9 天国はまだ遠く
今まで、とても長い夢を見ていたのだろうか。いや、そうではない。
今まで、ずっと嫌な事ばかりだったのだろうか。いや、そうではない。
エモがいる。
エモがいて、他には何もいらない。
その生活がずっと続く。
永遠。
自分はエモと一緒に生きていけばいい。これをジュエルピュアは偽りの愛だといった。単なる依存。
そうかもしれない。
チャオは『九割』ではないと無意識に思っていた。だから自分の依り代としていた。間違いではない。
自分はエモを愛してはいなかった。
好きではなかった。
逃避先として。
嫌なものから目を逸らした、その先に。
それがあっただけだ。
ジュエルピュアの言っていることは間違いではない。
では自分は一体何を愛していたのだろうか。何を求めていたのだろうか。
分からない。
ただ嫌だった。
目の前の現実を見るのが嫌だった。
それは自分とは無関係に起動し、無関係に消失され、無関係に再起動する。
だからこれはきっと、俺のせいなんかじゃない。
俺は何も出来なかった。
間違ってなんかいなかった。
他に方法はなかった。
自分のことしか考えていない『九割』に対して、自分が出来ることは、何一つなかったのだ。
それはいい。
でも、それとこれとは別の問題だ。
確かに『九割』は平気な顔をして他人を貶め、自分の利益の為だけに行動して、困れば他人に助けを求める。矛盾している。納得が出来ない。そして、その中に自分もいる。
その『九割』は『一割』を貶す。あたかも『一割』に原因があるかのように見せかけて、自分の欲望を満たしているに過ぎない。
でも、それとこれとは別の問題だ。
何がしたいのか。
何をしたかったのか。
何が欲しかったのか。
何をして欲しかったのか。
嫌なことはいい。現実が納得できなくても、自分が無力で、それを変えることさえ出来なくても、そうして行き着いた先が自分の望むものでなくとも。誰かを傷つける結果になってさえ。
自分のしたことは間違っていなかったと思えることさえ出来れば、たぶん、いいはずだ。
俺が求めているのは、辛い思いから努力によって脱却する感動の物語ではない。天才が勝利を収めていくだけの、エンターテイメントでもない。
どこまでも自分の正しいと思っていることが成る、ご都合主義の結末だ。
視界が移り変わる。
意識が蘇る。
死んだと思ったが、それは間違いだった。地面に足がついている。暗い空が見える。風が冷たい。体中に錘がつけてあるみたいに、立っているのが辛かった。
だが、まだ歩ける。多分、生きていて、どうにか出来る。
目の前に岩があった。岩の柱である。目を凝らすと、あたりに同じような岩の柱が立っていた。
六つ。
どこかで見た光景だった。神聖な空気。六つの柱は、中央の高台を囲っている。
人工衛星。
カオスエメラルドがあった場所。
同じような。
「カオスエメラルドはチャオを守る為に生まれ、誰かの欲望によって奪われた」
懐かしい声を、風が運んで来る。
「エメラルドは願いを叶える石じゃなくて、願いに反応して力を与える装置ってわけだ」
思わず眼鏡をかけ直して、歩いて来た男の姿を確認してしまう。
「どうやら、俺には触らせてもくれないみたいだぜ、後輩」
どうしてここに、と聞く前に、和利は気が付いた。人工衛星にあった六つの柱とその中央に座した高台と、カオスエメラルド。
今、目の前にあるのも、恐らくは。
高台の中央。淀んだ思いを、抱いた不安を全てかき消すような光を放つ、宝石。
「カオスエメラルド、ですか?」
「いいや、違う。マスターエメラルドだよ」
煤けたジャケットの中から小さな宝石のかけらを取り出して見せる。
「この島の守り神さんが言ってた。もう消えちまったけどな」
島。その言葉を聞いて、和利は自分がどこにいるのかを確信した。カオスエメラルドなんてものが本当にあった今、実在しても不思議ではない。
浮遊する大陸、エンジェルアイランド。巨大な柱を内包する遺跡。
「マスターエメラルドはカオスエメラルドの力を抑えることが出来る。しかも七つのカオスエメラルドの力を、だ」
ぶんと、耳にノイズが響いた。
「え?」
「だから、マスターエメラルドは」
「いや、そうじゃなくて」
和利は戸惑った。
名前を呼ばれている。先輩の声に重なるようにして、何度も呼んで来る。声が響いている。先輩には聞こえないのか。聞こえないみたいだった。
どうして呼ばれているのか。考えるだけ無駄だろう。体は重たかったが、不思議と足取りは軽かった。
「おい、浅羽?」
高台の階段を上る。一段、一段、ゆっくりと。
誰が、呼んでいるのか。
その声に聞き覚えはない。だが、どこか聞いたような、記憶の隅に引っかかっているような。記憶になくとも、耳が憶えている。そんな声色が響く。
「君が呼んでるのか」
光の波が、景色を染める。燃え盛る何か。見たことも無い武装した生物。倒れ伏せるチャオたち。その中で一人、立ちはだかる姿。
その中央には緑色に光を放つ石が安置されていた。
声は聞こえない。何が起こっているのかも分からない。しかし、不思議と伝わって来る。憎悪だ。怒り。誰のものかは分からない。
景色が渦に飲み込まれ、元に戻る。
目の前にある緑色の石。マスターエメラルド。
光の波が再び景色を染めた。水の怪物が光に貫かれる。チャオたちが喜んで小さくなったその怪物を迎える。憎悪はなかった。安心に満たされている。
これは記憶だ。
誰のだろう。
エメラルドの?
光が収束する。元の景色。一体何を伝えようとしているんだろう。水の怪物。憎悪。燃え盛った景色。チャオ。そして、安心。
「青いハリネズミは、優しさによってエメラルドの力を引き出した」
自分の口が、自分の意識とは無関係に言葉をつむぐ。
「水の怪物は憎悪によってエメラルドの力を引き出した」
分かって来た、気がする。
きっとエメラルドの使い方を教えてくれているのだ。
間違った道を選ばないように。
ちゃんと正しい方向へ導いてくれているのだ。
「大丈夫だよ」
記憶が走馬灯のように駆けて、消えて行く。ながれゆくもの。エメラルドの記憶。二度と繰り返してはならない歴史。
「分かってる」
和利はエメラルドを手にする。
偶然だろうか。ここで和利が呼ばれたことは、果たして偶然か。誰かが仕組んだことなのか。それは分からない。考えようも無いことだ。
でも、偶然にも空はまだ暗い。
そして、偶然にも自分はまだ生きていて、走る事だって出来る。
手の内には偶然にも絶対的な力。無償の暴力。世界すら滅ぼすことだって出来る、そんな力の塊がある。
何をしたいか。
何を望むのか。
それに応じて、エメラルドは力を与えてくれる。
「先輩は間違っていましたよ」
あれだけ重かった体が、雲のように軽い。
苦笑して待ち構える男に、和利は面と向かって言い放った。
「いくら人が適応力に優れているとはいえ、変わることは出来ます」
求めるものは、ただひとつ。
自分の思ったことが、全て実現する、そんなご都合主義の結末だ。
9 天国はまだ遠く
「大丈夫ですか、フィールさん」
ブラウンカラーの外套をはらって、フィールが立ち上がる。既にジュエルピュアの繰り出す攻撃は赤黒い煙などというレベルではない。
単なるエネルギーの放射である。
それが形となって、衝撃波となって、牙をむく。
「データベースに存在しないのは何故だ?」
ジュエルピュアがマザー・コンピューターを指して言った。
宝石のかけらを手に、フィールは眼鏡をついと上げる。その背後には愛莉が息苦しそうに蹲っていた。
「そうだな、恐らく今の俺は救世主といったところか。元の世界へと繋がる列車の車掌ともいえるかな。なんてポエマーなんだろう、俺」
「余裕そうじゃないか」
エメラルドが光を放射する。とっさに浩二が動いて、その光を鉄塊で物理的に防ぐ。
「そろそろ止めたらどうだ?」
フィールが尋ねる。ジュエルピュアは表情のない顔を歪ませて、怒りを露にした。
「そろそろ止めろと、一体なぜ今になって言うのか」
ぴたりと動きが止まる。
「ジュエルピュアの実験を、チャオをおもちゃのように扱う実験を止めるものは一人もいなかった! 人の利益のために! 人の都合で! 僕の話が聞き入れられることはなかった!」
誰も、何も言わなかった。反論が出来なかった。間違ってはいない。ジュエルピュアはそもそも間違っていないのだ。
こうして世界を元に戻そうというのも、人の身勝手な都合だといえる。
「でも」
愛莉が言う。
「だからって同じ事をやり返して良いって理由にはならないよ」
「AIの分際で人のようなことを言う!」
ジュエルピュアが吐いて捨てるように言った。
フィールの表情が苦悶に歪む。カオスエメラルドは無限のエネルギーである。ジュエルピュアはそれを七つ手にしているのだ。元が機械知性である浩二と愛莉はともかく、フィールは疲れを隠せない。
「もう止めないか、ジュエルピュア。俺はお前が嫌いじゃない。お前が正しいとも思ってる。確かに人は身勝手だ。だけど、それとこれとは別の問題なんだ」
「どこが別の問題なんだ? それを決めるのはお前たちじゃない、僕だ!」
光が放射する。赤い光。全てを破壊するエネルギー波。同等のエネルギーをぶつけてフィールが応戦する。しかしカケラとエメラルド七つでは勝負にならない。あがくのが精一杯だった。
「お前たちはいつもそうだ。被害者面して、自分がいつも上の立場にいるつもりになっている。他人を平気で否定しておきながら、その他人と同じことをする!」
反論は無い。
「間違っているか? 間違っているなら言ってみるといい」
反論は無い。
「お前たちは疑問さえ抱かない。抱いたとしても、正そうとすら思わない」
反論は無い。
「そんなお前たちだからこそ、永遠にそのまま変わりはしない。ならば、僕が正してやろう。身勝手には身勝手をもって制する他ないのだから」
反論は無かった。
——代わりに、まばゆいほどの日差しに陰りがさす。太陽が雲に隠れてしまったような、巨大な影が崩壊した会場の一面に投影される。
不思議に思ったのは愛莉だけだった。
愛莉は空を見上げる。
影が浮かんでいる。
影ではない。
影ではない何かが空に浮かんでいる。
「浅羽くん?」
フィールが驚きのまなざしで振り向いた。
ジュエルピュアが異変に気が付くことなく、カオスエメラルドの力を凝縮させて行く。
『とどめの一撃』。
呼称するならば、そのような名前になるだろう。
「お前たちが身勝手でないというなら、どうして」
エネルギーが渦を為し、渦が渦を纏い、巨大な渦を形成する。
「僕が何の為につくられたのか——答えてくれる人は、誰もいなかったんだ」
エネルギーの渦が放出と同時に、消滅する。能面のようなジュエルピュアの表情が、もし変わるなら、驚きに変わったことだろう。
それほど唐突に消えてしまった。
何の脈絡もなく。
何の介在もなく。
消滅した。
同時にカオスエメラルドの光も途絶える。
「なんだ、何をした!?」
答えは、なかった。
「たまには役に立つじゃないか、先輩!」
マスターエメラルドの輝きが増す。和利の手の内で、それは光り輝く。浮遊する大陸を、自分が願う場所へ導いていく。
和利は先輩の乗るバイクの荷台に飛び乗った。
「衝撃に備えて置けよ。この高さから飛び降りたら普通死ぬからな」
「恐らく大丈夫です。俺がなんとかしますよ」
「調子にのんな。行くぞ」
エンジンが高鳴る。風を切って、バイクは大陸の坂を上る。空へと飛び立つ。
浮遊感が体を包んで、必死でバイクに掴まる。一気に会場まで駆け降りる。
「大丈夫か! 浅羽!」
着地寸前でエネルギーを殺すことを和利は考えたが、このままだと会場ではなく、会場よりも北側へと落ちてしまいそうだった。
舌打ちして、和利は叫ぶ。
「先輩、考えたことはありませんか!?」
「なんだ!」
「カオスエメラルドの力を封じることが出来るマスターエメラルドには、カオスエメラルド七つ分の力が宿っているんですよ!」
「そんな馬鹿な話があってたまるか!」
「それじゃあ出来たら、俺は天才ですね!」
落下感のなかで、和利は思い出す。一瞬で視界が移り変わる、あの感覚を。あの奇妙な感覚を。
一瞬でワープしてしまう、あの魔法みたいな仮想現実システム。
それを、エメラルドの力で再現するだけだ。
自信満々に言ってのけたが、心の中では不安でいっぱいだった。だけど、何かが自分の背中を押している。それはエメラルドの記憶であって、自分が目指したあの小さな背中のせいでもあった。
「出来るか、俺に……」
ずっと成功していると、こんなに成功するのはおかしいと思ってしまうことがある。
その感覚に近かった。
偶然がこんなにも続くのはおかしい。こんなにうまく行っているのは変だ。今度こそ失敗する。失敗すれば一瞬で終わってしまう。
だけど、そんなまやかしに惑わされている場合ではない。
あと二回。
二回も残っているのだ。
エメラルドが輝く。
輝きの中に二人を取り込んで、消える。
和利が光から帰ったとき、目の前にはジュエルピュアがいた。
「エメラルドだと? なんだ、それは!? 八つ目のエメラルドが存在したのか!?」
「ジュエルピュア、お前と話がしたいんだ」
ジュエルピュアが右手を振り上げて、赤黒い煙を放つ。それを消滅させて、和利はジュエルピュアに近づいた。
「お前と話をさせてくれ」
「来るな!」
「話だけでいいんだ!」
全員が和利を見た。
そういえば、と今更ながらに和利は思う。自分は何もして来なかった。ただ起きた出来事を受け止めて、受け流していっただけで、自分は何もしていなかった。
何かしたいとはっきり思ったことなんて一度もなかった。
「くそ、くそおおおおおお!!」
ジュエルピュアが巨大な赤黒い煙を放出させる。しかし無意味だった。和利は思うだけで、それを消滅させた。
勝敗は既に決している。誰の目から見ても明らかである。マスターエメラルドの強大な力の前に、ジュエルピュアは手も足も出なかった。
そして、彼はそれを自覚している。
「……お前の勝ちだ、人間。僕にエメラルドに抵抗できるだけの力は無い」
七つのカオスエメラルドは力なく地面に落ちている。光を失ったままだ。マスターエメラルドは七つの力を吸収したかのように輝きを増している。
事実、そうなのかもしれない。マスターエメラルドはカオスエメラルドの力を吸い取っているのだ。
「そうじゃない」
和利は言い放った。
「お前と話がしたい」
「ふん、エモート君を殺した張本人とか? 言って置くが、エモート君は既に世界から消えている。元の世界に戻したところで、帰っては来ない」
「違う。俺はお前と話がしたいだけだ」
和利は言う。
「聞いて欲しいんだ。聞かせて欲しいんだ。お前が何を思っていたのか。俺が何を思って生きてきたのか。恐らく俺は、お前が嫌いじゃないみたいだから」