2<cry and delight>
僕は、学校の外に出かけた事がない。いつも屋上からちらりと見たり、門の近くから覗き込むだけだった。テレビの映像や雑誌では見た事があるけれど、本物を見るのは初めてなのだ。
少し、新鮮な気分で街中を歩く。先ほどまでの鬱々とした気分はどこかなくなって、明日から学校に行かなくていいんだ、と思うと、見るもの全てが僕の中にすんなりと入って来る。
自動車が実際に走っているところを初めて見た。GUNの警備ロボットを初めて見た。人と人が一緒に、笑いながら歩いているのを初めて見た。
僕の知識は、全て本から得たものだから。家が学校で、学校の中でずっと過ごして来た僕は、すごく頭でっかちになっていたのかもしれない。
明日から学校に行かなくても良い。すごく気が楽になった。これからどうやって生きて行くか、という不安はまだ拭えないけれど。
人とチャオが一緒に歩いている。普通の光景なのだろう、あれが。『義務教育』は『転生していない生まれたてのチャオ』に限定して発生する義務なのだから、一昨年に出来たばかりの義務教育——それを受けていないチャオの方が多いに決まっている。
あの子もそのうちの1匹なのかな、と、僕はぼんやり考えた。
でも、義務教育を受けていないからと言ってそのチャオが学力的に劣るかと言えば、実はそうでもない。飼い主から勉強を教わるチャオはいるし、まともな人に貰われさえすればチャオはとてもまっすぐに育つ。
——というのも、やっぱり本の受け売りだ。思えば僕は僕の意見を言った事がないなと、初めて思った。
本を読んで、読んだ事を言うだけ。それでも、読もうとさえしないような同じクラスのチャオたちよりは、数倍マシだけれど。
だいぶ暗くなって来て、街灯が点く。暗さを自動で認識して明りを灯す技術。今では当たり前になっているこれも、以前はなかったもの、なのだろうか?
想像力をはたらかせていると時々止まらなくなる。
しばらく歩いて、河原に出た。水面に月明かりが映る。今では濁ってしまっているけれど、これも昔は綺麗だったとどこかの本に書いてあった。風が僕を撫ぜる。お腹が減って来た。
木の実は3つ。ここで食べてしまうと、あとが辛そうだ。そう思って、僕は我慢することにした。河原に座る。初めて見る、本物の河。自然。
見るもの全てが、新鮮だった。
でも、やっぱり不安はある。これからどうすればいいんだろう。チャオの社会進出は可能だ。働く事も出来る。働き先など見つかるだろうか? そこでも、ハーフチャオは嫌われるんじゃないか?
『チャオは愛なくして生きられない』
捨てチャオで住居もない、スキルも低いコドモチャオの僕を雇ってくれるところなんてあるのだろうか。だけど、やるしかない。じゃなきゃ生きられない。
ぽちゃん、と音がした。
「っざけんな! あのクソ親父! なにが『お前は何をやっても中途半端』だ!!」
本で読んだ事がある。それは水切り、という名前だったはずだ。回転を掛けた平べったい小石を水面に投げて、跳ねさせる遊び。
投げているのは人だった。僕から見るととても身長が高く見える。男の人。詰め襟の黒い服を着ているから、もしかしたら学生なのかもしれない。
彼は思いの丈を叫びながら、右手を思うがままに振るう。
「収入低いくせに調子乗ってんじゃねええええ!」
段々と水面を駆ける距離が延びて行く。僕は呆気に取られて——ポヨがびっくりマークになっていることに、ようやく気が付いた。
彼が僕の方に顔を向ける。その勢いと来たら、獲物を見つけた野獣のようだった。
「さあ、お前も何か言ってやれ! 言いたい事くらいあんだろ!」
「え? え?」
「俺は勉強ちゃんとやってるだろおおおおおお!! とかさ」
ごくりと、人だったら生唾を飲み込むところだと思う。僕は平べったい小石を渡されて、河側を向いた。
言いたいこと。
『おい、お前! センコーにチクったらお前もあの人もただじゃ済まさねーからな!』
たくさんある。
ここには、何かを言っても僕を殴るチャオたちはいないし、溜息をつくチャオもいない。隣にいる人以外は誰も、僕しかいない。
今なら。
僕にだって、我慢していたこととか、言いたいこととか、色々あるんだ。
僕は彼の真似をして、右手をすっと横に振りかぶる。大きく息を吸い込む。段々腹が立って来た。頭に血が上る。叫びたい。思いっきり仕返ししたい。ニュートラルチカラタイプの僕を見下した表情が浮かぶ。
全部、あいつのせいだから。
僕のせいじゃないんだから。
僕はおなかの底から、張り裂けるほどの声を出す。
「僕がハーフチャオで、何が悪いんだああああああああ!」
「もっと声出せ!」
投げる。
「捨てチャオで悪かったなあああああああああああ!!」
投げる。
彼は僕の隣で小石を投げた。段々大きくなる石に驚きつつも、僕は彼が笑っているのに気が付いて、にっこりと笑い返す。
「化学は苦手なんだよおおおおおおおおお!!」
「友達いなくて悪かったなあああああああああああ!!」
「数学は苦手なんだよおおおおおおおおお!!」
「可愛いチャオの子と喋ってて悪かったなあああああああああ!!」
「英語は苦手なんだよおおおおおおおおお!!」
あれ?
「全部苦手じゃないかあああああああああ!!」
「その通りだああああああああああ!!」
石が水面を跳ねる。月明かりを反射する水面を裂いて、突き進む。僕はぜえぜえと息を切らしながらいつの間にか仰向けに寝転がっていた。
自然と笑いがこぼれていた。お腹の底から笑う、というのだろう。とにかく大きな声で笑った。声はあんまり響かなかった。隣の人も笑っていた。
体だけ起き上らせる。彼はもう1つ小石を拾って、振りかぶった。
「五木原は、いつまで俺を振り続ければ気が済むんだよおおおおおおおおお!!」
9回跳ねた。
「ちょっとは俺の魅力に気づけええええええええええ!!」
そう叫んで、彼も河原に寝そべった。明らかに倒れ込んでいたけれど、痛くないんだろうか。痛くないんだろうな、と、この時の僕にはどうしてか分かってしまった。錯覚だとしても、分かってしまったのだから仕方がない。
彼も大きく笑っていた。肩を上下させて笑っていた。雨が降っていたら、口の中にたくさん水滴が入っているだろう。
僕もつられて笑った。
「振り続けるって、女の子から!?」
「そうだよ! 3回連続だよちくしょー!」
それは確かに悲惨だけれど。
「学校でいじめられてた僕よりマシだろ!」
「んな訳ねーだろ! お前は五木原のキツさを知らないから言えるんだ!」
「そっちこそ!」
笑いながら罵り合うなんて、生まれて初めてだ。本でも読んだ事がない。そんなこと、普通はありえるんだろうか?
この人になら、なんでも言える気がして。僕は何も考えていなかった。何も考えずにいられた。
9回連続で恋してる子に振られる。僕自身、その経験こそないけれど、それが辛い事だってくらい、僕でも分かる。僕で例えるなら、何回も友達になって、仲間に入れてと言っても遊んでくれない、みたいな——そこまで考えて、僕は気づいた。
そもそも僕は、何もしていなかった。友達になってとも、仲間に入れてとも。一緒に遊びたいとすら言ってなかった。黙っていた。
悪いのは彼らだけだったのだろうか。黙って、みんなが友達になってくれるのが当たり前な訳がないじゃないか。
だとしたら、悪いのは……本当に、彼らだけだったのだろうか。
「ちょっとは気が晴れたか?」
僕の悩みの真ん中から、言葉が入って来る。優しさだ。
この人は優しい人なんだ。
そう考えて、僕は落ち着きを得た。
「……うん」
きっと彼は、気づいていたのだろう。僕がここに1人でいる理由に。正確には分かっていなかったかもしれないけれど、何かがあった、ということくらいは分かる。
「よっこらせっと」
彼はあんなに叫んだ後だというのに、何にもなかった風に立ちあがった。僕はまだ体がふわふわしているみたいだ。なんだろう、この感じ。
いじめられていたと言う僕を見て、何も思わないのかな。かっこ悪いとか、ださいとか。学校にいる頃はよく言われた。ださいって。
たぶん、なにも思わないんだろうな。そんな気がした。
「じゃ、遊びに行くか」
「まだ遊ぶの?」
「どうせお前行くところないんだろ?」
彼はポケットから財布を取り出して、僕に見せつけるように言った。
「おごってやるよ」
「……あ、ありがとうございます」
完全に不意を突かれた。捨てチャオは人からも嫌悪感を抱かれる。誰のだったとも知らないチャオを引き取りたい、なんて、思う人は少ないだろう。
だけど、彼は僕の不安な思いを全部打ち砕いてくれた。
飼い主になってくれというのは、たぶん、とても図々しい頼みなのだと僕は思う。ちょっとは期待していたけど、誠意を向けてくれる彼に対して、それはあまりにも失礼なことのように感じた。
誠意には誠意で報いるべきだ、と、僕の中の誰かが叫ぶ。けれどももう1人の僕は、せっかくだから、もう二度と来ないかもしれない機会だからと囁く。
どっちが本当で、どっちが偽者なのか。僕には分からないけれど。
「俺も友達いねーよ」
「え?」
「お互い友達いない者同士、仲良くしようぜ」
にかっと笑う彼の表情は、月明かりに照らされた水面よりも、本に載っていたどんな景色よりも——とても、綺麗だったと思う。
だって、少しのかげりもなかったのだ。
UFOキャッチャーなるものに3回ほど挑戦して、見事失敗した彼はゲームセンターで膝をついていた。絶対に取るんだ、と意気込んで投入した100円玉は無残にも既に3枚散っている。
狙っているのは腕時計だった。なんだか安っぽく見えるのは気のせいだろうか。
ふと周りを見てみると、彼と同じ服装をしている人とか、帽子を被ったおじさんとか、色々な人がいた。女性とチャオの姿は非常に少ない。
それにしても、100円玉をおしみなく使っちゃうんだなあ。僕はすごく驚いていた。安い木の実なら、100円で3つくらい買えると聞く。人にとっての 100円玉は、あんまり価値のないものなのかもしれない。
彼は4枚目の100円玉を投入した。
「あー、惨敗!」
前髪を鬱陶しそうに払って、街灯が照らす歩道を2人で歩く。チャオと人では歩く速さが違うから、必然的に彼が僕にあわせる形になる。
すっかり空は暗くなってしまった。今頃学校だったら、部屋で本でも読んでいるんだろうな、と僕は笑みをこぼす。こぼした笑みに驚いて、僕は彼から目を逸らした。
自動車のライト。街を照らしているのは街灯だけじゃない。お店の看板もきらきらと光っている。学校にいるだけじゃ分からなかったこと、知らなかったことが、僕の目に映る。肌で感じる。廃墟のようなビルがあった。ニュートラルチカラチャオのあの子達が言っていた言葉に、廃ビルという単語があったような気がしたけれど、あれかな。近寄らない方がいいかもしれない。
でも、すごいな、と思った。
大自然の美しさはないけれど、それでもここには実感がある。生きているという実感。人が住んでいる実感。それら全てが合わさって、一種の芸術のようにある。
信号が赤に変わったのに気づかない僕は、彼の手によって歩みを止められた。
危ない危ない。
「ところでお前、名前は?」
そういえば名前を言ってなかったことに、ようやく気付いた。それは彼も同じだったようで、見ると困ったような笑みを浮かべている。
「エースだよ。あなたは?」
「レイっていうんだ。で、これからなんだけど、お前家出して来たばっかりで、まだ住むところも、働くところもないんだろ?」
頷く。働くところがないとは言っていないけれど、あったら河原で1人たそがれる暇なんてないだろうし、漠然と察していたのだろう。それに、捨てチャオが『義務教育』を受けながら学校に保護されて飼い主を探しているなんてこと、常識だ。
レイはうーんと顎に手を当てて、考え込んでいる様子だった。
「ちょっとは空飛べる?」
「そんなに長い時間は飛べないけれど」
「じゃ、俺のバイトしてるとこ……ファミレスだけど、そこでやってみるか?」
願ってもない提案に、僕は口をぽかんと開けてしまった。働けるのなら、ぜひ働きたい。お金を稼がないと生活できないし、木の実も3つしか持っていない。
そういえば、僕はお腹が減っていたんじゃなかったっけ。ぼーっとする頭の中で、そんなことを考えた。いつの間にかお腹が減っていることすら忘れちゃっていたんだ。
だけど、僕に出来るだろうか。いくらチャオの社会進出が順調だと言っても、それはオトナチャオの話。転生もしていないコドモチャオを預かるアルバイト先があるとは思えない。それに僕は捨てチャオだ。それを隠したとしても、住居もないし飼い主もいない。不自然だと誰でも思う。
僕の不安を察してくれたのか、レイは口の端を吊り上げた。
「俺が飼ってるって事にしとくよ。当分は俺の家で生活すればいいし。実際に飼う事は出来ないけどな」
「でも、そこまでお世話になる訳には……」
それにレイには理由がない。ちょっとした親切で、たそがれる僕を気遣ってくれて、ゲームセンターまで遊びに連れて行ってくれて。
その上、働く場所まで紹介してくれ、家まで用意してくれるという。思わず頷いてしまいそうな条件だけれど、だからこそ安易に頷けなかった。
「本当は飼いたいんだけどさ、親父がチャオ嫌いなんだよ。だから親父のいない1か月くらいなら、平気平気」
「そういうことなら……」
「ま、五木原がチャオ好きだから、ダシに使わせてもらうって理由もあるんだけどさ」
彼らしい理由に思わず吹き出す。ギブアンドテイク、という訳だろう。五木原さんが来た時に精一杯彼女をもてなすことが条件だという。
まだ少し気が引けるが、この際だし、乗ってみようと思った。どちらにしても行く宛てなんかない。おいしい条件だ。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくな」
がしっと握手する。初めて握った人の手は、思ったよりもずっと大きかった。
「……という訳で、親父には内緒で飼いたいんだ。頼む!」
レイは祈るように合掌して、母に頭を下げた。僕もそれを見て頭を下げる。といっても腰がないから本当に頭を下げるだけだけれど。
見るからに厳しそうなお母さんで、僕はちょっと緊張していた。いや、怖がっていた、と言っても良い。やっぱりやめようかな、といまさらになって考え始めた。
するとお母さんの腕が僕を抱きすくめ、頬をつねられた。痛くないけれど、なんだか恥ずかしい。ちらりとお母さんの顔を見た。満面の笑みである。
「いいわよー、もちろん! ああ、可愛いなあ、もう! うう、可愛い! すっごく可愛い!」
いくら僕でも、そう何度も可愛いって言われて照れない訳がない。でもこの場合、お母さんのあまりの剣幕に僕は圧されていた。頬ずりまでしてくる。嫌じゃないけれど、嫌じゃないんだけれど……。
その息子をちらりと見ると、下の方で小さくガッツポーズを作っていた。今頃心の中ではほくそ笑んでいることだろう。
「あの、エースって言います。よろしくおねがいします。ちょっとの間ですけれど」
——捨てチャオだと言わなかったのは、フェアじゃなかったかもしれない。
ハーフチャオは人から好かれる事が多い。だけど捨てチャオは違う。何度も言うように、捨てチャオは別の誰かが持っていたチャオなのだ。
だけど、このお母さんなら気にしなさそうだとも思う。だってレイとそっくりだもの。
「お腹すいてない?」
「大丈夫、です。持って来てます」
ごそごそとリュックから木の実を取り出していると、頭を撫でられた。ポヨがハートになるのが自分で分かる。
そっか、ポヨの変化はなんとなく自分でもわかるんだ。どうして今まで気が付けなかったのかな。
お母さんはと言えば、にへらっと嬉しそうに笑っていた。チャオだってだけでこんなに人に愛されるものなのか。でもこれはちょっと恥ずかしい。なんとかして、という視線をレイに向ける。
息子はお腹を押さえて笑っていた。覚えてろよ。
「じゃ、部屋行くから。あとはお好きにー!」
「そう? じゃ、遠慮なく!」
「なんで放って置いたんだよ……」
木の実を食べながら、僕は呟いた。テレビゲームに熱中しているレイと、その母親はとても似ている。人との壁をすんなりと通り抜けるところとか。
しかし、こうしてみると、レイも僕とあんまり変わらない子供に見えるんだけれど。
あの時、河原で笑った少年は、どう見ても年相応じゃなかったと思う。すごく大人に見えたのだ。だから安心できる、という側面もあるのだろう。だから一緒にいても平気なのだろう。不安にならないのだろう。
学校じゃないところで、初めて食べる木の実。おいしい。どうして僕は人の家で木の実を食べているのだろうか。僕の居場所は学校で、それ以外なかったはずだ。
結局、悪いのは彼らだったのか、僕だったのか。確かに僕から歩み寄っていれば、また違ったかもしれない。でも、だからと言って彼らがしたことは絶対に間違っている。許されることじゃないと思う。
それにしても、今日は疲れた。彼女……リースさんは大丈夫だろうか。彼女の優しさも無下にしてしまった。どうしようもなく後悔している。だけども他にどうしようもなかったんだ。僕じゃあ絶対に彼らには勝てないし——
自分の世界に浸る。
僕は今、絶対に勝てないと言った。
数が違いすぎるし、コドモチャオとオトナのチャオじゃあ、勝負にもならない。
けれども。
本当に勝てないのか。
「エース、ゲームやるか?」
本当に、どうしようもなかったのか?
「おい、エース?」
本当に、僕は……。
「……ったく、寝るときは寝るって、ちゃんと言えよな」