<32> 黒い背中
Final dash <32> 黒い背中
「こっちっすよ、ちょっと急ぐっす」
Mealに手を引かれ、大小さまざまの足の間を通り抜けてゆく。
「何かアドバイスは無いのか?」
「勝てばそれでいいっす」
「・・・勝つためのだよ」
「じゃ、走るっす~」
駄目だ、話にならない。
開幕式はもう始まっている。 一番最初の出走となるので一足早めに控え室へ向かうことになっているのだ。
青いペイントの少し重そうなドアを、さすが、Mealは軽々とあけてみせた。
「先輩、連行完了っす~」
各色さまざまのチャオたちと、その事務所のスタッフたち。
観客席の下にあたる部屋だが、騒々しい歓声は聞こえない。
守越は持っていたコーヒー缶を適当に放り投げて、振り返った。 見事、缶のゴミ箱の穴にすっぽりカップイン。
「コースは覚えた?」
「ばっちり。 傾斜も見ておいた」
「へー、早いねぇ」
機嫌良さそうに応えると、俺と同じ目線の高さまでしゃがみこむ。
ちょっと回りを気にして、耳元にささやいた。
「番号6番、黒いやつ。 気をつけてね」
「は?」
「あれ、あの年下っぽいの」
守越の指し示す方向を見ると、一次進化して少し経ったくらいだろうか、一匹で大人しく長いすに腰掛けている真っ黒なチャオが居た。
気をつけるって? 可愛げがある小さな男の子にしか見えない。
「コース覚えてるんでしょ? 君は3番だから、直進すると最初のカーブはイン?アウト?」
「えーと・・・イン側?」
「そう。 そのポジションをしっかり守って、とにかく彼だけでも抜くこと。 そこと終盤の270度カーブでしかチャンスは無いと思って良い。 他のカーブではゆる過ぎるからね」
「そんなに? どうして─」
そのとき、入ってきた方とは反対側の扉が開いた。
人間の男が一人、姿を現す。
「各選手、スタートラインへ準備して下さい」
チャオたちが扉へ向かっていく。
俺は行く前に少し振り返ったが、
「詳しいことは、走ったら分かるっすよ~」
まあ、そんなことだろうと思った。
手を振って、俺も後に続く─
青空の映える、満員の場内。
気の早いサポーターたちが、余興にと新人たちに歓声を送る。
やばい、緊張してきた。 これが緊張ってやつだったのか。 そうか・・・
長年緊張感が無いと言われてきたが、やっぱり無い方が楽で良いじゃないか。
スタート地点の地面に八色のパネル。 右手から数えて三番目の上に立つ。
八匹全員がそろったところで、ちらりと左の方を盗み見─さっきの、黒いチャオ。
おそらくこの中では一番若いチャオなのだろう。 そして一番落ち着いた様子であるのも、彼だ。
「第一走者─ゼロ、オッズ2.5。 第二走者─・・・」
唐突にアナウンスが入る。
第一走者が観客席の一角へ手を振ると、十数人の団体が応えた。
第二走者にも応援が居たようだが、まるで耳に入っていないかのようにただ前を見据えている。
そして─
「第三走者─Gale・Runur、オッズ2.5」
体に弱い電撃が走ったかのような、妙な気分。 余計に俺の緊張を増幅させる。
観客席の、上の方─守越のレース事務所の一団はこっちに声援を送るのが微かに聞こえた。
手を挙げて応えると、目が良いほうではないが─Liltaの姿を見つけた。
このレースで一意を奪取すれば、すぐにでもAlfeetを探しにいける。
その、一番の壁は─
「第六走者─Charles・C・Aress、オッズ2.5」
Charles─この国では珍しい名前だ。
どこかで聞いたような名字だが、同姓の知り合いか有名人が居ただろうか?
どうやら彼は一匹だけで来たらしく、控え室に居たときと変わらない様子で手を組んで待っていた。
「以上、走者は全八匹。 本レースは新人戦のためオッズは2.5、特別払戻しはありません。 全走者、位置について」
クラウチング。
足場は芝生─土じゃなくて良かった、裏路地のように砂埃が目に入るのもいい加減勘弁して欲しかったのだ。
カウントが鳴る。 3,2,1─
走り出すと同時に、0を示すサイレンが鳴った。
耳を覆いつくすような大きな音、しかし俺は聞いてはいなかった。
周りの、色とりどりのチャオを抜いていく。
強いダッシュで、間を縫うように、軽々と。
同じ事を考えているのか、いきなり飛ばしてくるチャオも数匹いたが、誰一匹として俺についてこれていない。
─なんだこれ、面白いようにうまくいってる─
最初のコーナーが見えてきた。
暫定一位、守越のいう通りここをカットで抜ければひとまず安心して良いだろう。
地面と体の軸の角度を急にし、ややコース真ん中よりからカーブ角度200度以上を付けて、地面を蹴る。
壁を蹴ったような感覚─風斬式のカットにも随分慣れた。
着地して、前方を見直す─
─目を疑った。
黒い、小さな姿。 第六走者、あのチャオだ。
まさか、いつのまに抜かれていたなんて─カットのときか、それとも、最初から?
─「走ったら分かるっす~」・・・嘘つけ。 ちっとも訳が分からない。
差は3メートル─睨みつける様に、その小さな背中を追う。