6<winner and loser>

 風が後ろへ通り過ぎ去って行く。
 僕の行く手を阻む障害物は何もない。街の喧騒が遥か後ろに聞こえる。
 空は僕の領域だ。
 金色の翼が大きく広がる。前へ、ひたすら前へ飛ぶ。飛んで、駆ける。道行く人が、チャオが、僕を見て、視線は遠く後ろ、その彼方へと置き去りにされた。
 廃ビル。場所は分かっている。ゲームセンターの帰りに、見かけた。偶然だったのだろうけれど、運命的なものを感じずにはいられない。
 頑張れ。
 頑張れ、僕!
 ビルの隙間を縫うように飛んで、僕はチャオを見つけた。降り立つと驚いた表情を見せる彼らに、僕は宣戦布告の意味を込めて、叫ぶ。

「リースさんを、返せ!」

 それは、勇気を振り絞って叫んだ、精一杯の言葉。
 チカラタイプのチャオは無表情、と言っても良かった。笑ってもいないし、怒ってもいない。その周りの2匹は、とても怒っていた。
 怖い。
 けれど、ここで頑張らなきゃならない。

「何しにきたんだよ、エース」
「僕は、リースさんを」
「何しに来たって、聞いてんだよ!」

 チカラタイプのチャオが憤怒の形相で僕を睨んだ。足が竦む。倒れそうになる。
 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い——怖い!
 体が震えた。
 高ぶっていた気持ちが、一気に沈みこむ。
 逃げ出したい。
 もういい。
 どこかへ逃げたい。
 頑張れ。
 中途半端なまま、逃げ出すのはダメだ。

 ——勝てないよ。逃げればいい。

「エースの分際で、偉そうに!」

 2匹のチャオが走って来る。体が動かない。さっきまでは出来ると思ったのに、今は全然動かなかった。
 にらまれた瞬間、僕は体の震えが止まらなくなった。
 どうして、どうして、どうして? リースさんを助けなくちゃいけないのに、助けたいのに、それが出来ない。殴られる。蹴られる。倒れこむ。踏まれる。殴られる。

『お前があの人と話すなんて、100年早いんだよ!』

 僕がどうにかしようなんて思うことが、間違っていたのかな。

 ——その通りだ。

 気持ちが折れそうになる。実際、既に折れていた。睨まれた瞬間から、僕は竦んでしまっていた。殴られた痛みが、無視され続けた苦しみが、戻って来る。
 僕にはどうすることもできなかった。僕の意思に反して震える体を抑えることなんてできやしない。
 恐怖を感じていた。
 だから、何もできずに、ここで終わる。

『こいつ、二度と学校来させないようにしてやろうよ』

 立ち上がりたくない。ここで負けてしまえば、あとは逃げるだけだ。
 すごく魅力的な選択肢に思えた。
 負けてしまおう。
 逃げてしまおう。
 どうせ誰も僕を責められない。悪いのは僕じゃないんだ。
 悪いのは、僕じゃない。

『どうせ何言っても無駄だよ』

 そうだ、散々酷い事を言われ続けてきた。

『近寄らない方が良い』

 捨てチャオだからというだけで、ハーフチャオだからというだけで、僕は嫌われ疎まれ蔑まれ恨まれ暴力を受け、地獄をこれでもかというほど味わった。体感した。

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 どうして僕ばかりがこんな目にあわなくちゃいけないんだろう。
 僕がここにいちゃいけないというのだろうか。
 どうして他のみんなは良くて僕は、僕だけはだめなんだろう。
 もうやめてくれ。
 もう嫌だ。
 嫌だ、逃げたい、逃げ出したい、どうでもいい、傷つきたくない、苦しみたくない——なんで僕ばかりが、こんな目にあわなくちゃならないんだ!

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 ……そうだ、逃げてしまえ。

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 逃げれば苦しみからも解放されるんだよ。

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 それが一番、誰も傷つかないで済む方法じゃないか。

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 リースさんだって、僕なんかよりも彼の方が良いに決まっている。

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 僕はピエロか。

『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』

 僕は、ここにいちゃいけないんだ。
 全部、誰かのせいにしたい。マトさんが悪い。店長が悪い。お母さんが悪い。レイが悪い。学校のみんなが、今、目の前にいる彼らが、リースさんが——


 リースさんが、一体何をしたって言うんだ。
 マトさんも、店長も、レイも、お母さんも。
 みんな、僕に優しくしてくれたじゃないか。
 僕が独りでいると、手を差し伸べてくれた。
 学校のみんなだって、最初のちょっとだけだったけれど、仲良くしてくれた。
 だから僕は、ちょっとでいいから、恩返しがしたかったんだ。
 ほんのちょっとでもいいから、お返しがしたかった。
 もらったもの。
 支えになってくれたこと。
 優しい人たちに、みんなに。

『恩返しって言うのは、お金とか、そういうんじゃなくてね、エースちゃん』

 気持ちで、返したかった。

『俺の教え方がうまいんだっての』

 物でもなくて、お金でもなくて、ちゃんとした僕だけの気持ちで。

『ちょっとは気が晴れたか?』

 僕に優しくしてくれた人たちに、全部、その優しさを。

『だけど、全部中途半端で逃げるのだけは、許さないからね、エースちゃん』

 大丈夫。
 最後に背中を押してくれたのは、ほかでもないレイのお母さんの、言葉なのだから。
 いろんな人から、いろいろなものをもらって、いろんな気持ちをおぼえながら、僕は今、ここにいる。
 誰に言われたわけじゃない。
 きっと嫌なことばかりだろう。
 辛いかもしれない。

 けれども。

 僕は、優しくしてくれた人たちに、

『……あの、またお話しましょうね』

 ——恩返しがしたいんだ!

「俺に楯突こうとするから、そうなんだよ!」

 問、コドモチャオはオトナのチャオに勝てないだろうか。
 否、やってみなくちゃ分からない。
 やってもいないうちから、出来ない、勝てないなんて、言っていられるほど、僕はオトナじゃない。
 その通り。だってコドモだもの。
 素直に生きて、何が悪い。
 体中が痛むけれど。
 僕は足にチカラを入れて、飛んだ。

「う……わっ! わわわわわわ」

 1匹のチャオの尻尾を掴んで振り回す。振り回したまま、僕はそのチャオをもう1匹のチャオ目掛けて投げつけた。
 声にならない叫び声を上げて、2匹は倒れる。ポヨが渦を巻いているところを見ると、どうやら成功らしい。
 体がふわふわと浮いている感覚だ。
 河原でも、同じような感覚を味わった。何なのだろう。今ならなんでも出来る。そんな気がする。
 睨まれた。恐怖はある。でも、負けたりはしない。
 僕が戦っているのは、自分の中の恐怖だ。逃げたい心。好き勝手している彼に、僕が負けるわけがない。

「エースッ!!」
「リースさんに、これ以上乱暴してみろ……僕はお前を、ただじゃ済まさない!!」

 簡単だ。レイの真似をするんだ。
 気持ちを、思っている言葉を、ただ思った全てを、叫べば良い。あの河原でやったみたいに。
 彼は何が起こっているか、分かっていない様子だった。僕が、僕ではない何か別のものみたいに見えているのだろうか。
 単純に言ってしまえば、たぶん、彼は恐怖している。
 自分より弱いはずのコドモチャオが、自分に反抗していることに対して。

「てめえ、降りて来い! 卑怯だぞ!」
「卑怯なのはお前だ!!」

 頭の隅で、そんなことを考えて。
 僕は彼のポヨを掴んで、空中で旋回する。彼の体は思いっきり振り回される形になって、ただ悲鳴を上げていた。
 振り回したそのまま、投げ飛ばす。壁に激突する寸前、僕は彼の尻尾を引っ張って、反対側に投げ飛ばした。
 チカラは必要ない。遠心力と慣性と勢いで、簡単に投げられる。廃ビルの壁に激突した彼は、ポヨをぐるぐるにして倒れた。
 緊張がほどける。
 ゆっくりと降りる。
 ……勝った。
 僕は勝ったんだ。コドモチャオが、オトナのチャオに勝った。ハーフチャオの僕が、捨てチャオの僕が。
 勝てた。
 たぶん傍から見たらすごくシュールな光景だったとは思う。
 でも、僕は必死だった。
 チカラで劣る僕が唯一彼に勝てるのは何か。羽の大きさ。ヒコウ能力。ヒコウ能力はケンカに向かないけれど、頭を使って、僕は必死で戦った。
 その結果。
 コドモチャオの僕が、オトナのチャオの彼に、勝ったのだ。

「エース君っ!」

 ぎゅっと手を握られる。
 気の利く言葉なんて思いつかずに、とりあえずにこりと笑ってみたけれど、彼女は恥ずかしそうに俯くだけで、沈黙。
 なんて声をかければいいのだろう。
 もう大丈夫?
 怪我はない?
 全然分からなかった。さっきまで僕を包んでいた万能感は消えうせて、代わりに戸惑いが生まれて来る。
 今、思ってみると。この状況は結構というか、かなり恥ずかしい。
 チャオに性別はないと言われている。けれども実際、チャオそれぞれの人格、性格は人でいうところの性別のような差がある。
 僕は、人で言えば男。彼女は女の子なのだろう。
 とても恥ずかしい。
 手を握られたまま。頬を赤らめるリースさんと。間近で向き合う。

「あの、助けてくれて、ありがとう……ございます」

 声の最後の方は聞き取れないほどに小さくなっていた。
 たぶん、彼女も僕と同じ気持ちなんだ。
 こくこくとうなずく事しか出来ない僕は、何か言わなきゃという焦燥に駆られて、しかし何も思いつけない。
 どうしよう。
 どうしようどうしようどうしよう。
 一緒に帰ろう? どこに? 学校? でも僕、レイのところに、一緒にレイの家まで、でも彼女はレイと面識があるわけじゃないし。
 彼女に殴られた痕があるから、ひとまず体の手当てをしたいけれど、どう切り出せばいいのか。

「ふふ」

 口元に手を当てて、リースさんは笑った。そのしぐさにどきっとする。

「こうしてちゃんと話すのは……初めてですね」
「あ、うん。僕……」
「あの、もしよければ……私と、私と……お、お友達に、なって」

 顔が熱くなるのが自分で分かる。なるほど、チャオも恥ずかしいと顔が熱くなるんだなあ、なんて頭の隅でどうでもいいことを考えていた。
 リースさんへ、手を伸ばせば触れられる距離。
 少し勇気を出せば、どうとでも出来る距離。
 なんだか頭がぼうっとして来た。熱に浮かされたのかな、きっとそうだな、なんて考えて、ふらっと後ろへ倒れる。
 天井と、僕を不安げに覗き込むリースさんの表情が目にうつった。
 心配しないで、なんて、きざなセリフは喉を裂いても出ないけれど。
 ちゃんと助けたよと、みんなに胸を張って言える結末だったから、僕は————


 目が覚めると、そこには見知らぬ天井があった。
 白い部屋。
 清潔な感じのする部屋。
 病院だ。
 隣にはリースさんとその優しそうな飼い主の女性がいて、レイはしどろもどろになりながらも談笑していた。
 起きた僕もそこに混ざって、レイは照れくさそうに憎まれ口をたたく。
 聞いた話によれば。
 僕が倒れてから、リースさんは僕をレイの家まで送り届けてくれたらしい。どうしてレイの家を知っているのか、という僕の質問に対してリースさんは頬を赤らめるだけだったけれど。その後1日中僕は眠っていて、こうなる訳だ。
 チャオ医学に精通しているわけじゃないからよくは知らないが、僕はどうやらとてもひどい怪我だったみたい。人で言うと骨が折れているレベルかな。
 でも、結果的になんだか幸せだったから、僕は笑っておいた。

「で、母さんが言うには、お前をうちで飼いたいって話なんだけど」

 リースさんを名残惜しくも見送って、2人になったところでレイが切り出した。
 表情は真剣そのものだ。お母さんが言っていたということは、ウソじゃないし、ちゃんと飼ってくれるのだろう。
 もちろん、その提案はやぶさかではない——どころか、むしろとても嬉しい提案だ。レイの家はとても居心地が良いし、アルバイトはまた見つければ良い。
 そう、そのアルバイトなのだけれど。
 ファミレスの店長が僕に戻って来て欲しい、と言っていたというのは、レイから聞いた。聞いたときはすごく嬉しかった。だけど、僕が行くと迷惑になるかもしれないから遠慮するという旨を電話で伝えると、

「籍は残しておくから、いつでも手伝いに来てね」

 という優しい言葉が返って来た。お店の事情は大丈夫なのかを聞いておけば良かったな。でもたぶん、大丈夫じゃないのだろう。それでも店長は優しいのだ。
 その店長さんの話によれば、マトさんは今回の騒動ですっかり意気消沈してしまったらしく、僕を呼び戻したいと言った理由はどうやらそれなんじゃないかと僕は睨んでいるのだ。
 でも、謝らないでくれてよかった。
 謝られたら、僕はどうすればいいのか、分からなくなるから。
 そのあたり、レイが根回しをしていたのではないかと思っている。
 話を戻す。
 とにかく僕は、その提案を丁重に断った。
 しばらくはリースさんに乱暴した彼らが懲りていないか監視していたい、というのもあるけれど、一番の理由はやっぱり学校が僕の家だということを校長先生に言われたこと。それから、全部、もう一度やり直してみたい。
 それに、

「レイは、どっちかというと僕のパートナーだと思うんだ」
「え? え?」
「友達ってことだよ」

 2人して笑いあう。

 満場一致(2人)で僕は学校に戻ることになった。
 僕の逃避行は、ここで1つの終幕を迎える。
 変わったものはたくさんあるし、正直言って、やっぱり学校に戻るのは怖い。でも、ここで逃げてしまったら、やっぱり格好悪いんだ。
 独りじゃないから、がんばろうと思える。
 僕を見ていてくれる、見守ってくれる人たちがいるから、がんばらなきゃいけないと思える。
 だから僕は、学校に戻った。
 先生からはこっ酷く叱られた上に、補習授業を受けさせられることになった。
 まあ、仕方のないことだと思う。
 久しぶりに帰って来た自分の部屋は、やっぱり誰もいなくて寂しかったけれども。
 まあ、これもやっぱり仕方のないことだと思う。

 ちなみに僕の背中に生えたフェニックスの羽のお陰で、クラスの子からちょっとだけ羨ましがられた。
 今度シャークマウスの彼にもお礼を言いに行こう。

このページについて
掲載日
2010年2月2日
ページ番号
7 / 9
この作品について
タイトル
Half and Half
作者
ろっど(ロッド,DoorAurar)
初回掲載
2010年1月29日
最終掲載
2010年2月2日
連載期間
約5日