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この話は至極簡単な逃走劇の一部だ。
なぁに、そんなたいそうな逃走でもない。
ただ、若い男女二人が、
チャオを取り締まる社会から、自分のチャオを抱いて、
逃走している。それだけさ。
『ESCAPE』
1
ナンセンスな目覚ましの音から、今日の一日は始まる。
男は枕から頭を起こした。
窓を開けると、涼しい風と、穏やかな光が彼を通り抜ける。
―どこへ行っても、これだけは変わらないな。
先週彼らはラスベガスにいた。
ルート777のヘブンスルートを走り抜け、
警察の蜘蛛の巣のような網の目を縦横して進み、
結果的に、今はニューヨークの一般的レベルのビジネスホテルで、
くつろいで…いや、短すぎる休息をしていた。
と、彼の隣にいた女も枕に埋めていた顔をあげる。
大体30程度に見える男の見た目とは違い、
彼女は10代と言っても過言ではない雰囲気を醸していた。
「…あ、起きてたの?」
「まぁな。…安心して朝寝は出来ねぇよ。」
「昨日の夜はあんなに夜更かししていたのにね。」
「へへ、悪いな。昨日は。あんなに起こしてしまって…。」
「いいよいいよ、一週間走りっぱなしだったし…。
私に出来ることは「あれ」くらいだし…。」
「…ん?それはねぇな。お前かって役に立っているさ…。」
男はすかさずフォローを入れたのだが、
どうやら不十分だったようだ。
女は少し半開きの目で彼を見る。
「あれ」のとき、彼を誘う目も、こんな感じだった。
「へぇ…具体的に?」
「具体的に…ってな…まぁ…言うならば、
お前がいなけりゃ、俺はこの逃走は出来ていないことだな。」
「何それ?…ま、いいや。ん…。」
男は女の顔を近づける。
そして…また逃走の一日が始まるのだ。
2
ナーバスなマインドをコントロールするのは難しい。
あるいは、日々の感情をバランス良く保つなんて、ムリだ。
そう言うことを、男と女は子供の時知った。
男は元々いじめられていた。
いじめられる理由は外見では見あたらなかったが…、
しかし、殴られ、蹴られ、机は黒板消しの粉、
「トイレ飯」と言われるように、
彼は給食の時代でさえも、一緒に食べる相手はいなく、
トイレで寂しく食べていた時もあった。
そして、高校の時、化けた。
ある日、帰り道を―高校ではもう友達も恋人も出来ていたが、
中学生の時の奴らが彼を見つけた。
そしていきなり、缶ジュースを彼にまき散らした。
彼らはこういった。
「おい、お前、俺のジュース、こぼれたじゃねぇか。
謝れよ、あと、新しいのを買えよ、おら、早く金出せ。」
彼らの目線は昔から、変わっていなかった。
しかし―
「お…おい、てめぇ!」
男は違っていた。
まず、因縁を付けてきたヤツを歩道で殴る。
蹴る。股間にもすかさず足を入れる。
彼の嘲笑の表情は即行で歪み、
男の後頭部への拳で彼は地面に伏せた。
後ろにいた二人はあまりの惨状に目を疑ったが、
自分たちから因縁を付けただけあって、
逃げるわけにも行かない。
男はにやりと二人を見た。
二人はその時、覚悟していたかもしれないが、
一斉に掛かっていった。
その夜。ニュースが流れて、
彼は黙ってそれを見ていたのだが、
その中に高校生男子が歩道で「死傷」とあった。
―「死」傷?
次の日から、彼は殺人犯となった。
高校は無期限の停学―退学処分がだされ、
友人や恋人には「理由を付けずに」別れた。
彼らはあのときは笑顔と悲しい顔だった。
ただ…
今はあのときの中学の同級生みたいに、
嘲笑に歪んで、自分を思い出しているのかもしれない。
彼は殺したはずなのに、
何故か罪悪感は浮かばなかった。
その代わりに残ったモノは、
かすかなすがすがしさと、大きな傷心だった。