで悪くない気分だった。
 エレベーターで地下に行き不思議な休憩所に入ると、受付の人しかいなかった。受付の人は昨日と同じ人だった。すぐに扉の向こうについて尋ねようと思っていたけど、いざその場に立つと緊張で受付に行くことはできなかった。エレベーターを出てすぐ左側に傘立てがあったので、傘を立てたら僕は逃げるように一番奥側にある窓の前に立ち、チャオガーデンの中を覗いた。昨日と同じ光景がある。ただ今日は人がいない。昨日のエレベーターで会った女性もそうかもしれないけど、会社や学校に行くときにチャオを預けて、帰宅時に引き取るという習慣を持っている人はいそうなものだ。この夕方頃に誰もいないというのは珍しいことなんじゃないだろうか。でも、よくチャオを見ると、バッジをつけているチャオが何匹かいる。これから何人かの人が立て続けに出入りするだろう。できれば、他の人がいない状態で行動したい。早くしなければ。
 あの雨雲の扉の向こうはなんなのだろう。スタッフルームという可能性もある。チャオの関連施設が続いている可能性もある。あの扉をくぐるときではなく、受付の女性と話した瞬間にそれはわかる。意中の女性に告白するというのもこんな気分なのかもしれない。僕は意を決して、受付の女性のところまで歩いた。受付の女性は僕が近づくのを待って、僕が目の前に来ると、
「いらっしゃいませ。どういったご要件でしょうか」
 と言って僕を迎えた。
「あの雨雲の扉の先って何があるんですか?」
 僕は言った。もう言ってしまったからには、僕は待つ以外のことは何もできない。意中の女性に告白する人から、注射を打たれる患者になった気分だ。待つと言うほどの時間もなく返事があった。
「あちらはダークガーデンとなっています。チャオの中でもダークチャオのために作られた施設です」
 ダークガーデン。僕の知らない単語が出てきたことに少し混乱したが、すぐにそれは僕にとってはプラスになる答えであったと気づいた。そうだ、知らない単語が出てきて欲しかったんだ。
「でも、売られているダークチャオは少ないですし、預けられているダークチャオもあまりいません。というのも、チャオを飼っている方はあまりダークチャオに育てたがらないのですよ。どちらかというと、ヒーローチャオの方が多いですね。あちらの方にヒーローガーデンもございます。ヒーローチャオのために作られた施設です」
 彼女が手を向けた先には、青空の壁があってよく見ると両開きの大きな扉があった。僕はなんで気がつかなかったのだろう。でも僕は青空の方には興味を持てなかった。どうせ綺麗で明るい施設なんだろう。そんな馬鹿の施設には興味がない。僕は雨雲の方を見た。
「入ってもいいですか?」
 と、僕はまた言っていた。少し恥ずかしくなる。受付の女性も昨日と立て続けに同じことを聞いて来た僕に気づいて、
「どうぞ」
 と、子供に優しさを教えるお姉さんの笑顔を見せた。また同じようにお礼を言ってガーデンに入るのはもっと恥ずかしいので、少し頭を下げてからガーデンに入った。そしてまっすぐダークガーデンの扉の前に向かった。
 僕は、足に濡れた生ぬるい靴下の感触を感じ、重い衣服が肌に触れているのを感じ、視界に映るものが等身大であることを感じ、自分の呼吸を感じている。扉のドアノブに手をかけたら、冷たかった。僕は確かに現実の中にいる。扉を開けた途端にすべてが満たされる夢の空間がある、なんてあるはずがない。ダークガーデンもこのガーデンと地続きのもので、中もまた同じように現実なのだろう。何も期待なんてできない。あのハートマークも、所詮はハートマークでしかない。でもそれでいいのだ。僕は現実の中を進むのだ。そこに何があろうが、晴れた空しか見ない人よりも、何もしない人よりも、僕は優れているのだ。
 僕は扉を開いた。


 ダークガーデンは不思議な奥行を持っていた。壁は暗い空に雲を敷き詰めたようなデザインだったが、おそらく壁であることを感じさせないために影を強く描いて本来影ができる場所を曖昧にしていた。多分、広さ自体はチャオガーデンとさほど変わらないのだろう。そして床には砂利が敷かれていた。砂利をどけると土が顔を見せた。一体どうなっているのだろう。
 枯れた木のオブジェや、墓や柵が置かれていた。枯れた木のオブジェの枝には、鳥の骨が入った鳥籠が吊るされていた。作り物なんだろうが、よくできている。
 チャオは受付の女性が言っていたように少なかった。人も誰もいなかった。五匹の黒いチャオだけがいた。その内の三匹は寝ていて、一匹は赤い木の実を食べていて、もう一匹は僕を見てきょとんとしていた。チャオガーデンにいたチャオよりも目つきが鋭く、チャオが持つ何も考えてなさそうなイメージとは違う印象を受けた。頭の上の球体が、ダークチャオの場合はトゲトゲになっていた。撫でるとその目つきのまま、頭の上にハートマークを浮かべた。そんな真面目な顔のままハートマークを浮かべられるとどきりとする。肌質はしっとりとしてそうに見えるが、ただ柔らかかった。ああなるほど、チャオの可愛らしさを理解した気がする。
 赤い池があった。チャオガーデンの溜池よりも広く、深かった。床から赤いライトで照らしているのかと思ったけど、ライトはなかったし、水をすくって見ても本当に赤かった。池は両側の壁に接していて、その部分だけはこの部屋の限界を見せていた。その池の向こう側にはまた砂利が敷いてある地面があって、そこには大きな墓と銀色のタマゴが置いてあった。あのタマゴはチャオのタマゴだ。タマゴをガーデンに置きっぱなしにして良いのだろうか。いや、良いのだから置いてあるのだろう。それとも、あれもオブジェなのだろうか。よくできた部屋にしては、異様に浮いた存在感を放っている。異物と言っても過言ではない。
 ダークガーデン、ここはいい。僕が漠然と思っていた現実よりも夢よりも、遥かに個性的で魅力がある。僕は近くにある墓の上に座ってみた。ようやく僕は一息をつく。両手で顔を覆って、落ち着こうと試みる。未だ緊張の余韻で震えてる体を自覚する。手の先まで血が巡っているのがわかる。じんじんとする。僕はこれからもこの場所をいいと思えるのだろうか。それとも、初体験の高揚がこの場所を無闇に彩っているのだろうか。今は夜ではないけど、そんなことは今の僕にはわからない。
 心地よい暗闇と沈黙の中、どれくらいの時間が経っただろうか。僕はいつも通りとはいかないまでも、だいぶ落ち着きを取り戻していた。手を膝の上に置いて立ち上がろうと目を開けると、目の前にダークチャオがいて僕を見上げていた。おぉ、と小さく声を出してしまう。いつからいたのかわからないが、さっき僕を見ていたダークチャオだ。胸に紫の三日月マークがあって、後ろに伸びた角の先も紫色のチャオ。胸にバッジがついている。僕と目が合うとまた頭の上にハートマークを浮かべ、僕の濡れたズボンの裾をぎゅっと掴んだ。どうやら懐かれたようだ。頭を撫でると、また頭の上にハートマークを浮かべた。こんなに純粋に喜んでくれるのなら、いくらでも撫でてやれそうだ。頬を指でつつくと、指先がチャオの肌に埋まった。チャオは僕の指を両手で掴み、ぐりぐりと頬を僕の手に押し当てた。こんなくだらない触れ合いが嬉しかった。
 でも、このチャオは誰かが飼っているチャオだ。こんなことをしていていいのだろうか。人が注いできた愛に土足で踏み込んでいるような気分だ。それでも僕は触れ合いをやめることができなかった。こんなに無邪気に愛を示されたことなんてなかった。その初めての愛を僕がどうして無下にしなければいけない。ここで僕が愛を示さなければ、ここに来た理由すらもなくなる。僕は真っ当なことをしているはずだ。
 気づくと腕時計の針は七時を指していた。母親には黙って家を出たので、心配しているだろう。これを機に帰らないと、僕はずっと帰るタイミングを見失ってしまいそうだったので、チャオに触れていた手を離した。チャオは頭の上にハテナマークを浮かべて首を傾げた。
「ありがとう。またね」
 このチャオが今日だけたまたまここに預けられた可能性は、多分そんなに高くないと思う。この施設は習慣的に利用する人が多いだろう。ここに通っていればまたこのチャオと会える可能性は高い。でも、二度と会えない可能性のことを思うと切なくて、またひとしきり頭を撫でてから、
「またね」
 ともう一度言って僕はダークガーデンを出た。ダークチャオはハートマークを浮かべていた。
 あのダークチャオは飼われているチャオだから、僕が飼うことはできない。他のチャオを見て、よさそうなチャオがいたら飼うことを考えてもいいかな、と思ってチャオガーデンのチャオを全部見たけど、あのダークチャオほどに可愛らしさを感じるチャオはいなかった。僕は諦めてガーデンを出て、休憩所に戻った。休憩所には昨日見た女性がまた窓を覗いていた。服装は緑のダッフルコートに暗い青のスカート、黒いタイツにロングブーツだった。綺麗な顔をしているけど、全然好みではなかった。一瞬こちらを見て、またすぐに窓の向こう側を見た。不安そうな表情をしていたのが印象的だったが、もしかしたら流行りの下がり眉であったからかもしれなかった。
 できるだけ早く帰りたいので、まっすぐエレベーターに向かおうと思ったが、ふと銀色のタマゴのことを思い出して受付の前で立ち止まった。受付の女性は僕を見て、
「どうかなさいましたか?」
 と笑顔で言った。言葉と表情が合っていなくて、これがこの人の仕事の顔なのかと思うとなんだか気持ち悪かった。僕がガーデンに入ったときのように、人間らしい顔をしてくれないとこっちまで人間として扱われていないような気になる。エレベーターの女性が笑顔でありがとうというように、僕がガーデンに入るときにいちいち確認するように、なぜか行われる手続きが起こると僕はどうも気になってしまう。だから、僕はあのダークチャオといたい。全部自然なあのやり取りの中に身を置きたい。いや、それだけじゃないけど、一つずつ挙げていくとキリがなさそうなので、ただそこにいたいのだと思うことにする。
「ダークガーデンにあるタマゴって売り物なんですか?」
「いいえ。あのタマゴはスタッフも知らない内に現れたんですよ。チャオが産んだのかと思いもしたんですが、チャオが銀色のタマゴを産むなんてことはありません。不審物としてスタッフの間で管理するような話もありましたけど、色以外は不審な点はありませんし、特に害もないことがわかったのでそのまま置いてあります。そう、しかもあのタマゴはまったく孵らないんですよ。叩いても割れない、待っても生まれない。もし何かタマゴを孵らせる方法が思いついたらお試し下さい。でも、タマゴの中のチャオを傷つけないように気をつけてくださいね。火であぶったりするのもダメですよ」
 この人はチャオが好きなんだろうなと思った。割とあっさり仕事の顔を脱ぎ捨てて、素顔を見せた。僕ももしかしたらあのダークチャオと接しているときはこんな顔をしているのかもしれない。僕は自分のそんな顔を、写真でも鏡でも見たことがない。写真や鏡は見えないものや真実を映し出すとか言うけど、そんなのは嘘だ。映るのはそこにあるものだけだ。僕は僕の目の前で素顔を見せたことがないのだ。
「でも、僕がいるときの君は素直だと思うよ」
 とミスターが言う。
「何でミスターはいるの、って僕に聞いたよね。それが答えだよ」
 ミスターは写真にも鏡にも映らない。でもミスターは僕にとって確実に存在しているのだ。真実って、そういうことだと思う。
 

 僕は次の日もチャオガーデンに行った。ふと見た傘立てに自分の傘が立っているのを見て、そうか、昨日置き忘れたのか、と気づいた。昨日の帰りには雨が止んでいた。だから外に出ても気づかずに帰っていってしまった。でも確か今日の夜はまた雨が降る予報だったので、丁度よかった。雨が降っていないと傘を持つという意識が起きないので、昨日の帰りも今日も傘のことを忘れていたのだ。折りたたみ傘を買わなきゃな、と思った。
 チャオガーデンに入るときには受付の女性に何も言えずに入れた。ようやく僕の習慣がスタートしたといった感じだ。ダークガーデンにあのダークチャオはいてくれた。僕を見ると、とてとてと早歩きで近づいてきて僕を見上げた。相変わらずの無表情で、頭の上に浮いているものはトゲトゲのままだ。近づいてきたでも僕は十分に嬉しいし可愛く思うのだけど、撫でるとそのトゲトゲがハートマークになるものだからもっと嬉しくなる。
 今日何をするか、もう決めてある。ダークチャオと一緒に銀色のタマゴを孵す。とりあえずは孵らなくてもいいが、ダークチャオと一緒に何かをしたい。僕はダークチャオを抱っこして、赤い池の前まで行って靴と靴下を脱いだ。そこで、ああ、足を拭くためのタオルを持って来ればよかった、と思ったが、どうせまた雨に濡れるかもしれないと思うと、抵抗なく赤い池に足を踏み入れられた。池は冷たすぎず、冬を感じさせなかった。チャオに快適な環境を維持しているのだろう。でもダークチャオを池に入れるのは抵抗があるので、抱っこしたまま銀色のタマゴのところに向かった。
 タマゴの目の前まで行くと、ダークガーデンを見渡したときに放っていた異様な存在感は薄れたが、タマゴそのものの異様さが際立った。まるでタマゴとしての存在を確立したかのように、まったく動く気配も、何かが生まれる気配もなかった。印象としては、かなり硬そうで、重そうだった。よくある、何かの呪いがかけられてまったく動かせない石、みたいなものを連想させた。でも、そんなものはあるはずがなく、きっと環境や気分が作用してそう見えているだけだろう。それでも、そこまで自覚していてもその印象は変わらなかった。
 タマゴの前にダークチャオを置き、その代わりにタマゴを持ち上げた。印象とは裏腹に、簡単に持ち上がった。ダークチャオが僕の持ったタマゴを見上げて、頭の上にハテナマークを浮かべている。ダークチャオにとっても、このタマゴはよくわからないものなのだろうか。試しにタマゴをダークチャオに手渡してみる。ダークチャオはタマゴを受け取るが、自分と同じくらいの大きさのものを持ち上げているので、重そうというより苦しそうだ。手も短いので、顔の前に掲げるようにして持っている。今ダークチャオの視界には銀色しかないだろう。そこからどうするのだろうと思って見ていると、ダークチャオはタマゴをぱっと落として、僕の足元に来た。一瞬、タマゴが落ちたことでひやりとしたが、まったく割れる様子はなかった。ダークチャオが僕のズボンの膝の辺りを握って、僕を見上げていた。抱きかかえてあげると、僕の顔を見たままハートマークを浮かべた。無表情が愛らしかった。この頭の上に浮かんでいるものはどうなっているのだろうと思って触ると、ダークチャオと同じように柔らかかった。チャオの体の一部みたいなものなのかもしれない。
 タマゴを孵すと言うと、僕には温めるという方法しか思いつかない。だから今日は、タマゴをずっと抱えながら過ごそうと思っている。実際にこのタマゴを目の前にしてみるとまったく孵る気がしないのだが、それでもやるしかないのでやってみる。それでダメなら、チャオのタマゴだからチャオの体温の方が孵すのに適当なような気もするので、ダークチャオにも温めてもらおうと思う。僕はとりあえずダークチャオをまた置いて、着ているダッフルコートの内側にタマゴを入れて墓の前に足を伸ばして座った。そして膝の上にダークチャオを乗せた。ダークチャオは正面を向いて座っていたが、そのうちに僕の方を振り返ってタマゴで膨らんでいるダッフルコートにしがみつくように座った。僕の顔を見ていないと安心できないのであろうか。どう育てたらこんな人懐こいチャオになるのだろう。
「今日はね」
 と僕は何も考えていないのに声を出していた。ダークチャオの顔を見ていたら、話しかけたくなってしまったのだ。ダークチャオにハテナマークが浮かぶ。今日はね。
「何もなかったなあ」

このページについて
掲載日
2014年12月2日
ページ番号
1 / 3
この作品について
タイトル
ヘルメタル・クラッシュ
作者
ダーク
初回掲載
2014年12月2日