5<hope and despair>

「私も、本当はこんなこと言いたくないわ」

 僕は横たわっていた。休憩室にいた。失神していたのだろうか。チャオも失神するんだなあ、なんて、どうでもいいことが脳裏に浮かんで来た。
 店長の声と荒々しい声が聞こえる。マトさんの声もやや混じっていた。

「でも、あいつは良い奴です!」
「知ってる。だけど……!」
「お前も知ってるだろ。悪い噂ってのは、広がりやすいんだよ。前もそれで店に人が来なくなったことがあったじゃねえか」

 3人とも。店長とマトさんと、レイが声色を荒げて言う。たぶん、僕の話だろう。いくら鈍い僕でも分かる。
 辞めなくちゃならない。捨てチャオは偏見の目で見られても仕方がないのだ。お店に迷惑はかけられない。良い人たちに。
 優しくしてくれた人たちに迷惑はかけられない。

 ——どうせ気まぐれで優しさを振りまいて、それでおしまいなんだろ?

「だけど、なんで、あいつにはどうしようもなかったんですよ!」
「だから、言いたくないの。私だって、エースちゃんにはこれからも働いていて欲しいわ。でもね、どうすることも出来ないのよ」

 服を置いた。ポケットのメモ帳に謝辞を書いて、僕はこっそりと抜け出す。
 僕のせいで、お店に迷惑はかけられない。だから僕が出て行くしかない。

 ——僕を苦しめるやつなんて、いなくなれば良いのに。

 不思議と気持ちは落ち込んでいなかった。

 ——うそだ。

「なら、俺があいつの飼い主になります。それでいいでしょう!」
「一度広がった噂ってのは、撤回しにくいもんなんだよ。いや、嘘だったとしても、撤回なんてできねえんだ」
「あいつは1人なんです! 1人で頑張ってきて、今も1人でいる! それなのに、」
「私たちにも、私たちの生活があるのよ、レイ。客観的に考えてみても、噂の的のエースちゃんが働いてたら……」
「そんな下らないオトナの事情は聞いてない!」

 だって、店長もマトさんもレイも、良い人なんだ。僕を気遣ってくれてることくらい分かってる。
 だからこそ、僕は出て行かなくちゃならない。
 いつもレイと帰っていた道を走る。お母さんは仕事でいないはずだ。帰ってくる前に急いでリュックだけ取って出て行こう。どうせもうすぐ約束の1か月だ。
 曲がり角を最高速で曲がった。頭に衝撃が奔る。後ろにすうっと弾き飛ばされて、ポヨがぐるぐると渦を巻いた。

「すいません! 急いでて——」
「いえ、こちらこそ……すいませ、エース君!?」

 白い肌が目についた。頭の上に天使の輪みたいなポヨがある。ヒーローオヨギタイプ。どこかで聞いたような声。
 体中からあふれる様な気品が、彼女をまとっていた。
 見惚れていたといっても良い。
 彼女の一挙一動から、僕は目を離せなかった。

「リース、さん」
「やっと、やっと見つけました」

 え?

「ずっと心配していたんですよ」

 ぎゅうっと手を握られる。
 心配していた? 僕を? 何のために? 誰に言われて?

「一緒に帰りましょう、エース君。学校に」
「……どうして」

 学校には帰れない。僕は学校にいちゃいけない。みんなそう思ってる。僕はどこにもいちゃいけないんだと。死ぬべきなんだと。
 何より僕が行きたくない。そう思うとなんだか苦しくなって、僕はぎゅうっと手を握り返した。

「みんな待ってます」
「誰も待ってないよ」
「私が待ってます」
「ありがとう。でもいいんだ」

 まるで自分じゃない別の誰かが話しているみたいだ。
 早く行かなくちゃ。誰も知らないところに。僕のことを知っている人がいない場所まで。そうしなきゃ僕は、周りの人にまで迷惑をかける。

 ——周りの人がみんな同じ苦しみを味わえばいい。

「話したら容赦しねえって、言ったよな、エースう?」

 ぞっとした。おそるおそる後ろを振り向く。後を付けて来たのか。僕をいたぶるために。僕を絶望させるために。
 ニュートラルチカラタイプのチャオがこぶしを構えていた。殴られる。やられる。

 怖い——!

 コドモチャオの僕じゃあ、決して彼には敵わない。けれど、思い出せエース、彼は僕だけじゃない。彼女にまで危害を加えるつもりなんだ。
 でも、僕にはどうすることも出来ないじゃないか。
 そうだ、どうせ僕にはどうすることも。

「ひっ」

 情けない声があがる。

「は、なしてえっ!」

 後ろで悲鳴が聞こえても、僕は振り向けない。彼の目に吸い寄せられる。僕じゃあ無理だ。勝てっこない。スキルが違いすぎる。
 彼は右手にハート型の実を持っていた。まさか。強制的に繁殖させる実。思い浮かぶ。けれど動かない。体が動かないんだ。
 動かないとリースさんが。でも。だけれど。

「よーし、お前ら、行くぞ」

 リースさんの手が僕に伸びる。僕にその手を掴むことは出来ない。体が震えていることに気づかない。一歩も、少しも動けない。
 ふっと、彼女が微笑んだ気がした。けれど気のせいだろう。僕を哀れんで笑っているのだ。
 それは恐怖だった。
 暴力に対する。悪意に対する。
 それは恐怖。

「はあっ」

 どっと疲れが押し寄せる。
 もう嫌だ。
 逃げよう。
 それがいい。
 そうしなきゃだめだ。
 そうする他ない。
 急いで帰って、急いで出かけよう。
 僕のことを誰も知らない場所へ。
 走って行こう。
 もう嫌だ。

 いつ、家に着いたのか。僕の記憶にはない。ただ僕はレイの家にあがって、リュックを背負った。どこか遠い場所から、自分を見ている感覚。
 急がないとお母さんが帰ってくるかもしれない。走って家を出る。鍵を閉める。合鍵は壊して捨てよう。
 道路に出た。

「どこへ行くの、エースちゃん」

 ——かちっと、何かが響いた。

 僕のことをエースちゃんと呼ぶ人は2人いる。
 1人は店長だ。けれど店長がここにいるはずがない。だから必然、もう1人の方になる。
 そのもう1人は、いつもと変わらない笑みで、僕を見つめている。

「ちょっと、出かけて、きます」
「帰ってこないつもり?」

 どうして分かったのだろう。ポヨが変化しないように気をつけていたのに。

「何があっても、エースちゃんはうちの子よ。忘れないで。家出しても、最後は帰ってきなさい」
「でも、元々1か月って」
「それはそれ、これはこれ。お父さんは私が説得するから。いい? あなたはここにいなさい。いなきゃだめなの」
「僕は捨てチャオなんです!」

 言うしかない。ずっとだましていたことを。お母さんは悲しむだろうか。だけど言うしかないと思った。
 少し、驚いた表情をして、お母さんはふっと微笑む。
 どうして、笑ったの?

「知ってたわ。レイから聞いたもの」

 捨てチャオは人からも、チャオからも嫌悪される。人のものだったチャオを欲しがる人なんてほとんどいない。そのチャオが誰のものかも分からないのに。
 そのはずだった。けれども僕の考えは目の前にいるほかでもない、『人』によって否定される。
 捨てられていたとしても。
 それが捨てられたチャオだったとしても。
 お母さんは僕に『ここにいろ』と言った。涙が溢れそうになって、ぐっとこらえる。

「エースちゃん」

 僕の名前が呼ばれる。

「エースちゃんは、どうしてそんなに泣きそうなの?」

 ばれていた。

「行かなくちゃならないところがあるんじゃないの?」

 お母さんは、さっきのやり取りを見ていたのか——と思ってしまうほどに、的を射た物言いだった。
 やさしい顔をしている。僕はひどい顔をしているだろう。お母さんのようにはなれない。レイのようにもなれないし、マトさんや店長さんのようにもなれない。
 僕は、欠陥品だ。優しくはなれないし、卑小な性格をしていると自分でも思う。被害者ぶって、自分がしたことは省みず、他を見下す。
 自分の汚さが分かってしまったから。どれだけ卑怯なのか分かってしまった。自分だけが傷つかない場所で、必死で自分がいかに不遇かを訴えているだけだ。
 そうだ、僕にはもう、何もない。

「もう、色んな人から、色んなものをもらってるでしょう、エースちゃんは」
「……嫌なんです。逃げたいんです! 怖い! みんなが僕をどう思ってるのか、分からない! 僕は、いなくなった方が——もう、頑張りたくなんて!」
「本当に?」

 本当に?

「逃げたいのなら、逃げてもいいのよ」

 ——本当に?

 本当に逃げたいのだろうか。本当に体が動かないのだろうか。本当に無理なのだろうか。本当に勝てないのだろうか。本当に分からないのか。本当に僕は。
 僕がしたいことって、なんだっけ。僕がしなくちゃいけないことって、なんだっけ。
 お母さんの表情はどこまでも優しい。その全てを察するのは、いくら歴史に名を残す賢人であろうとも出来ない。そう思わせる。笑みの中に潜む厳しさ。
 僕の間違いを見透かす瞳。

「だけど、全部中途半端で逃げるのだけは、許さないからね、エースちゃん」

 中途半端。
 リースさんがさらわれたのは、誰のせいだろう。チカラタイプの、あの子のせいで、確かに僕のせいじゃないけれど、それでも僕が関わっている事は紛れもない真実だ。
 レイが怒っているのは、誰のせいだろう。もちろん、僕のせいだ。僕が捨てチャオだということをさらけ出せず、うじうじと悩んでいるから。
 店長やマトさんに言いたくないことを言わせ、悩ませたのは誰のせいだろう。僕のせいだ。ずっと騙していた。
 だとして、僕が学校で後ろ指を差されたのは。

『なんで生きてるんだろうね、あいつ』

 だとして、僕が学校で受けた言葉の暴力は。

『ちょっと珍しい肌の色してるからって、調子に乗ってるよね』

 それだけは、僕のせいじゃないと言い切ってしまいたかったんだ。だって、僕の受けた痛みも、どうしようも出来ないもどかしさも悲しみも寂しさも、全部、自分のせいだなんて、思えなかったから。
 中途半端。
 やり遂げられない。
 誰かを見下して、自分を保つ。悪いことなのだろうか? みんなやっていることだ。けして悪いことなんかじゃない。

 だけれども。

 だからこそ。

 僕はそうしちゃいけない——そうしたくないんだ。

「エースッ!」

 今度の叫びはしっかりと聞こえた。僕は思いっきり振り向く。
 過去。苦しみと戦ってきた過去。それは僕のせいだったし、別の誰かのせいでもあったし、僕を捨てた人のせいでもあった。
 他と違う僕。ハーフチャオで、捨てチャオで。学校だけが僕の居場所で、友達はいなくて。勉強は出来たけれど、読書もしていたけれど、他にすることもなくて、1人で寂しさをごまかして。
 他と同じ僕。優しくされるとうれしくて、木の実が好きで、お母さんの作る料理が大好きで、感謝の気持ちを伝えたくて、頑張りたくて。可愛いチャオに心を惹かれて。
 巻き込んじゃいけないと、リースさんを突き放した僕。あの優しさも嘘だったのだろうか。いや、違う。あれは僕の優しさで、僕だけのものだ。他の誰のものでもないし、他の誰にも否定はさせない。
 河原で叫んだ僕。鬱憤が積もり積もって、言いたいことを全部言ってしまいたくなるような不思議な少年と出会った。笑いながら罵り合った。あれも僕だ。
 お母さんの優しさに触れて喜んだ。初めてのアルバイトで緊張した。褒められて嬉しかった。失敗して恥ずかしかったけれど、みんな優しくて、もっと頑張ろうと思った。お母さんのお弁当。
 体が震えて、動けなかった。みんなが僕を否定しているような気がした。僕は他のチャオと違うから、ここにいちゃいけないんだと思った。捨てられたことがコンプレックスで。

『エース君は、ハーフチャオなんだ?』

 そうやって話しかけてきてくれた言葉に、悪意はあったのだろうか。勝手にそうと決め付けてなかったか。

『捨てチャオだって、聞いたんだけど』

 溝を作ったのは誰だったのか。本当に彼らの気持ちを分かっていたのか。分かっていたつもりになって、被害者を装っていただけだろう。

『あ、はいっ! ……あの、またお話しましょうね』

 裏切るわけにはいかない。
 いや、違う。
 裏切りたくないんだ。

「レイ、コドモチャオは、オトナのチャオに勝てないと思う?」
「……さあ? やってみなきゃ、わからねえよ」

 そうだ。
 本当に、そう思う。

「1人で大丈夫か」
「うん」
「本当に?」

 レイが口角を上げる。笑っているんだ、彼は。僕が大丈夫だと確信している。だから僕も笑う。
 同じように笑えているだろうか。
 きっと笑えている。僕はそう思うことにした。

「僕を捨てた人が、僕に残したものは、確かに嫌なものばかりだったけれど……」

 困難と屈辱と寂寥と痛み。捨てチャオだという事実を、飼い主は僕に残した。変えがたい事実。代えられない真実。
 だけど。

「それでも、この名前だけは、その人たちからもらったものなんだ」

 思い出した。
 エースって名前は、僕の飼い主だった人が、僕にくれたものだ。愛情の証。何か理由があって僕を捨てたのかもしれない。それは分からないけれど、飼い主だった人は、僕に名前をくれたんだ。
 僕だけの名前を。

「行かなくちゃ。僕に優しくしてくれた子が危ない目にあっているんだ。僕のせいで。だから行かなくちゃいけないんだと思う」
「分かってる。止めるなんて考えてねえよ」

 すうっと、レイは息を大きく吸い込んだ。

「行って来い!! 相棒!!」

 だから、僕も精一杯の大声で返す。

「行って来ます!!」

 ばささ、と紙のこすれたような音がした。次第に大きくなるその音に、僕たちは頭に疑問符を浮かべる。ポヨがあるのは僕だけだけれど。
 音もなく、その音は僕の目の前に降り立った。ポップ体で書かれた『ChaosDriver』のネームプレートをぶらさげた金色の鳥。
 翼に手を触れる。フェニックスの体が消えて行く。僕の中に何かが入り込んで、流れて、通っていく。
 きらきらとした光に包まれて、僕の足の形が変わった。鳥の爪みたいだ。ふと背中に違和感を感じる。金色の羽が、僕の背中に付いていた。
 キャプチャー能力。

「行ってらっしゃい、エースちゃん」
「……はい!」

 ぐっと、足に力を込めた。
 ずっと働いてきたから、スキルは多少なりともあがっているはずだ。本当は違ったとしても、今はそうでない訳がないんだ。そう思い込まなければならない。
 出来る。
 僕なら、絶対に出来ると。

 いや。

 僕にしか、出来ないって——!


 初めて会ったときから、気に食わなかった。
 俺の飼い主は、いつも周りのきれいな色をしたチャオを見る。ツヤツヤのチャオ、ジュエル、ハーフチャオ、そんなところだ。
 そいつは飄々としていて、飼い主がいないなんて言って、まるで自分が悲劇のヒーローであるかのように暗い表情をしていた。
 それがたまらなく、俺にとっては不愉快だった。
 飼い主がいないことだけが、不幸なのか?
 俺の飼い主は、俺がいくら頑張ったとしても、俺なんて見ちゃくれない。貴重なチャオばかりを見る。だから俺も好き勝手やってる。それで初めて対等だ。

「なんで、こんなことを……」

 攫って来たピュアチャオがつぶやく。こいつもそうだ。俺じゃなくて、そう、あいつじゃなきゃ駄目なんだ。
 どうして俺じゃいけない?
 間違ってると思った。だから俺は強制的に現実を正しくしようと思った。ハートの形をした実を無理やりにでも食べさせて、繁殖期にさせる。
 チャオ同士にも結婚はある。人間のそれと比べると些細なものだが、繁殖したチャオ同士、一緒にいるのは当然のことだ。
 これで俺は苦しみから解放される。

「それにしても、エースのやつ、かっこ悪かったな!」
「生きてるのが悪いんだよ、あんなやつ、ははっ」

 結局、人間社会もチャオの社会も力が全て。
 チカラタイプの俺に楯突こうなんてやつは誰もいない。ましてまだ大半がコドモチャオだ。スキルは一番俺が高い。力比べで負けるわけがない。

「もう、食べられない」
「うるせえ! 俺が食えって言ったら、食うんだよ!」

 殴る。ピュアチャオのポヨが不機嫌を表す。無理やり食べさせる。
 年上だからって、俺に敵うわけないんだ。チカラのスキルで俺に勝てるやつなんていない。
 じゃあ、俺が威張って何が悪いんだ? むしろそれが当然だろ? 俺は悪いことをしているわけじゃない。当然のことをしているだけなんだ。
 2匹のチャオが俺の怒りに萎縮する。こいつらも俺の強さにびびってるだけだ。
 どいつもこいつも、馬鹿ばかり。嫌になる。
 センコーは勉強しろってうるさい。なんで勉強しなくちゃいけねえんだよ。どうでもいいことだろ? 何の役に立つんだよ、勉強が。
 それよりもスキルをあげた方が役に立つに決まってんだろ?
 むかむかと腹が立ってくる。

「さっさと食えよ!」

 殴る。食べさせる。

「うっ、うえっ、もう、嫌あ!」
「うるせえ! 黙って食え!」
「エース君、エース君! 助けてえ、エース君!」

 エース、エース、エース。
 どうして俺じゃいけない? どうして俺じゃ駄目なんだ? あんな捨てチャオのハーフチャオがいいのか? おかしいだろ?
 俺の方が強い。俺の方が。俺の方が!
 黙らせてやる。
 黙らせて、もう二度とエースなんて呼べなくして——

「なんだ、なんだあいつ!?」

 部下の1匹が耳元で叫んだ。
 ばささ、っと、そんな音がした。ピュアチャオの声が沸き立つ。俺はゆっくりと後ろを振り向いた。
 二度と見たくない面が、あった。

「リースさんを、返せ!」

このページについて
掲載日
2010年2月2日
ページ番号
6 / 9
この作品について
タイトル
Half and Half
作者
ろっど(ロッド,DoorAurar)
初回掲載
2010年1月29日
最終掲載
2010年2月2日
連載期間
約5日