第2話
「坊ちゃま、塾のお時間です」
「えっ?あ、うん」
もうそんな時間か。
時計の針は、八時四十五分を指していた。
塾へと向かう、田中がハンドルを握る車の中。
「坊ちゃま」
「うん?」
「先程の曲は、ドビュッシーでございますか?」
「うん。そうだけど…田中、気づかなかった?もう、三ヶ月もやってるよ」
「すみませんでした。あの部屋は、大変な防音性がありますので」
「ふぅ~ん」
気付か無かった。あの部屋に防音性があったなんて。まぁ、知ろうとしなかった訳だけど。
「大変、上手でしたよ」
「あ、うん。ありがと…」
そんな何気ない会話にも、車が目的地に到着すると同時に、終止符が打たれた。
「終わったら連絡するよ。多分、いつもより遅くなると思うから」
「分かりました。では」
「今日もか…面倒…」
この頃は、毎日のように塾続きだ。
受験って、そこまでしないと駄目なのか?
季節は初夏。
時折、蝉の鳴く声が聞こえる。
伊藤啓作その人は、数時間後に待ち受ける、出会いを知る由もなく、重い扉を開け放つ。
−−−続