4<dark and lamp>
冷たい暗闇の中に、僕はいた。声を出そうとしても出せなかった。逃げようとしても逃げられなかった。
もがいても、あがいても、手を伸ばしても、何も掴めない場所に、僕はいた。そこがどこだかはよく覚えていない。けれども、僕はそこにいたんだ。
ずっと。
これからも、ずっと。
そんな場所に、僕はいる。
「ありがとうございましたー、またお越しください!」
学校から脱け出して、2週間が経過した。ここ最近のアルバイトラッシュのお陰か、僕のスキルは——チャオの能力的な意味でも、仕事的な意味でも——着実に上がりつつある。と、思う。
ついこの間マトさんに褒めてもらったばかりだ。
若いのにしっかりしているらしい。
若さに助けられている部分ももちろんあるのだろうけれど、褒められるとやっぱり嬉しかった。勉強が出来ても、何をしても。学校だったら誰も褒めてくれないのだから。まるで僕の努力じゃないように扱われる。
でも、ここは違う。
僕のやったことは、僕の努力。僕の出した結果も、全て。努力が全て報われる場所なんだ。
「次の給料は明日ねえ。何買うの、エースちゃん」
店長は相も変わらず僕をちゃん呼ばわりする。ウェイトレスのドレスも相変わらずだ。2週間も、正確には1週間くらい働いているのに、まだウェイターのスーツが手に入らないみたい。
何か陰謀めいたものを感じる。
「特に決めてないです。お母さんに恩返ししたいんですけれど」
「ああ、レイのお母様?」
「はい。何か良いものありますか?」
出来た料理を客席まで運んで、すばやくレジ近くに戻る。土曜日の3時。この時間帯は毎回お客さんが少なくて、正直、暇だ。
「そうね、家事を手伝っているんでしょう? なら、それ以上はお母様も求めていないんじゃないかしら」
「そうでしょうか……」
実は。
ここで働いている人たちは、僕が捨てチャオだということを知らない。レイが飼っているチャオ、という認識なのだ。
だからだろう、恩返しは必要ないと言う。かと言って詳しい事情を説明するわけにはいかないし、ほかに相談できそうな人もいないし、どうしよう。
「どうしてもって言うなら、やっぱりお花かしらねえ。無難なところで」
と、店長が厨房から出て来たマトさんと目を合わせながら言う。
「プレゼントだろ? 直接聞いた方が早いんじゃないのか?」
不器用なマトさんらしい提案に、僕と店長は目を合わせる。
「生活費も支払おうと思ったんですけれど」
断られました、という言葉を飲み込んだ。
「恩返しって言うのは、お金とか、そういうんじゃなくてね、エースちゃん」
店長がほんわりと微笑む。
恩返し。単に僕は、『お世話になっているから、そのお返し』のつもりだった。だから最初はお金で、次は家事を手伝うことでそれを表現した。
でも、やっぱりそれだけじゃ僕にとって不足なのだ。せめて僕の稼いだお金で、僕が選んだものをあげて、喜んで欲しい。そう思う。
色々理由や理屈を付けようと思っても、出来なかった。
それこそ、
「なんていうか、気持ちなの。家事を手伝うってだけで、感謝の気持ちは伝わってると思うわ」
もっともだ。僕の読んだ本の中にも、同じような言葉はたくさんあった。気持ちを伝える方法。それでも僕はいまいち納得できない。
「そうね、そうだわ。エースちゃんが可愛い服を着てあげる、っていうのはどう? とても似合いそうなの見つけたのよ」
「あまり期待の新人を困らせないでくれよ、店長」
マトさんが苦笑いして、僕が笑って、店長が微笑む。学校にいた頃とはもう違うんだ。僕は独りじゃない。
願わくば、この日々がずうっと続けば良い。僕は誰かに祈った。出来れば、じゃなくて。どうしても。この日々が続いて欲しかった。
だって、ここには学校にはない、暖かさがあったから。
お腹の虫がぐうっと鳴った。
「チャオガーデン?」
アナウンサーは東大の大学教授団が英国のチャオ科学会議に参加していることをテレビ越しにうったえていた。
ある日の夜。お給料の入った僕は何を買おうか、お母さんにどう恩返ししようかずっと迷っていて、結果として未だ何も思いついていない。けれどその最中、レイは僕に『チャオガーデンへ行こう』と提案して来た。
「親父が帰って来るまで、もう少ししかないから。チャオガーデンなら他のチャオもいるかもしれないし、昔流行った——なんだっけ、名前」
「引き取り活動?」
「そう、それだ。が、しやすい」
チャオガーデンはチャオたちの憩いの場として解放される、いわば無料のホテル、のようなもので。
一昔前に流行し名を馳せた『引き取り活動』の拠点として知られる。もちろん僕がこれを知っているのは学校の授業で習ったお陰なのだけれど。
飼い主のいないチャオは、いわば人から愛されなかったチャオは、転生できないことが多い。チャオからの愛でも果たして転生できるのかは、分からない。
だから、チャオガーデンで引き取り活動をする。
魅力的な提案に思えた。
内容は知っているのだけれど、少し怖い。自分から飼って下さい、と言いに行くのだ。
「どうだ、明日は祝日だし、ちょうど良いと思うんだけど」
「……うん、行ってみたい」
本当は行きたくない。
「よし、じゃあ明日朝早くから出かけるとするか」
だけど、このままじゃいけない。
居座る、っていうのはずうずうしい。
ちゃんと別の場所で生きていけるように、がんばらなきゃいけない。
本当は行きたくない。
望まない現実が、刻一刻と迫りつつあった。
チャオガーデンへは、バスでしばらくだ。
もともとはステーションスクエアなどにあったチャオガーデンの技術を解析して、世界中に憩いの場としてその規模を広げたチャオガーデン。地形は地域によってさまざまだから、公園、一種のテーマパークとしても利用される。
さて、チャオガーデン。そこはチャオの保護所と言っても良い。義務教育を終えた捨てチャオの最終的に行き着く場所。
バスの中で、僕は懸命に不安と戦っていた。正直に言うと、行きたくない。僕はハーフチャオだから他のチャオから疎まれることもあるだろう。学校と同じような目にあうかもしれない。
だけど、レイたちに依存したままでいるのは、だめだと思った。僕は自分で、独りでもがんばれるようにならなきゃいけない。それが恩返しにも繋がる。
そう思い込もうとしても、怖かった。
怖いものは怖くて、必死で何でもない振りをし続けた。
バレてないだろうか。
「俺もチャオガーデンに来るのは初めてなんだけどさ」
「そうなんだ」
「ま、ちょっとした遠足気分だな」
と、レイが子供みたいにきょろきょろしながら言う。
思っていたよりも広くて。空には青空が広がっていて、池が広がって、山から滝が流れ落ちている。ボールが転がって行った。数匹のチャオが駆けて遊んでいた。
ちらり、ちらりと僕を見て。
目を逸らされる。
僕は両手を重ね合わせた。
——怖い。
足が震えそうで、震えているのか分からなくて。
みんなで一緒に、楽しそうに、遊んでいる。
ぎゅっと、自分の手と手を重ねる。
何匹かのチャオが、興味深そうにこちらを見て、逸らす。
胸が痛んだ。
足が竦んだ。
記憶が、嫌な記憶ばかりが思い浮かぶ。
良い記憶は嫌な記憶に塗りつぶされて。
それでも、頑張らなきゃならないと思う。
でも、友達の作り方を、僕は知らない。どうやって話しかければ良いのだろう。一体、どうやって? 友達は作るものなのか。自然になるものじゃないのか。僕には分からない。理解できない。
引き取り活動も同じだ。方法は知っているけれど、どうすれば出来るのかを、僕は知らない。何も知らない。
僕は、何をするために、ここに来たんだろう。
何がしたくて、ここに来ようと思ったんだろう。
向こうで、チャオが何匹か集まって、こちらを見る。ひそひそと話す。
ぞくりと、体が震えた。
『あの子、ハーフチャオだよ』
『暇で友達いないから、勉強してるんだろ。やりたくてやってるわけじゃねーよ』
『ちょっと珍しい肌の色してるからって、調子に乗ってるよね』
『どうせ何言っても無駄だよ』
『飼い主いないみたいだよ——捨てチャオなんだって』
『近寄らない方が良い』
声が聞こえる。繰り返し、繰り返される。
たぶん、それは彼らの声じゃなかったのだろうけれど。
いや、彼らの声だったのかもしれないけれど。
どんな形にせよ、僕には確かに聞こえた。
僕のすべては学校にあって。その学校で。2月。最初。何も知らない僕。聞かれたことに答えて。馬鹿正直に信じて。
もし僕に心臓があったとしたら、今、それは深刻なほどに鼓動しているだろう。
彼らは僕がハーフチャオだと気づいている。
彼らは僕が捨てチャオだということに気づいている。
『あいつ、捨てられたんだよ』
僕は捨てられたんだ。生まれずして道端に。誰からも分かられずに。いつの間にか生まれて、学校で育って来た。
飼い主も、両親も、僕には何も残してくれず、友達すら僕を見放した。
僕は他のチャオとは違う。
同じにはなれない。
いつまでも、独りなのだ。
「エース!」
ほうっと、光が目に入る。少し眩しい。ガーデンのチャオは各々に走り回っていた。
レイの手が僕の手を握る。
すぐ側に、傍にいるはずなのに、そこにはいないようで、僕は独りになった。世界中で僕は独りだけだった。独りしかいなかった。
呼吸の音しか聞こえない。誰の呼吸だろう。僕? 僕を嗤う誰か? お願いだから、やめてくれ。何も聞きたくないんだ。
——いやなんだ。
「しっかりしろ! エース!」
世界に色が付く。何か遣り残したことがあるような、そんな焦燥に僕は追われていた。
大丈夫だ。今は独りじゃない。今の僕は独りじゃないのだ。
——1人じゃ何も出来ないくせに。
1人じゃ何も出来ないのは、僕も同じだったのか。他の子のことなんて言えないじゃないか。
でも。だけど。だとしても。どうして僕が。僕ばかりが。疎まれ、蔑まれ、恨まれなければならないのか。
悪いのは僕じゃないのに。悪いのは僕を捨てた人なのに。だってそうだろう? 僕に何が出来たというのだろう。生まれてさえいない僕に。
ずるいんだ。飼い主がいるってだけで、他の子は色々なものをもらっている。
僕を捨てた飼い主が僕にくれたものは、困難と屈辱と寂寥と痛み。
嫌な思い出。
僕のせいじゃない。
僕以外の、全員のせいだ。
「大丈夫か、エース、大丈夫か!」
「……平気だよ」
何が平気なのか。
「レイこそ、慌てすぎだよ」
思いつめた表情をして。
「僕なら大丈夫だから。ちょっとぼーっとしちゃっただけだから」
多分、ポヨは渦巻き状に変形していたことだろうとは思うけれど。
今は、気づかない振りをしてくれるレイに……、レイが、ただ、ありがたかった。
きっかけは、些細なことだったのだと思う。
僕は回想する。
1月の後半。とある日。僕は生まれた。水色のハーフ。名前をエース。アビリティは上からBCDDB。道端に捨てられたチャオだったらしい。
学校が僕の居場所だと言われ、飼い主を探さなければならないと言われ、そうしないと転生できないと言われ、基礎的な知識は全て学校長から教わった。
2月のはじめと中盤の境目。僕はクラスの最後のメンバーとして、編入した。義務教育はコドモチャオにのみ、転生までの6年、適用される。ただし最初の1 年と最後の1年は個人差がある為——生まれる時期と転生時期の差——若干の融通は利くみたいだけれど。
そして僕は、クラスの楽しそうな雰囲気に惹かれた。
『エース君は、ハーフチャオなんだ?』
心を許した。
『捨てチャオだって、聞いたんだけど』
答えた。
その日から、徐々に、段々と、着実に、彼らと僕の間に溝が生まれた。深い溝が。きっと彼らにとって僕は、得体の知れないチャオなのだろう。
僕には理解し得ない理由が、あったのだろう。
もしかするとそれは僕のせいだったかもしれない。また同時に僕のせいではないかもしれない。今となっては分からないことだ。
「ごめんな、エース」
眠った振りをしていた。聞こえない振りをした。
深夜。空が窓から見える。レイの吐息が聞こえた。結局、お母さんへの恩返しは思いつかない。
空は高くて、澄んでいた。
チャオガーデンに、学校に。僕の居場所はなくても、この家に。僕の居場所は確かにあるんだ。
だから、まだ頑張れる。
まだ大丈夫。
「大丈夫だよ。僕、がんばるから」
穏やかな気持ちになれた。お母さんのお陰でもあるし、レイのお陰でもある。マトさんや店長さんのお陰でもあるだろう。
明日からまた頑張ろう。
1つうまくいかなくても、別の1つで取り返せばいいんだ。
目を瞑る。
だから、まだ——
『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』
「物語って、どうやって作られるのかな」
レストランに向かう途中、僕はレイに尋ねた。
彼は車道と歩道を分ける縁石の上を綺麗になぞって歩く。
「さあ? 俺は読書しないから、よくわからねえよ」
「そっか」
「エースは本が好きなのか」
「うん」
僕は反射的に頷いた。
本には、なんというか、他の人の世界がぎっしりと詰まっている。写真とか、そういったものでも他の人の世界を間接的に見ることは出来るけれど、本は別格だ。
言葉で、文章で、世界が現れる。
目に見えるも、耳に届くも、全て自由。
自分の世界であって、他の人の世界でもあるのだ。
「へえ。作ってみたいってこと?」
そういう訳じゃないけれど。本を読んでいると時々思うんだ。この本は、どういう経緯で作られたものなのか、と。
物語一つ一つには伝えたいものがある。その一つ一つは、物語を綴った人が考えたもので、でも、作り方は、綴り方は、全員一緒とは限らない。
要領を得ない言い方になったけれど、人の数だけ進む道は違う、ということ。
他の人の方法が知りたいと思ったこと。
説明したあとに、ふと、疑問が浮かんだ。
「僕は、何がしたいのかな」
答えはなかった。
レイは、チャオガーデンでの僕を気にしている。僕がああなった原因を知っていて、分かっている。けれども、レイも量りかねているのだろう。
ハーフチャオで、捨てられたチャオであることは、誰にも変えられない。レイにですら変えられない。たとえ飼い主が現れたとしても、僕が捨てられていた事実は、不変のものなのだ。
僕は他の子とは違う。同じにはなれない。
他の子よりも優れているところはない。
ただ、他のすることがないから勉強していただけだ。
すごいことなんかじゃない。
強いて言うとすれば、僕は自由になりたい。嫌なことを全部投げ出したいんだ。
「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
「3人です」
「3名様ですね、ではこちらへどうぞ、ご案内いたします」
手馴れたものだな、と自分のことながらに思った。
ついこの間までは何も出来ないはずだったのに、今はこんなに余裕がある。
意外にも、楽だった。仕事も板についてきている。この調子なら。
大丈夫だ。
僕はここでやって行ける。
レジに戻った。
「いやー、上達したもんだなあ」
「何言ってるの、エースちゃんは最初からちゃんと出来てたでしょ。あ、休憩行って来ていいわよ」
交わされる言葉も、耳に慣れたものだ。マトさんの乱暴な文句も、店長の皮肉も。やっぱり僕は大丈夫だ。
ハーフチャオだけれど、捨てチャオだけれど、僕は生きていける。独りじゃないんだから。
からんからん、と、店内スピーカーから鈴の音が響いた。お客さんだ。休憩に行く前に、一仕事終わらせてしまおう。
余談になるが——ウェイトレスとかウェイター、いわゆるホールの仕事には、レジ近くの入り口まで行ってお客さんを案内することも含まれる。
構造上、入って来たお客さんを確認することはできないのだけれど。入り口のところまで行って、初めて誰が来たか分かる。そういうお店のつくりになっている。
だから、本当にそれは一瞬のズレだった。
一瞬。
僕が早く、休憩室に行っていれさえすれば。
僕は、ずっと、このまま。
「ああん? エースじゃねえか、何してんだよ、こんなところで」
ニュートラルチカラタイプのチャオが、1人の少年に連れられていた。
ここで誤魔化すことが出来れば、良かったのだろうけれど。
僕にそんな余裕はなくて。
ひたすら同じ疑問を繰り返すばかりで。
何を思って、何を考えているのかも、分からなくて。
店内が騒がしくなっていることにも、注目を受けていることにも、気づかなかった。
「おい、何黙ってんだよ。は、捨てチャオのお前が働いてるなんて——」
どうして、ここに。
「学校からいなくなったと思ったらこんなところに逃げ隠れてやがったのか——」
どうして、ここまで。
「いつもの威勢はどうしたんだよ、エース」
どこかでガラスの割れるような音が響いた。時間だけが過ぎていた。僕は立ち尽くしていた。
レイが何か叫んでいる。彼はいつの間に厨房から出てきたのだろう?
目の前のチャオの飼い主であろう少年は、いやらしい笑みを浮かべていた。どんな言葉が交わされているのか、僕には分からない。
どうして僕ばかりが、こんな目にあわなくちゃならないのだろう。
せっかく出来た居場所さえも。
頑張って積み立ててきたものさえも。
僕がハーフチャオであるという事実が、捨てチャオであるという事実が、僕の前から全てを奪い取って行く。
なんで僕ばっかり?
他の、もっと悪いことをしている子から奪ってよ。
なんで僕ばっかりなんだ。
頭の中を文字だけがぐるぐると回っていた。
それだけ。
何を考えて、何を思って、何をしたくて、何をしているのか。
もう、何も分からない。
分かりたくない。
いつもいつもいつもいつも、全部、僕は奪われるんだ。
僕以外、全員いなくなればいい——
『なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ』