三話 これが幸せ

 あの日から、美郷の部屋の扉にはよくノックの音が響くようになった。扉を美郷が開けると、その向こうにはいつもあの怒鳴る人がいた。怒鳴る人は、
「ホップはいるか?」
 と言って部屋を見渡す。最初のうちは嫌がっていた美郷だったけど、嫌がる素振りを見せるといつも怒鳴り合いになるので、そのうち美郷は諦めて僕を差し出すようになっていた。
 美郷の部屋から初めて連れ出されたとき、僕は気が気じゃなかった。怒鳴る人はいつも突然怒鳴り出すので、僕も突然怒鳴られてしまうんじゃないかとずっと怖かった。それと、僕が連れ出された先の部屋には怒鳴る人ともう一人の人がいた。その人はどちらかと言うと美郷のように優しそうな人だった。初めて見たときその人は食べ物を作っていた。いい匂いがした。
 怒鳴る人はふかふかの大きな椅子に座って、膝の上に僕を乗せた。嬉しそうな顔をしながら僕の頭を撫でた。頭だけじゃなくて、首のところや脇腹のところを撫でられもした。美郷に撫でられるときはくすぐったいような幸せでいっぱいになるのだけど、怒鳴る人の手はまるで別の世界から出てきたもののようで、ただ温かくて大きいだけのものに触れられている感じがした。僕はその間、なんとかずっと怒鳴る人の目を見続けた。目を逸らしたらその瞬間に怒鳴られるような気がしたから。
 しばらくすると、優しそうな人がテーブルの上に食べ物を置いて、怒鳴る人と優しそうな人はテーブルの前にある二つの椅子に並んで座って食べ物を食べ始めた。テーブルを挟んで二人の反対側にも椅子が二つあって、その内の一つには食べ物も置かれているけど、誰も座っていなかった。二人が食べ物を食べ始めたので僕はやっと怒鳴る人から視線を外すことが許されたのだけど、背を向けていると後ろから突然怒鳴られるような気がしたし、わざわざ顔を見続けているとまた僕のところまで来るような気がしたから、優しそうな人の足元をずっと見ていた。すると、
「ホップ、お前の足元をずっと見てるぞ。何か食い物落としたんじゃないか?」
 と怒鳴る人が言った。それを聞いた優しそうな人は自分の足元に顔を近づけて見たけど、もちろん何もない。そのときに僕の視界の中に優しそうな人の顔が入ってきたのだけど、この人とならうっかり目が合っても大丈夫な気がしたので、僕は同じところを見続けていた。でも結局優しそうな人は僕と目が合う前に顔を上げた。
「何もないよ。たまたまここ見てるだけじゃないの?」
「もしかして、何か欲しいんじゃないか?」
 そういうと怒鳴る人は皿に乗っていた茶色い食べ物を指でつまんで、僕の方に見せた。僕はその食べ物を見るけど、それが何なのかわからない。
「だめよ唐揚げなんて。チャオに油っぽいもの食べさせるのはあんまり良くないんじゃないの」
「大丈夫だって。お前も美味いもん食いたいもんな」と僕の方を見る。
「そうかもしれないけど。まあほどほどにね」と優しそうな人は言って、それっきりまた自分の食事に戻ってしまった。そして怒鳴る人は唐揚げと呼ばれるものを僕の顔の前に持ってきた。確かにそれはいい匂いがしておいしそうだった。でも、なんとなく食べるのには気が引けた。そうして食べようかどうか迷ってるうちに、早く何かをしなきゃいけない気持ちになって僕は唐揚げを口に入れてしまった。それを見た怒鳴る人は喜んで、僕の頭を撫でた。唐揚げはおいしかった。でも飲み込んでしまうと、僕は毒を体の中に入れてしまったような気分になった。もう、元には戻れない。
 それから毎日、僕は怒鳴る人に美郷の部屋から連れ出されていた。あるときは最初に連れ出された日みたいに食べ物を食べさせられたり、あるときは膝の上に乗せられてテレビを見せられたりした。そういうとき僕はいつも緊張をしていて、美郷の部屋に戻れたときにはすっかり疲れてしまっていた。美郷はそんな僕を見てなのか、僕と遊ばずに、疲れた僕が眠るのをただ見ていた。
 そんな日が続く中で、また僕が怒鳴る人に連れ出されて、食事をする二人の足元を見ているときに美郷がその部屋に入ってきた。美郷がいつものように僕を抱いて、美郷の部屋に入れてくれるんじゃないかと思った。でも美郷は僕を少し見ただけで、優しそうな人の正面に座った。美郷は「いただきます」とだけ小さく言って、そのあとは黙って食べ物を食べた。怒鳴る人と優しそうな人はテレビを見ながら何かを話していた。すると今日も怒鳴る人はテーブルの上にある何かの肉を僕の前に差し出した。美郷が僕の方を見ていたけど、僕は怒鳴られるのが怖いからいつもみたいに諦めてそれを食べる。すると怒鳴る人が、
「美郷もホップを大事にしろよ?」
 と言った。僕は美郷の方を見た。美郷も僕の方を見た。美郷はゆっくり立ち上がって、僕の前まで来てしゃがむ。そしてしばらく僕を見つめたあとに、その手で僕をひっぱたいた。その瞬間だけ、その場の時間が止まったように誰も動かなかった。僕も何が起こったのかわからなかったけど、右頬に残る痛みに気がついたとき、悲しさに僕は声をあげて泣いた。それと同時に、
「お前!」
 と怒鳴る人が美郷をひっぱたいた。美郷は涙を流しながら怒鳴る人を睨みつけていた。怒鳴る人はずっと美郷に何かを大声で言っていたけど、僕はそれどころじゃなかった。僕は美郷の足にしがみついて泣いた。今度は足で振り払われて壁に叩きつけられた。でも僕は美郷に泣きつくしかなくて、美郷に向かって走る。また足で振り払われる。怒鳴る人が美郷を叩こうとするけど、美郷は抵抗をする。僕がまた美郷の方に走り出したとき、美郷は怒鳴る人と僕から逃げて自分の部屋に入って鍵を閉めてしまった。怒鳴る人は美郷の部屋の扉の前で大声を出して、僕は美郷の部屋の扉にしがみついて泣いていた。優しそうな人が、さっきまで僕たちがいた部屋から悲しそうな目で僕たちを見ていた。
 それから僕は美郷の部屋に入れなくなった。優しそうな人と居間(食べ物を食べる部屋のことを優しそうな人はこう呼んだ)で過ごすことが多くなった。優しそうな人は洋服を機械に入れたり、外に干したり、部屋を掃除したりしていた。たまに「ちょっと買い物に行ってくるね」と言って、いなくなったりするけど、そんなにかからずに帰ってくる。あとは大体テレビを見ていたり、たまに僕を撫でたりした。朝と夜だけ怒鳴る人もいて、怒鳴る人がいると優しそうな人だけがいるときとは違った動きが家の中に起きるみたいだった。美郷がたまに来ると、僕はすぐに美郷に抱きつこうとした。また美郷に撫でられたり、抱っこされたりしたかった。美郷は僕を叩いたり、突き飛ばしたりした。それでも、僕が愛されたいのは美郷だけだった。優しそうな人の前で僕が叩かれても、優しそうな人は相変わらず悲しそうな目で見るだけだった。
 どうしてこんなことになったのだろう。そう思って、怒鳴る人と優しそうな人の顔が思い浮かんだ。二人のせいで、美郷があんな風になってしまったんだ。怒鳴る人が怒鳴らなければ、優しそうな人が何かをしてくれれば、こんなことにはならなかった。美郷は本当は僕を撫でてくれて、抱っこしてくれる優しい人なんだ。そう思うと僕は余計に美郷にしがみつきたくなって、美郷の部屋の扉にしがみつくことしかできないのだった。
 そんな日々が続いて、僕の体は美郷に叩かれる度に、怒鳴る人と優しそうな人に撫でられる度に黒くなっていき、そのまま僕は進化を迎えてダークチャオになったのだった。
 それからさらに美郷と怒鳴る人が喧嘩をするようになった。美郷の僕へのあたりも強くなった。何度か怪我もした。その度に、怒鳴る人が僕の手当をした。あまり嬉しくはなかった。僕に必要なのは手当じゃなくて美郷だった。でももう、限界かもしれなかった。
 そんなとき、美郷がある日僕をバッグに入れて、外に連れて行ってくれた。僕はバッグから顔だけ出して、顔を美郷にくっつけて温もりを感じていた。久しぶりの幸せだった。でも、そんな幸せのときはすぐに去った。景色は僕の見覚えのある場所のものになった。チャオガーデンだ。僕はここに戻されてしまうのだと悟った。もう美郷に僕は完全に必要じゃなくなってしまったのだと思うしかなかった。でも美郷はチャオガーデンで僕たちの世話をしていた人に、
「すみません、このチャオを預けたいんですが」
 と言った。預ける、という言葉に僕はいくらか安心した。このガーデンにいた頃に聞いたこの「預ける」という言葉を使われたチャオは、必ず飼い主が迎えに来ていたからだ。美郷はまた迎えに来てくれる。とりあえず今は、それだけで十分だった。
「しばらく預けることになっちゃうと思うんですけど、いいですか? あと、この子はダークチャオだからダークガーデンでお願いします」
 それから僕はダークガーデンにいる。ここには飼われているチャオもいないし、人がチャオを見に来ることもないから、ここに来る人は世話をしている人だけだ。チャオガーデンにいた頃は全然気にしていなかったけど、何もないというのはすごく退屈だった。することがないから、僕はガーデンに置いてあるテレビを見て過ごした。美郷と一緒に人間のテレビを見ていた頃のことを、ずっと思っていた。
 ある日、ダークガーデンに世話をしている人以外の人がやってきた。僕はたまたまダークガーデンの入口の近くにいて、その人と目が合った。その人は黒い服を着ていて、瞳も真っ黒だった。楽しいのか、悲しいのか、よくわからない顔をしていた。その黒い人は僕の方に近づいてきて、僕を撫でた。手が美郷に似ていて、この人も優しい人だ、と僕は思った。黒い人はダークガーデンのお墓に座って、ずっと顔を抱えていた。どうしたのだろうと思って、僕がしばらく黒い人の前で待っていると、黒い人は顔をあげて、おぉ、と声を出した。僕と目が合って、少し嬉しそうな顔をした。僕も少し嬉しかった。その人が手を出してきたので、僕はその手に全身で触れた。こんなに人の手に愛を感じたのは久しぶりだった。その美郷みたいな手に、僕はずっと甘えていた。その人は「またね」と言って、ダークガーデンから出て行った。また会えると思うと嬉しかった。
 黒い人は次の日も来た。今日は撫でるだけじゃなくて、抱っこもしてくれた。池を越えて、タマゴのところに着いた。このタマゴはいつまで経っても孵らない。今まで何度かタマゴが孵るところを見たけど、こんなに孵らないタマゴはなかった。でも、チャオは僕に何もしてくれないので、タマゴが孵らなくても良かった。黒い人はタマゴを持ってじっとしていたけど、そのうち僕にタマゴを渡した。でも、僕はどうすればいいのかわからないので、ただタマゴを持っているだけだった。タマゴを持ち続けるのは苦しいので、僕はタマゴを離して黒い人に抱っこをせがんだ。黒い人はすぐに抱っこをしてくれた。そのあとは、黒い人が服の中にタマゴを入れてじっとしていたので、僕もその膨らんだ服に抱きついて黒い人の顔をずっと見ていた。優しそうな顔ではないけど、僕のことを愛してくれているのはわかった。僕も黒い人のことを愛している。僕はこの黒い人を喜ばせたかったし、もっと撫でられたかった。
 次の日は、時計の短い針が“1”と“2”の間にあるときに黒い人が来た。黒い人はいつもと違う格好をしていたけど、それでも大体黒っぽかった。黒い人は本を持ってきていた。チャオガーデンやダークガーデンにも本はあるけど、黒い人が持ってきた本は僕の全然知らない本だった。そもそもガーデンに置いてある本には絵がいっぱいあるのだけど、黒い人の本は文字というものがたくさん書かれていた。文字というものはガーデンで僕たちの世話をしていた人が教えてくれたけど、結局よくわからなかった。文字はガーデンの色々なところや美郷の部屋の中にもあった。やっぱり、よくわからなかった。
 僕と黒い人はまたタマゴの前に座った。今日は一緒にその本を読んだ。読んだと言っても、僕はところどころに書かれている絵を見ていただけだった。でも黒い人と一緒に本を読んでいると思うと、それだけで幸せだった。黒い人は時々僕の方を見た。たまに触ってもくれた。本は途中で閉じてしまったけど、その後長い時間一緒にいた。ガーデンの中を歩き回ったり、他のチャオを触ったりした。木の実を食べさせてもらったりもした。幸せだった。でもそんなことをしていると、僕は美郷の部屋にいた頃のことを思い出した。こんな触れ合いが当たり前で、僕にとっては美郷の部屋が家だった。僕はきっと帰れる家に帰るまでの間、ここで美郷を待っているだけなんだ。そこでたまたま出会った黒い人に、僕が帰るまでの間可愛がってもらっているだけなんだ。もちろん黒い人のことも好きだけど、僕は美郷が一番好きだった。
 黒い人は「またね」と言ってガーデンを出て行く。黒い人はまたここに来てくれると思う。でも僕はいつも、ガーデンに現れる人影が美郷であることを期待しながら、このガーデンの壁に描かれた暗い雲の先を思うのだった。


 どうして美郷さんは出会って間もない僕に、色々なことをさらけ出せるのだろう。家族との仲が険悪なことやチャオをダークチャオに進化させたことを他人に話すのは、きっと抵抗があることなんじゃないかと思う。もしも僕が美郷さんの立場であったのならどうだろう。僕だったら多分、他人には話さないと思う。それを話すことは、まるで自分はハンデを背負っているので優しくしてね、と言ってるようで情けないから。それに、例えば話した相手に僕が本当に愛されていたとして、僕はそれを愛なのか同情なのか見分けが付けられなくなると思うから。同時に、そうした他人への信頼をなくすことは、他人に向けられた自分の行動が正しい意味合いを持たなくなるということなんじゃないだろうか。行動の中にまったく他人という要素がまったくないのであれば問題ないが、少なくとも僕の場合は行動の中に他人という要素が含まれている。他人に向けることを意図していない行動でも、僕は他人という要素を考慮してしまい行動を制限されていたくらいだった。他人にハンデをさらけ出すというのは、そういった状況に自らをより追い込むことなのだ。
 しかし、それは僕の場合だったら、の話だ。美郷さんは違う。そもそもその結論に至ったのであれば、僕にそんな告白はしなかっただろう。一般的な観点で言えば、他人だからリスクを気にせずに話せる、だとか、ダークチャオを見られてしまったから混乱して、あるいはやけくそで全部話した、だとか、そういったものが理由になるのだろう。どちらも有り得るが、他人だと思われている気もしないし、混乱しているようにも見えなくて、どちらもしっくりこなかった。
 それとも、全てを話してもこの人なら自分を見誤ったりしないと言えるほどの信頼を僕が得ていたのだろうか。いや、信頼を得るような出来事は何もなかった。それに、そういった信頼の観点から考えるなら、ホップの方が高いレベルのところにいる。ホップは見誤るどころか、美郷さんが何を話しても美郷さんを愛し続けるだろう。現にホップは突き飛ばされても美郷さんに寄って行ったのだ。しかし、それはチャオに人間ほどの知能がない故である。それ故に、チャオに話したところで馬に念仏を唱えるような気持ちになってしまうのかもしれない。だから、人間である僕なのか。いや、飛躍が過ぎる。
 ミスターは現れない。その理由は僕もわかっている。言葉にするのには恥ずかしい一つの仮説があるからだ。でもそれが間違っていたときに僕は居た堪れない気持ちになるだろうから、それを仮説として挙げることもしたくない。
 ミスターが出てこないのは、僕にとっては間違ったことだ。そして僕にとって間違ったことを咎めるのは本来ミスターの役目なのだ。そんなパラドックスも今や思考の隅にしか存在を示さなかった。でも僕がその仮説に没頭しなかったのは、きっとミスターのお陰だ。僕は何も考えないようにして、眠ることができた。


 タマゴを叩き割っても問題ない、という情報が僕の感情にまで浸透したらしく、僕はまた朝からダークガーデンに行こうとしていた。僕は食パンにバターを塗ってレンジに入れているところだった。音をあまり立てないように注意を払っていたが、パンの袋を開ける音やレンジの音はどうしても抑えきれず、結局母親を起こしてしまうことになった。母親は、休日だというのに朝の七時から起きて居間にいる僕を見て驚いた。元々休日は起きる時間が遅く、あまり外に出ることもなかったので無理もなかった。
「どうしたの?」
「ちょっと出かけてくる」
「あら、珍しい。気をつけて行ってらっしゃい」
「うん」
 そう言うとまた母親は寝室に戻っていった。父親もまだ寝ているだろう。やっぱり僕の家は平和だ。でも、たまに美郷さんの家のような環境が羨ましくなることもあった。僕は自分から何かを進んでするということがなかった。したいこともなかったし、何かをするにしても面倒だった。でも、漠然と他の人にないものを持っていたらな、とは思っていた。そういう意味で、強制力を持った何かが僕を動かしていたら、と思わざるを得なかったのだ。でもそれもよくよく考えれば嫌な面の方が多いし、結局のところ今のままでいいと思ってきた。
 今はどうだろう。こうやって休日の朝早くに居間で朝食を取っているように、僕は確実に以前とは違う環境に身を置いている。何よりも、僕にはホップという意識を占める大きな存在ができた。今のままでいい、だなんて消極的な表現をしてはホップに悪い気がする。今のままがいい、と明確に言ってしまいたい。でも、そう言い切るには美郷さんがホップを愛さなくてはいけない。そして、僕はホップに愛され続けたい。これが今僕の前にある重要な課題だ。これがきっと、足を進めた者の前に現れる困難なのだろう。
 ホップが僕の家にいたら良かったのに、と僕は思う。その世界でも僕はホップを愛しただろうし、ホップも僕を愛してくれたはずだ。親もホップの世話をしてくれて、何一つホップは苦しまずに済む。でも現実はそうじゃないし、ホップはおそらく苦しんでいる。もう余計なことは考えず、早くホップのところに行こうと、急いで着替えて家を出た。
 僕がダークガーデンに入ると、いつものようにホップが迎えてくれた。美郷さんじゃなくてごめん、と心の中だけで謝る。ホップを撫でるとハートマークを浮かべて、また僕の手を両手で抱えて顔を寄せてくる。そうすると僕は、これでいいんじゃないか、と思ってしまう。僕はそれを振り払って、靴と靴下を脱いでホップを抱きかかえて赤い池を越える。
 そして早速、僕は銀色のタマゴを拳で叩いてみた。硬いけど、中まで鉄の塊という感じではない。ハンマーがあれば割れるんじゃないか、と思うが、リュックの中に入れてでもハンマーを持ち歩くのは少し抵抗がある。そもそも、ハンマーなんて家にあっただろうか。いや、確かこのデパートには工務店が入っていた。そこで買ってこよう。
 僕はホップに「ちょっと待ってて」と言って撫でてから、ダークガーデンを出た。ホップはハテナマークを浮かべていた。僕はすぐに工務店に行き、ハンマーと小さなマイナスドライバーを買ってダークガーデンに戻った。ホップはタマゴの前に立っており、僕が入ってくるのを見るとタマゴを持ち上げて僕の方に向けた。差し出してくれているのだろう。僕は急いで赤い池を渡ってタマゴを受け取り、ホップを撫でた。ホップは寂しかったのか、僕の足にしがみついて離れなかった。
「寂しかった? よしよし」
「ちゃおお」
 僕の前でホップが初めて声を出した。丸みのある、高くて綺麗な声だった。犬が寂しいときに鼻を鳴らすようなトーンに似ていたが、鳴いているというよりは喋っているような声だった。黒い体と鋭い目をしていても、やっぱりチャオはチャオの声を持っている。僕は驚きと喜びでいっぱいになったのだった。
 声を出してくれたのは、たまたま僕の前で初めて寂しいと思ったからなのか、僕に心を開いてくれているのか、わからなかった。そして僕はこの声を受け入れてしまってもいいものなのだろうか。この声に甘えて、ホップとの距離をより縮めたいと思うことで、ホップと美郷さんを引き離してしまうのではないだろうか。僕はホップとの距離を縮めたいと思っていたはずなのに、実際にそういった状況になると別の現実が見えてくるのだった。理解のある愛って、なんなのだろう。もしかしたら、美郷さんをホップに会うように促して、僕はホップの前から消えるべきなのかもしれない。でも、声を聞かせてくれた事実を考えると、僕がいなくなるのはホップにとって酷なことかもしれないし、何よりも僕はホップと一緒にいたかった。
 ホップと別れる覚悟のことを考えて、僕はそれを打ち消したくなってタマゴにドライバーを突き立ててハンマーで叩いた。タマゴにはヒビ一つ入らなかった。
 ドライバーを突き刺しそうとしてみたり、直接ハンマーで叩いてみたり、そんなことをずっと続けていると携帯が震えた。メール受信の振動パターンだった。ポケットから少しだけ携帯を出して見ると、美郷さんと表示されているのが見えた。どきりとした。もちろんそんなはずはないのだが、僕が美郷さんに嘘をついてダークガーデンに来ていることがバレたような、そして、ホップに僕と美郷さんが関わりを持っていることがバレたような気がした。僕が携帯を取り出すのを見て、ホップはハテナマークを浮かべた。僕がホップをお腹の辺りに抱き寄せるとハテナはハートになり、ホップは僕に甘え始めた。そんなことをする必要はないのだけど、僕はその隙にメールを確認した。僕はそれを見て、改めてどきりとした。
『クリスマス、予定空いてる?』
 目の前に、ハートマークが浮かんでいた。


 クリスマス当日、僕と美郷さんはオムライス専門店に来ていた。駅に集合したのが十九時くらいだったので、店に入ったのは十九時半くらいだったと思う。正直、ここでの出来事はよく覚えていない。美郷さんが白くて綺麗なセーターを着た上に銀のネックレスをしていて、オムライスがおいしくて、あまり弾まない会話をしていた。特製ソースのかかったオムライスを僕は食べたのだけど、何かの味に似ているが、それが何の味だったのか思い出せなくて、
「これ何かに味に似てる。なんだろう」
 と言って、会話のない時間を誤魔化した。実際に思い出せなかったのだけど、それを口に出すのは自分でも珍しいことだと思った。美郷さんにも一口食べさせたけど、美郷さんも「なんだろう」と言って首を傾げた。それからしばらく黙々とオムライスを二人で食べていて、僕は、
「そうだ、卵かけご飯だ」
 と言った。それから先は何も覚えていない。
 その帰り道、美郷さんとコンビニに寄った。僕は何も買わなかった。美郷さんは缶チューハイを二本買っていた。レジで美郷さんは運転免許証を見せていた。そこで初めて美郷さんが二十三歳であることを知った。僕の六つ上だった。僕は漠然と二十歳くらいだと思っていたのだけど、運転免許証の写真の美郷さんはちゃんと二十三歳の顔をしているように見えた。
 コンビニを出たあとは公園のベンチに座って、二人で缶チューハイを飲んだ。それぞれ桃と葡萄のチューハイだった。僕が葡萄で、美郷さんが桃を選んだ。こんなにお腹もいっぱいで、缶チューハイ一本くらいじゃ酔わないだろうと思っていたのだけど、意外と頭がくらくらした。僕は缶を一つ空けるくらいに酒を飲んだことがなかったので知らなかったが、僕はお酒に弱い方なのだろう。美郷さんは、僕に肩を寄せていた。この人も女なのだと思うと、なんだか馬鹿馬鹿しいと思いつつも、緊張している自分を自覚した。ここでは、チューハイの味についてしか話さなかったけど、それもまた覚えていない。
 その後、僕たちは駅に向かった。駅に向かう途中、美郷さんが小さな声で「手を繋ごう」を言った。あぁ、やっぱりこの人は僕のことが好きなのか、と思うしかなかった。もし違ったら、とも考えたけど、酒のせいもあってかその先を考えることを諦めていた。手を繋ぐと美郷さんは「こうがいい」と言って、お互いの手を所謂恋人繋ぎの形にし直した。僕が損をせずに美郷さんが救われるのなら、という名目のもとで、僕は美郷さんと手を恋人繋ぎにして駅に向かった。僕たちの他にも、同じように恋人繋ぎをしたカップルを何組も見かけた。僕もその中の一人だと考えると手を振り払いたくなったが、我慢した。
 駅に着くと美郷さんは改札へは向かわずに、駅前の休憩所の中に入った。僕もそれについて行く。休憩所の中に僕たち以外の人はいなかった。立方体に近い形をした休憩所だった。四隅の木の柱とベンチの木以外は白かった。壁も床も、少し汚れた白だった。入って正面の壁にはシンプルな円形の時計があって、右手側の壁には電車の時刻表、左手側の壁には外国の町並みの中を一人泣きながら歩く子供が描かれた絵が飾ってあった。その絵の下のベンチに美郷さんは座ったので、僕はその隣に座った。
「ありがとう」
 と美郷さんは言った。なんと答えていいのかわからないので、僕は黙って床の汚れを見ていた。何の特徴もない汚れで見る価値なんてものはなかったけど、そこしか視線の逃げ場がなかったから僕はそこを見ていた。
「わかってると思うけど」
 と美郷さんは切り出した。
「あたしは真木くんのこと好きだよ」
「はい」
 あたしは、が浮いて聞こえた。わざわざ言ったということは、僕にその気がないこともわかっているのだろう。
「でも、付き合って欲しいとは言わない。ただ一緒にいられればいいんだ。だから、いつもみたいにチャオガーデンの休憩所で会って、少し話ができればいい。これからもあたしと会ってくれる?」
 僕の頭の中は真っ白だった。ただ、答えなくてはいけない、とだけ漠然と思っていた。この文字列は何の意味も持っていなかった。視界に映る床の汚れだけが、僕の認識の全てだった。
 僕は美郷さんの方を見た。美郷さんは僕の目をじっと見ていた。目を離したら僕は思ってもいないことを口に出してしまいそうだったから、僕も美郷さんの目をじっと見た。そこでようやく僕の頭は動き始め、意味のない文字列を振り払うことができた。
 これからも美郷さんに会うか、という問いは難しい問いだった。僕が会っているのは美郷さんではなく、ホップなのだから。それを言ってしまったら美郷さんは傷つくだろうし、ホップと会っていると言うのも気が引ける。ただ、結果的にホップに会うということは美郷さんにも会うということだから、会うと言っても良さそうだった。
 でもこれがうっかり、チャオガーデン以外の場所でも会おう、ということになっていったら、僕はそのとき断れるのだろうか。現に今日はチャオガーデンに行っていないのに、こうやって一緒に夜ご飯を食べて、一緒に酒を飲んで、この休憩所で話している。クリスマスだから、という理由があるにしても、この理由がバレンタインデーだから、ホワイトデーだから、ゴールデンウィークだから、夏祭りだから、にならない保証なんてない。いずれは理由がなくても「会おう」のメールだけで会うような関係になるかもしれない。
 いや、それが何だと言うのだろう。僕は損なんてしていないし、それで美郷さんは救われるのだ。ホップとも会い続けることができるし、あわよくば美郷さんとホップと繋ぎ合わせることもいずれできるかもしれない。僕が少し我慢をするだけで、誰もが救われるかもしれないのだ。そう、これでいい。
「君が少し我慢をする? ふざけたことを考えるね。雨なんていつだって降っているものさ」
 ミスターの声が唐突に聞こえた。
「雨を見ようとしない美郷さんにとっての偽物の太陽に君はなろうとしているんだ。君があれほど嫌ってきた馬鹿の言いなりだ」
 確かに美郷さんは雨を見ようとしないのかもしれない。でも、それは嫌というくらい雨を見て、雨に打たれてきたからだ。僕が今まで罵ってきた馬鹿の中に美郷さんを含めるのは盲目的だ。
「そういうことを言っているんじゃない。君が偽物の太陽になろうとしているということ自体が、雨を見ようとしない馬鹿を肯定すると言っているんだ。そもそも、君は偽物の太陽になることすらできない。彼女の偽物の太陽になってやれるくらいの器があるのなら、君はもっと早くにあの森の木の根元から立ち上がることができていたはずだ」
 でも、あの頃の僕とは違う。僕は一歩踏み出し、ホップと出会い、美郷さんと出会った。その現実の中で得た変化をもって、この現実を打破するのだ。それが真っ当な判断というものではないか。
「仮に、君が彼女に光を与えることができたとして、君程度の光で彼女がホップを愛するようになると思うか? 君はもう気づいているだ。美郷さんはこのままじゃきっと変わらないし本当は面倒臭いけど、可哀想な人が自分に好意を持って接してくれるから相手をしてあげているだけだ、ってことに。君は結局、目の前の現実に妥協をしているだけで、打破なんてしようとしていないんだ。だから、自分にとって良さそうな部分が少しでもあればそれを言い訳に今のままでいいんじゃないかという結論を導き出してしまうんだ」
 例えこれが妥協だったとしても、結果として救える可能性があるのならそれを選ぶことは間違いじゃない。可能性という言葉を僕に持ち出したのはミスターの方だ。道の先にある可能性にかけて、全員が幸せになれるのならそれが一番いい。
「現実への立ち向かい方を間違えるな。可能性というのは現実の中だけにあるんだ。君が今見ているのが現実なのかどうか、考えればすぐにわかるだろう。いいか、大輔。“ホップを救えるのは美郷さんしかいない”。ホップが美郷さんのことを愛しているのは君の問題か? 美郷さんがホップのことを嫌っているのは君の問題か? 違うだろう、それはあの二人の問題なんだ。全員が幸せになれる? 論外だ。身の丈に合わないことをしたところで、いずれ君は本当の自分を隠せなくなって余計に彼女を傷つけるだけだ。ホップがいる現状に満足してホップを幸せにできないままだ。君が見るべきなのは道じゃない、君の足だ」
 僕はもう何も言えなかった。ミスターの説得は正しい。間違っているのは僕の方だ。人の周りには常に道があって、どこを歩いても道の上にいるように僕には見える。道の上を歩くのは楽しく、辛いことかもしれない。でも、それを道の上だと思って見ると途端にそれらは魅力を失って、僕はどの道にも進まずにいた。でもミスターは僕の中にある漠然とした可能性を信じて、歩き始めるのをひたすら待った。そしてその漠然とした可能性は様々な運を巻き込んで僕の足を動かし、どの道にも乗らずにダークガーデンに辿りつかせた。そして僕はホップに出会った。ところが可哀想な美郷さんが近くにあった道の上で泣いているものだから、僕はその道の前で立ち止まってしまったのだ。ミスターは立ち止まった僕を見て、ふざけるなと怒った。当然のことだろう。僕が今まで動かずにいた理由はどこへ行った? 僕の足はとっくにホップに向かって動き始めている。僕の前に道はない。そして僕はホップの幸せだけを掴まえるのだ。
「僕はホップのことが大好きなんですよ、美郷さん。ホップが美郷さんのことを大好きなようにね」
 僕がそう言うと、美郷さんは「うん」と頷いた。きっと、彼女はわかっていない。僕が言ったこと、僕が次に言おうとしていること。
 これは僕の責任なのだ。美郷さんのわがままではなくて、僕のわがままのせいなのだ。でも、こうなるのもしょうがなかったことなのだ。僕はそういう人間だったのだから。これが、僕の足の進む方向なのだから。
「だから、これ以上僕たちが会うのはやめましょう」
 美郷さんは目を少し大きくして、すぐに目と口を細めて、下を向いた。そして、
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
 と言った。言い終わる頃には涙を流し、発音もできていなかった。その後美郷さんはぼろぼろと泣いた。下を向いて、両手で顔を覆った。
 僕は立ち上がって、休憩所を出た。出るときに、もう一度だけ休憩所の中を見た。街の中で泣く子供の先で、美郷さんが泣いていた。
 美郷さんは、道の上にいたのだ。


 黒い人はあの硬そうなものでタマゴを叩いた日から、まったく来なくなった。それで僕は寂しい思いをしていたのだけど、それから何日かした頃に美郷が来た。僕は嬉しくてたまらなくて、ダークガーデンに美郷が入ってきたときにすぐに走って行った。美郷は僕を突き飛ばさずに、初めて会ったときみたいに僕を撫でてくれた。
「ごめんね、ホップ」
 美郷は泣いていた。美郷が泣いている理由はわからないけど、僕はとにかく美郷の胸に抱きついて、泣き止んで欲しかった。
 しばらくすると美郷は泣き止んでくれた。僕は嬉しくて、美郷の手に頬をすり寄せた。美郷も僕の頬を撫でてくれた。
「真木くん、ホップのこと大好きだったんだって」
 真木くんというのが黒い人のことだとわかった。知ってる、黒い人は僕のことを大好きだ。
「ホップ、あたしのこと大好きだったんだって」
 また美郷は泣き出した。そう、僕は美郷のことが大好きだ。だから、僕はずっと美郷と一緒にいたい。僕はまた美郷の胸に飛び込んだ。
「一緒に帰ろう、ホップ」
 僕は幸せだった。


 年が明けて冬休みが終わる頃、僕はデパートに来ていた。デパートは鏡餅やらイルミネーションやら福袋を買いに来た客やらでごちゃごちゃしていた。こういったものの楽しみ方は、未だにまったくわからなかった。人混みを避けて、エレベーターの前に立った。エレベーターの前にも人がたくさんいた。でも、地下へと向かうエレベーターに乗ったのは僕一人だった。子供がチャオを飼いたいと言って、買いに来る親子連れがいても良さそうだったけど、僕は一人で地下に向かっていた。
 休憩所にも誰もいなかった。受付の人だけは変わらず、いつもの女性だった。彼女は「いらっしゃいませ」と言った。僕は何も言わず、ガーデンの扉を開けて、まっすぐダークガーデンに向かった。
 ダークガーデンの中に、ホップの姿はなかった。覚悟はしていた。寧ろ、そうであることを望んでいた。ホップはきっと、美郷さんに引き取られた。
「これが幸せ?」
 ミスターが僕に問いかけた。僕はダークガーデンの中にホップの姿を隈なく探した。墓の後ろも、鳥籠の中も、池の中も探した。もちろん、どこにもいなかった。他のダークチャオたちが、僕を不思議そうに見ていた。
 そして、僕は探している途中に、ようやく一つの大きな変化に気づいた。銀色のタマゴが割れていたのだ。かつてはあれほどまでに存在感を放っていたのに、今や気づかないほどに背景に溶け込んでいた。割れた銀色のタマゴのそばには、銀色のコドモチャオがいた。僕は池を越えて、コドモチャオのところまで行った。コドモチャオは僕を見てきょとんとしていた。撫でると、ハートマークを浮かべた。可愛らしかった。
「ごめんね、飼うつもりはないんだよ」
 そして僕はコドモチャオを思い切り蹴飛ばした。コドモチャオは池を越えて、砂利の上に転がった。すぐに体を起こして、すすり泣きを始めた。僕はまた、コドモチャオのところまで行って、その頭を撫でた。
「僕、またここに通うよ」
 そう言ったところで、涙が溢れ出た。コドモチャオと一緒に、声をあげて泣き続けた。
「大丈夫だよ」
 ミスターが言う。
「雨なんていつだって降っているものさ」

このページについて
掲載日
2014年12月2日
ページ番号
3 / 3
この作品について
タイトル
ヘルメタル・クラッシュ
作者
ダーク
初回掲載
2014年12月2日