11 偶然にも最悪な少年
いつも、あの声で目を覚ます。
一月八日。七時六分。
父親の怒声と、母親の怒声。家の隅々まで届くその声が、自分を雁字搦めにする。
隣にあるはずの姿は無い。
失ってしまったもの。
しかし誰のせいでもない。何かに責任を押し付けることは出来ない。かと言って自分で背負うわけでもない。最初からいなかったことと何ら変わりは無いのだ。
現実を疑うほどの危機は去った。
聞こえるのは声だけだ。
銃声も、奇妙な声も、なんだかよく分からない現象さえも、自分の前から消滅してしまった。
その体験を共有しているはずの仲間には、二度と会うことができない。
全てを忘れてしまう道を選ぶことも出来た。だが、自分が選んだのは今だった。
恐らく、あのとき手にしていた力を使えば世界を変える事だって出来ただろう。
それこそ、自分の思うとおりに。
でも、それはしなかった。
誰も望んでいなかった。
いや。
自分が望んで選んだのだ。
かけがえのない、けれど無価値な現実を。
『九割』の支配する世界を。
エモのいない世界に。
戻ってきた。
自分にかかっている布団を剥いで、立ち上がる。カーテンを開けて眩しさに瞼を閉じる。
きっともう二度とあの力を手にすることは無いのだろう。世界を変えることの出来る機会にも恵まれないのだろう。
眼鏡をかける。
世界が美しく見えたりなどしなかった。
何一つ変わっていない。
「 」
あの声が聞こえて来る。
もう目は瞑らない。この耳が声を聞き逃すこともない。
そして、あの声が聞こえるのも。
恐らくそう長くは無い。
着替えを済ませて、登校する仕度を終わらせてから、大きく深呼吸する。
エモはいない。
たった一人の家族は消えた。
跡形もなく。
それは記憶になった。
だけど、自分は欲しいのだ。どれほど手に入れ難いものでも、欲しい。あたたかな家。どこにでもある家庭。家族。
そして、まだ手に入れることが出来る。
ドアを開けた。
さらにドアを開ける。
視線が集まる。
声が止まる。
「父さん、母さん。話があるんだ」
11 偶然にも最悪な少年
車通りの多い道を自転車で駆ける。
頬が強烈に痛んだ。
道行く人が自分を奇妙な視線で見る。殴られたとはいえ、そこまで酷い顔にはなっていないはずだ。だとしたらなぜか。ああ、なるほど、一人で笑っているからだ。
今からどれだけ急いでもどうせ遅刻である。
けれど急ぎたい気分ではあった。
学校に到着した。
二年二組を目指す。遅れて来た和利を訝しげな視線で見る。構わない。
「遅れました」
無言で席を示される。
窓際から二列目の後ろから三番目、それが和利の席である。教室に設置されたテレビに注目が集まっていた。
ジュエルピュア誕生祭。
チャオ・フェスタ。
そう表示されている。
愕然としかけて、なんとか持ち直す。
アナウンサーが歴史的な日がどうの、チャオの革新がどうのと言っているが、和利の目はテレビの中央を捉えていた。
誕生祭がなぜ一月八日になったのか。
そもそもどうして一月八日になっているのか。
なんてことは些細な問題である。考えたところで凡人である自分には分かるはずも無いし、分かろうとするつもりもない。
問題なのは、ジュエルピュアだ。
ちゃんと生きてくれているのか。
どうしているのか。
元気なのか。
『それではご覧いただきましょう! 世界初、ジュエルピュアの——』
どよめきがテレビ越しに聞こえた。
クラスにもそれが伝染する。
いないのか?
『えー、ただいま入った情報によりますと、ジュエルピュアが、え? 脱走、したそうです。関係者はただちに捜索するとのことで』
驚きの声が周りから上がる。
和利は思わず笑いそうになって、辛うじてポーカーフェイスを保った。あれだけ怖かったはずのジュエルピュアが、ただのチャオに思える。どうしてだろう。
もしかすると、記憶がなくても心はそのままなのかもしれない。
それか、今の今まで体験してきたことは全て夢だったのかもしれない。
そんな馬鹿な話があるか、とは言いたくなったが、そんな馬鹿な話を体験して来たのだから手に負えない。
何が起こっているのだろう。
ジュエルピュアがどうして脱走したのか。誕生祭が一月八日になったのはなぜか。
それを知る由はないし、もう自分には何の関係もないところで進行していることだ。
「そりゃあ脱走するよなあ」
誰かが言った言葉が、いやに耳に残った。
「おーい、浅羽! 大ニュースだ、大ニュース!」
放課後、図書室に向かった和利を止めたのは先輩だ。
受験生として忙しいはずの先輩はやけに陽気な表情で和利の背中をばしんと叩いた。
「ジュエルピュアが脱走したんだってよ! いやー、フェスタに行ったやつは残念だったな!」
「チケットが獲得できなかったからって僻まないでくださいよ」
「ははは。あれ? そういやー、お前のところ、チャオいなかったっけ?」
驚きそうになったが、それを溜息に変えて、和利はなんとか誤魔化す。
「いないですよ。気でも狂ったんですか」
「いや、そうだよなあ。チケットを手に入れたって話を聞いた気がするんだけど、あれ?」
どうなっているのか、自分にはさっぱりだった。だが、今更である。仮想現実システムと関わり合いになる機会は二度とない。
今、世界に何が起こっているのかなんてことは、自分が考えることではないのだ。
自分が考えるべき事は自分のことで、それでいい。
「浅羽?」
「なんですか?」
「お前、なんか変じゃないか?」
ふっと吹き出して、和利は笑った。
「先輩こそ、エンジェルアイランドを探す旅はどうしたんです?」
「なんだそりゃ? エンジェルアイランドなんてあるわけねーだろ。気でも狂ったか?」
そうだよな、と和利は思って、首を横に振る。
エンジェルアイランドなんてあるわけがない。そのエンジェルアイランドの中に六本の柱なんてあるわけないし、緑色の宝石なんてあるわけないのだ。
人工衛星の奥深くにカオスエメラルドが存在している、なんてのは夢の中の話で、現実にそんなものがあるはずもない。
きっとそれが現実で、あれは結局、仮想現実だったのだろう。バーチャルリアリティ。リアリティの高い体験だったというだけで、それ以上の意味は無い。
「あー、でも、エンジェルアイランドかあ。あったら面白そうだな」
「そうですね。バイクに乗って探せば、先輩ならきっと見つかりますよ」
じゃあ、俺はこれで、と背を向ける。
手を振り上げる先輩に、和利は少しイタズラを思いついた。
「先輩」
「あ?」
「これから離すのは独り言です。独り言なので、返事はしないで下さい」
ぽかんと口を開けている先輩に、そっくりそのままあの言葉を返す。
「人の持つ最大の武器はその適応力です。自分に疑問を持ったり、他人に疑問を持ったり、そういう自分に慣れすぎると、二度と元には戻れないそうですよ」
「なんだそりゃ? 格言か?」
「俺の知ってる人が言ってました。それじゃ」
まるであのときの先輩はなかったことのようになっている。
本当に夢だった。そう考えた方がわりと現実的かもしれないなと、和利は思った。
『九割』の談笑が放課後の学校のあちこちで聞こえる。
その中に————の姿があった。
違う標的を見つけたのだろう。————は和利に目もくれず、談笑を続けた。
おかしな奴らだ、と思った。
でも、自分が彼らと関わることは恐らく永遠にない。
自分は自分のことで精一杯なのだ。
だからこれが多分、一番の正解で、誰もが望んだ道だったのだろう。
————の後姿から目を離して、和利は背を向けた。
帰り道。
自転車を押して歩く。
たそがれたい気分だった。
頬の痛みが大分収まってきたのを感じとる。
家族を取り戻す旅は長そうだ。
先輩ももうじき卒業する。
だけど、自分で選んだことだから。
孤独だとしても諦めるわけにはいかない。
雪の降りそうな天気なのに、雪は少しも降らなかった。ムードもへったくれもないなと笑う。
午後からは大雨だそうである。
雪じゃねーのかよ、と和利は一人ごちる。
自分が望んだものはなんだったのだろうか。
無力な自分を変える事だったか。『一割』になることだったか。エモを取り戻すことだったか。家族と笑いあうことだったか。その全てである。
何か一つを諦めることはない。
それが自分のしたいことなのだ。だから仕方ない。誰が傷つこうと、誰が犠牲になっても、自分を止めることは出来ない。
強いて言うなら、もう一度。せめて、別れの挨拶だけでも。
エモに会えたらなあ。
そう思った。
「え?」
声が聞こえる。
いつの間にか周りには誰もいない。
自分を呼んでいる。
この感覚には覚えがあった。マスターエメラルドに呼ばれたあのときと一緒だ。いや、違う。気のせいだ。和利は戸惑って、後ろを振り向く。
チャオが浮かんでいた。水色に光る体は、確かにジュエルチャオのものだ。手の先、頭の先、足の先が有色半透明に変色している。他のチャオとは体の形が大きく違っていた。
天使のわっか、燃え盛る炎を模したポヨ。
表情のない表情。
ジュエルピュアである。
彼は背を向けて、空を駆け始めた。
来いってことだろうか。
和利は自転車に飛び乗ってジュエルピュアを追いかけた。
ぽつりと雨が顔に当たる。
今日はついていない。
いや、ついているのか。
どちらにしろ色々起こる日だ。
そう思って、ペダルを漕ぐ。
懸命に漕ぎ続ける。
景色が変わって、雨が強まる。
風が出てくる。
ジュエルピュアの背中を追いかけ続ける。
珍しいチャオの姿に注目が集まる。
なんだろう、あれ。
なにかな、なにかな。
もしかしたらジュエルピュア?
そんな声を飛び越えて、走る。
「つーか、自転車よりはやいってどういうことだよ」
ジュエルピュアに向かって言ってみる。
返事は無い。
走り続ける。
電車と並走する。
雨がさらに強まる。
記憶はないはずだ。何にも憶えてないはずだ。思ったが、どうでもよかった。確かめるすべがなかったのもそうだし、確かめたところであまり意味は無い。
次第に日が暮れて来る。
足が鉛のようだった。
「お前は飛べるからいいよな」
ジュエルピュアに向かって言ってみる。
目的地は見えない。
霧がかかっている。
どこかで見た景色になって行く。
段々と向かっている場所がはっきりして来る。
チャオフェスタの会場。
人ごみが見えてきた。
ごくりと生唾を飲み込む。
ジュエルピュアが止まって、そのジュエルピュアに気づいた人がちらちらと盗み見る。
自転車を止めてジュエルピュアに駆け寄ると、彼は無言で歩き始めた。
そのあとに続く。
ジュエルピュアの異様な空気に圧倒された人たちが、道をあける。
「ジュエルピュア?」
「ジュエルピュアだよね?」
「今、ジュエルピュアが、ジュエルピュアが戻って来ました! え? 後ろから誰か、人です! 男の子を連れてきています!」
居心地の悪さを感じつつも、和利はジュエルピュアの後に続く。
舞台の裏側に入って、白衣を着た男たちの罵声をくぐって、奥へと進む。
「君、関係者以外は立ち入り禁止だよ!」
そう叫んだ男が、帽子を被った男に止められるのを見て、和利は何が起こっているのかいよいよ分からなくなって来た。
ジュエルピュアは、何をしようとしているんだろう。
階段を下りて、地下へと進む。
この光景には見覚えがあった。
マザー・コンピューターである。
仮想現実システム。
それが目の前にある。
「君の愛が本物かどうか、確かめたくなったんだ」
ジュエルピュアが初めて口を開いた。
その口ぶりはまるで、全てを憶えている様で、和利は思わず身を引いてしまう。
「君の望むものがなんなのか——見てみたくなったんだ」
ジュエルピュアの目が、和利を試すように見る。
「そうか」
独りでに納得して、ジュエルピュアが目を閉じた。
マザー・コンピューターのモニターに表示された図形が変化して、人の形をかたどる。
光。
あたたかな光だ。
部屋中に溢れる光が躍るように舞って、一点に集中して行く。
和利は自分がここにはいないような、そんな錯覚を覚えた。
これは夢なんじゃないか。
これは仮想現実なんじゃないか。
でも、頬の痛みがその疑問を忘れさせる。
これは現実だ。
「あとは君の好きにするといい。元々これは、君の望んだことなんだから」
「どういう?」
光が形をつくる。
和利は目を見開いた。
意識は確かにある。
殴られた頬がやけに痛む。
それが自分に現実感を与えてくれる。
声が聞こえる。
あたたかな声だ。
自分がずっと欲しかった声。
本当の、本物。
たった一人の家族がいた。ずっと一緒で、ずっと一緒だと思っていた。
たった一人、自分を助けてくれた人がいた。自分が目指す場所に立っている人がいた。
そうして今、たった一人だけではなくなる。
たった一人で生きていくことは、なくなる。
なくなるんだ。
だから、これを俺が忘れることは、恐らくきっと永遠にないだろう。
和利は笑って迎える。
「 」
浅羽和利、十六歳。
一月八日の出来事である。