第1話

一人の少年は、今、黒と白の鍵盤が並ぶ楽器の上で、両手を動かしている。

「啓作君。そこは、リタルダンドです。ア・テンポではありませんよ」
「すみません」
「では、ここからもう一度」
「はい」


一つの曲を完成させるのに、今までこんなにも時間が掛かった事があったか?


彼は、指を忙しく動かしながら思った。


そういえば、これ、ドビュッシーの曲だっけ?


彼の指が、ドビュッシー特有の甘美なメロディーを奏で上げる。


確か僕、前にもドビュッシーで、引っかかってたな。

曲調が変わり、先程先生に注意された箇所に入る。


リタルダンド…だったな。


「良く出来ました」
「はい。ありがとうございます」
「では、次回はドビュッシーの音楽理論を学び、それを踏まえた上で、この曲を最後にしましょう」
「はい」
「では、また来週」
「ありがとうございました」
「はい。爪は切っておいて下さいね。さようなら」
「あ、はい。さようなら」

最後のは、先生の口癖だ。
でも、まぁ、そろそろ切ってもいい頃かな。


塾が始まるまで一時間ある。


「とりあえず、練習しとくか」

リタルダンドを忘れないように。


リタルダンド。
これ以降は、曲をだんだんゆっくり、滑らかに奏でるよう指示する音楽記号。


ドビュッシーの曲は、まるで啓作の今日一日を、まだ終わりを迎えそうもない長い一日を表すかの様に、彼の指によってゆっくりゆっくり奏でられていた。


−−−続

このページについて
掲載日
2010年3月28日
ページ番号
10 / 17
この作品について
タイトル
振り返れば、あの日と同じ坂道
作者
チャフカ(エキドゥナファン)
初回掲載
週刊チャオ第328号
最終掲載
2010年5月16日
連載期間
約1年10ヵ月19日