1<alone and all>
10年くらい前までは、こんなチャオが1人で残っている——なんてこともなかったらしい。
昼間の騒がしさとは比べ物にならない寂しさを持つ校内の一室。僕はチャオサイズの布団にくるまりながら、まだ薄暗い窓の外を見てもう一度寝ようと思った。
外では楽しそうに小鳥たちがじゃれ合って、遠くへ飛んで行く。小鳥たちにとって、空は自分たちの場所だ。誰にも邪魔されない、自分たちだけの。
僕には、ここしか居場所がない。どんなに独り寂しくても、辛くても。ここにしか居場所がないのだ。
今の、僕には。
1クラスに40匹のチャオがいる。授業科目は社会科。2学年の1番はじめだからか、内容は1学年の復習。それと、久しぶり、なんてあいさつが教室でかわされている。
もちろん、僕にはあいさつなんてないけれど。
他のチャオ——必然的に僕以外のチャオということになる——は仲間内で楽しく話したり、春休みにチャオガーデンへ遊びに行ったとか、ミスティックルーインまで旅行したとか、こそこそと楽しげに話していた。
「さて、近年増加傾向にある捨てチャオ問題ですが……エース君、捨てチャオ問題の内容は分かりますか?」
先生もそれを分かっているのだろう。他のチャオに聞いても喋っていて分からないから、僕に聞く。まるで晒し者だ。その先生と来たらしたり顔で『以前やりましたよね』なんて言い出した。
——分かるさ。勉強くらいしかすることがないもの。
「個人的な事情によって、人に飼われていたチャオが捨てられる事です」
周囲から溜め息が聞こえる。答えられないくせに!
僕がそんなことを思っていると、周りから『答えられて当たり前でしょ。だって自分のことだし』という声が聞こえた。
「そうですね、ただその個人的な事情というのは、お金の問題だったり、知識的な問題だったりします、そのために」
先生は空中を飛びながら(社会科の先生はヒコウタイプなのだ)ホワイトボードに『義務教育』と大きく書いた。
「『義務教育』の導入が、一昨年なされました。それではもう一度エース君」
また僕だ。周りのチャオは授業中に答えたがらないことが多い。やっぱり先生もそれを分かっているから、僕に聞くんだ。他のチャオのせせら笑いが聞こえた。
以前よりも確実に、段々と、チャオの性格は人に似てきているという。ペットは飼い主に似る、というヤツだろう。というと悪いのは飼い主なのか、ペットの方なのか。それとも僕か。
一番格好悪いのは、僕だろうけれど。
「『義務教育』の目的を2つ、答えられますか?」
「チャオが自分で的確な判断をするように、出来るようにすること……それから、捨てチャオを保護するためです」
僕は飼い主を知らない。もしかしたら僕は国の繁殖場で生まれたチャオかもしれない。でも、タマゴのまま捨てられて、タマゴのまま学校に保護されて、そうして生まれた事は確かだ。
水色ハーフ。人にとっては珍しくてすごいものみたいだけれど、チャオの中ではただ単にうとまれるだけ。最近では街中チャオで溢れかえっているせいで、僕みたいな捨てチャオは見向きもされない。
その中でも、国の繁殖場で生まれた『商品』は売れ行きが増加し続けている。そして捨てチャオも。欲しがって、買って、飽きたら捨てる。人って、そんなもんでしょ?
ふと目の前が真っ白になった。なんだ、と思うもつかの間、
「わっ」
考え事をしていて歩いていたせいで、ぶつかった。思わず謝りながら相手に手を差し出す。見れば相手のポヨはぐるぐるマークになっていた。
——ピュアのヒーローオヨギタイプ、かな? ということは年上だ。2学年で進化している子はピュアだけどニュートラルチカラだもの。……性格のきつい人じゃないと良いけれど……。
その子は僕の手をぎゅっと握って、おもむろに立ち上がった。ポヨが元に戻ったのを見て、ほっとする。よかった、怒ってはいないみたい。
「あの、本当にすみません。大丈夫ですか?」
「いえ、いいんです。こちらこそすみません」
気が付くとその子が目の前に迫っていた。二、三歩後ずさって、僕はぎゅっと握られたままの手を離す。
一瞬——彼女、ということになるのだろうか。僕はどっちかというと男だと思うから。その彼女のポヨがハートマークになったのを見て、僕は唖然とした。コドモチャオ相手に、というとなんだか卑猥だけど、まさにその通りだ。
チャオにはちゃんと繁殖期、というものがある。実際に見た事はないけれど、チャオ同士のポヨがハートになって周りに花が咲くらしい。花は咲かなかった。
冷静に分析しつつも、僕は自分のポヨが変化していないか気が気で仕方なかった。もしハートマークになってたりしたら、なんて罵られるか分からない。懸命にポヨが変化しないよう意識しながら、彼女が頬を朱に染めてぺこりとお辞儀をするまで、僕はじっと仁王立ちしていた。
「ほ、本当にすみませんでした。では……」
その言葉に何も返せなかったのは、予想以上に僕が動揺していたからかもしれない。
久しぶりに、先生以外のチャオとまともに喋ったから。
図書室のドアの前で、僕は立ち止まった。しばらく図書室にも寄っていない。最近では昼休みなどの空いた時間は勉強に使っていたのだ。
年齢が上がるにつれて、勉強はどんどん難しくなるらしい。実は義務教育の目的に、『チャオの知能計測実験』という面もあった。もちろん表沙汰にはされていないし、確証もないけれど。
どんと、左手に衝撃。僕は床に倒れ込んだ。思った以上に床は冷たい。目を開けてみると、前には同じクラスのチャオが数匹いた。
謝るでもなく、笑うでもなく、まるで物でも見るような目つきで、彼らは僕を見下して去って行く。
「なんであいつがここにいるんだろうね」
「死んじゃえばいいのに」
「近寄らない方が良い」
反撃の機会はあった。走って、言い返せばいい。やらなきゃ僕の気がすまない。でも足が震えていた。心の表面だけ精一杯反抗している僕がいた。
悪いのはあいつらだ。僕じゃないんだ。
僕が捨てチャオだから。
僕がハーフチャオだから。
1人じゃ何にも出来ないくせに!
彼らの話し声がすぎて、途端に辺りが寂しくなる。僕のポヨがぐるぐるマークになっているのが、自分でも分かった。今日はよくぶつかる日だな、なんて、頭の隅っこで考えて。
図書室にそっと入る。中には誰もいなかった。なぜかほっとして、僕は本を探す。学校の図書室は生徒のリクエストで次々と新刊が入ったり、もう手に入らない昔の小説が手に入ったりする。暇を潰すには絶好の場所だ。
ずらりと並ぶ新刊タイトルの中から、僕は金色の刺繍を施されたものを見つけて、手に取る。チャオ転生論。著者は千堂令。今日はこれを読もう。
近くの椅子に座る。チャオの学校とは言っても、人がまったく来ない訳じゃない。そういうとき、全ての家具がチャオサイズだと人が困ることになる。こういう椅子だったり建物だったりは、ほとんどが人のサイズに合わせてあるのだ。
だから椅子に座るときも、チャオはちょこっとだけ飛ぶ。柔らかい椅子に座って、表紙をめくった。
『チャオは愛なくして生きられない』
定説だ。チャオは寿命を迎えると、普通なら死んでしまう。けれど生前(少し矛盾するが、あえてこの言葉を使う)愛されていたチャオは、死なずにタマゴになる。生まれ変わるのだ。
最長寿のギネス記録は今のところ総計で43歳らしい。そんなチャオいるのか、と僕は思った。
『愛とは人からの愛に限らない』
僕はこの一文に興味をひかれた。今までは——どこにもそうと書かれていなかったにも関わらず——チャオは『人から愛されなければ』死んでしまう、と思っていた。
だけど、人からの愛に限らないということは、チャオからの愛情でも転生は可能、ということ……なのだろうか?
『精神的に限りなくヒトに近い成長をする現代のチャオに関しては、チャオ同士のコミュニケーションも可能である。故に、チャオ同士が愛し合ってさえすれば転生は可能なのではないか、と私は仮説を立てた』
読みふける。本の中に入っているような気分だ。文字を読んでいるだけなのに、自分が文字の中にいる。本とは不思議なものだと思う。
五時間目の始まりのチャイムが鳴ったのに、僕は気がつかなかった。
初めて僕は、授業を欠席した。
生まれて、初めて。
そんなふうなことを考えていたからだと思う。
目の前に誰かがいる、ということに気が付いたのは、本の後書きをじっくりと読み終わって、ぱたんとそれを閉じてからだった。
人の髪の毛みたいな2本の角に、幾何学的な模様が付いている。肌は白。ピュアチャオの、ヒーローオヨギタイプの子だ。
「……読書が、好きなんですね」
顔を俯かせながら、彼女(?)は消え入りそうな声で呟いた。昼休みにぶつかった子。僕は話し掛けて来てくれた事が嬉しくて、何度も頷く。
その様子が滑稽だったからだろうか。彼女は優しく微笑んで、くすくすと笑い声をこぼした。
余談になるが、この学校唯一の捨てチャオである僕は、学校の中ではちょっとした有名人だと言っても良い。もちろん悪い意味で。その捨てチャオに偏見を抱く人も、チャオも、たくさんいる。
何より僕はハーフチャオだ。色がついているし、その上から模様も付いている。他のチャオとは違うチャオなんだ。
彼女から話し掛けられた事は嬉しくても、その理由が全然分からなかった。僕は生まれてまだ3か月くらいしか経っていないけれど、短い間で『チャオは自分たちと違うチャオを生理的に嫌悪する』という仮説を立てている。
例外があるのかな。
彼女は何かを言いたそうにしていて、けれども口を開いては閉じ、口を開いては閉じ——ずうっとそれを繰り返していた。
どうしたんだろう。
なんだか僕は落ち着かなくて、ふと周りを見る。図書室の入り口に数匹、チャオが待っている様子だった。
「リース、早く行こうよ」
「あ、はいっ! ……あの、またお話しましょうね」
僕に出来たことといえば、戸惑って何度も頷くだけだ。たぶん、ものすごく不自然な態度だったろう。
恥ずかしくもあったけれど——それ以上に、嬉しかった。嬉しすぎて、だから忘れていたのだと思う。
僕は、学校内の嫌われ者だってことに。
図書室を後にした僕は、すぐにニュートラルチカラタイプのチャオに右手を掴まれた。体が固まる。地面に足がくっついたみたいに、僕の体は固まった。
やめて。
そう叫べたら何か変わるだろうか。
どうせ何も変わらない。
僕は1人で、いつだって僕が悪者扱いされるんだ。近寄っちゃいけない。言い返しちゃいけない。どうせこいつらは1人じゃ何も出来ないんだから。
1人でいる僕とこいつらは違う。
体が震える。
言い返せない。
動けない。
その目が、視線が怖い。
来ないで。
僕に関わらないでくれ。
お願いだから。
チャオの拳が僕の顔に叩き付けられる。4匹のチャオに囲まれて、僕はひたすら殴られていた。ポヨのぐるぐるを抑えることなんてできない。
最初のうちはやり返そうと思ったけれど、相手は4匹もいる上に、1匹はチカラタイプだ。勝てっこない。
なんで、なんで、と繰り返し疑問に思っても、相手はやめてなんかくれないだろう。自分でどうにかするしかないんだ。
「お前があの人と話すなんて、100年早いんだよ!」
ニュートラルチカラのチャオ。同じクラスのチャオ。僕に言う。殴られる。泣きそうになるのを懸命にこらえる。
あの人。リースって呼ばれていた、ヒーローオヨギの子だろうか。そうか、僕は誰かと話す事ができないんだ。やっちゃいけないことだったんだ。なんて、本当は思いたくないのに、誰かに助けて欲しくて、思う。
僕を殴る手が止まる。4匹とも集まって、地面に倒れる僕を見下ろす。
「こいつ、二度と学校来させないようにしてやろうよ」
「そうなるとセンコーがうるさいだろ。ぜってえこいつチクり入れるし」
「廃ビルに連れて行ってボコすか?」
「アホか。そんなことしたらバレんだろ」
コドモチャオじゃどんなに頑張っても、チカラタイプのチャオには敵わない。分かっていたことだった。
せめてヒコウタイプにでもなれれば、勝てるかもしれないのに。悔しさが溢れかえってきて、僕の心を内側からどん、どんと叩く。
「なんでお前みたいなやつがここにいるんだよ」
悪意。
言葉にすることができる。
それは悪意だ。
「なんでお前なんだよ」
僕がいない方がいいって、思ってるんだ。
どうして、僕ばかりが。
どうして僕だけが、こんな目に遭わなくちゃならないんだ——ただ、話していただけなのに。嬉しくて、喜んで。たったそれだけなのに。
みんなと違うチャオだからだ。僕は何にも悪くない。何一つ、悪くない。
「おい、お前! センコーにチクったらお前もあの人もただじゃ済まさねーからな!」
みんなと違うチャオだから、僕はみんなと同じ事をしちゃ、いけないのかもしれない。
しばらくして、僕を叩いていたチャオはみんないなくなっていた。空が暗い。どれくらいの時間が経ったのだろう。
体中が痛かった。周りには誰もいない。屋上。誰も来ない。
独りしかいない場所が、とてつもなく心地よかった。ここには僕を見下すあの視線も、僕を苦しめるあの言葉も、何もない。
アイツラは他の人から色んなものをもらっている。ずるい。ずるをしている。正々堂々と生きている僕とは違う。飼い主がいて、友達がいて、笑っている。僕が勝てないのは当たり前で、何もおかしいことなんかじゃない。
「エース、君……?」
頭の上の方から声がかかった。痛む体を無理に立たせ、僕はなんとか後ろを振り向く。
『お前もあの人もただじゃ済まさねーからな!』
僕とは関わらない方が、彼女のためだ。なんて、臆病な気持ちをごまかす。
それでも嫌われ者の僕に、こんなにやさしい彼女を、こんな目に遭わせる訳にはいかない。もしそんな簡単なことも分からない馬鹿だったら、それじゃあ、彼らと何も変わらない。
彼女が僕のせいで笑えなくなるのは、絶対にごめんだ。
表情は見なかった。どんな表情をしているのか分からなかったから。
「ごめん」
まるで僕じゃない、別の誰かが、僕の体を勝手に使って喋っているみたいだった。
謝る。どうして謝るのか。せっかく優しくしてくれたのに。話し掛けて来てくれたのに。それを裏切るようなことをするから?
僕は捨てられたチャオだ。増加しているとは言うけれど、この学校には僕しかいない。僕はハーフチャオだ。他のチャオとは違うチャオなんだ。
「どうして謝るの? エース君は何にも悪いことなんて——」
だから、彼女と話しちゃいけない。
彼女は普通の子だ。僕みたいな欠陥品とは違う。普通に暮らして、普通に転生するんだ。そうじゃなきゃ僕は許せない。
どうしてかは考えなかった。考える前に、体は動いていた。彼女の静止の声に見向きもせず、僕は校舎を駆ける。
生まれたのは保健室だった。生まれた途端、僕には親も飼い主もいないと言われた。もらったものはたったの1つ、名前だけ。最初はどういうことか分からなかったけど、まわりの話とか、学校の説明とかを聞いて、理解した。
クラスに入ったのは2月。僕が普通のピュアチャオと違う事に他のみんなが気が付いたのは、同じクラスにピュアの子がいたから。なんにもしらずに、僕は自分を水色ハーフだ、と言った。飼い主がいないことも言ってしまった。
初めはあんなに喋り掛けてきてくれた子たちも、いずれ僕から離れて行った。
みんなから向けられる視線の意味に気が付いたのは、3月の始め頃。放課後、楽しそうに遊ぶチャオたちを見ながら、僕はひたすら勉強していた。
嫌がらせを受けるようになったのは、いつからだろう。もうそれが当たり前になっていて、思い出せない。思い出したくない。
どうしてハーフチャオなんかに。どうして捨てチャオなんかに。僕は普通に暮らしたかっただけなのに。
僕は割り当てられた一室に戻ると、人工の木から生えている木の実を3つ取ってリュックにしまいこんだ。チャオサイズの布団もその中に入れる。
もう、こんなところになんかいたくない。
リュックを背負う。ここには色々な思い出があった。けれどそのほとんどは嫌な思い出。心残りはない。いや、唯一あるとすれば、彼女の優しさに報いることができなかったことくらい。
あと2か月もすれば夏だ。と言っても、まだ夜は冷える。僕は覚悟を決めて、走る。
「どこかにお出かけかい、エース君」
門を出ようとした時、後ろから声が掛かった。チャオにしてはやや重い声の主。たっぷりと白いひげを生やしたピュアチャオだ。
いつも朝礼や集会のとき、みんなの前に立って長い話をすることで有名な、校長先生。
校長先生と個人的に話すのは、生まれて以来、二度目になる。
僕は何も答えなかった。答えられなかった。
先生に『あの事』を言えば、彼女が嫌な思いをするかもしれない。かと言って言わないでいても、連れ戻される可能性がある。連れ戻されるだけならいいけれど、どこにも行かないように監視されると抜け出せない。
だから何も言えなかった。
でも、校長先生は何も聞かず、穏やかな表情のまま、頷いた。
「気をつけて行って来なさい。ただ、忘れてはだめだよ。君の家はまだ、ここなんだ」
驚かないでいられたのは、僕がもうここを出る決心をしていたからかもしれないし、校長先生が言う言葉を、あらかじめ予測できていたからかもしれない。
けれど二度と帰って来る事はないだろう。
帰って来たくもない。
僕は何も悪くないのに、僕ばかりが嫌な思いをするこの場所になんて。
それでも先生の優しさに答えるために、僕ははっきりと言った。
「……行って来ます」
この逃避行は、僕のための、僕だけの、僕にしか出来ない、僕が綴る物語だ。