三
珍しく律子が桜井くんと一緒に帰ると言った日、当然わたしは愛菜と二人で帰ることになった。最寄の駅まで歩いているときは「彼氏いない組は帰って寝るしかないもんねー」とか言ってふざけていた。でも電車に乗ってからは愛菜が静かだった。電車は空いていて、わたしたちはボックス席に向かい合って座っていた。なんだか珍しく気まずい雰囲気だな、と感じて「律子は何してるんだろうね」と言い出そうとしたら、先に愛菜が、
「加奈子、可哀想だよね」
と零した。急に呼吸が難しくなった。今までに皮肉っぽく「可哀想」と言うことはあったけど、こんな真面目な雰囲気で言うことはなかった。そう言えたら、わたしもあんなチャピルを見て、あんな思いをせずに済んだのに。
「もう少し迎え入れてあげる?」
とわたしは何も考えずに言った。じゃないと、わたしが愛菜のことをわかっていなかったと認めてしまいそうだった。そんな頭の中を空っぽにしなければいけない時間が少し続いて愛菜が、
「できたら」
と言った。愛菜は、わたしが愛菜と律子を映画館に誘ったときのように、勇気を持って革命を起こそうとしているのだった。わたしはその思いに答えなければいけない。
「わかった」
律子にも話さないといけない。わたしたちだけが加奈子を受け入れるわけにはいかない。でも、いつどうやって律子に話すのか考えているうちに自宅の最寄駅についてしまい、しょうがなくわたしたちは別れた。
その日の夜からは、またチャピルと普通に接するようにした。こうしなければわたしたちの革命は証明されない。そして何よりも、わたしはチャピルを愛していた。撫でたかったし抱きたかった。わたしはおばあちゃんに愛を見せられなくて後悔していたんだ。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。何があろうと、わたしはチャピルを愛し続けるんだ。
「チャピル、ごめんね」
チャピルを撫でるけど、チャピルはよくわからないといった風に首をかしげ、頭の上の球体をハテナマークにした。そしてすぐにそのマークはハートマークになって、わたしの胸に飛び込んできた。そんなチャピルの無償の愛に鼻がつんとなって、涙が出てきた。わたしはなんてことをしようとしていたんだろう。
それから、わたしたちが電車を降りて別れたのは、しょうがなくではなくてきっとまだその問題を置いておきたい気持ちがあるからなんだ、と反省した。そして、そこまで反省できるのだったら、明日の朝すぐにでも律子に話すことはできるはずだ、と決意した。
次の日の朝、わたしは律子に話しかけようと思って律子の席に近づいた。でも、前日の夜のわたしは想像力が足りなかったみたいで、いざ朝の教室で一人の人と真面目な話をしようとすると、周りの生徒や相手の眠そうな雰囲気だとかが「話すべきタイミングは今じゃない」と訴えかけてきた。事実、そうだ。万が一、わたしたちが話しているときに加奈子が近づいてきてしまったら、話を中断せざるを得ない。時間と場所を改めて考え直さないといけなかった。律子の席に近づくところまで行ってしまったわたしは、とりあえず「おはよー」と言って律子の前の席に座った。その後は何も続かなくて黙って座っているだけになった。
昼休みに律子と一緒にトイレに行き、わたしはそこでようやく話を切り出すことができた。なんて切り出していいかわからなくて、しどろもどろになってしまったけど、
「わたしたち加奈子にさ、冷たすぎるかなって思ったんだけど、どう?」
と、弱々しいストレートのような投げ方ではあるけど言い出すことができた。しかし、
「わたしあの子生理的に無理」
と律子は言い放った。無理だ、と思った。ここで食い下がることは絶対にしてはいけない。
「まあ、だよね。わたしも多分無理」
それだけでわたしたちの会話は終わった。革命なんてそう簡単に起こせるものではないんだ。律子はきっと変わらない。愛菜には悪いけど、今まで通りにやってもらうしかないんだ。わたしも加奈子を前にして優しい態度を取るのは難しそうだ、なんて正直で生々しい気持ちもある。これを打ち破るのが革命だけど、今回は環境が許してくれないみたいだ。いや、気持ちだけでなく環境をも変えることが革命か。革命は、難しい。
その日の放課後も、律子は桜井くんと帰った。多分、もともとは桜井くんと一緒に帰る予定ではなかったんだろう。わたしが昼休みに余計なことを言ったから、こうなった。午後はずっと機嫌が悪かったから、間違いないと思う。散々わたしは共有することで生まれる信頼を思い実感してきたのに、気づいたときには自分の手で叩き壊そうとしていた。革命なんかよりも大事なものがあったのだ。律子は加奈子を悪く言うみたいに、桜井くんにわたしの愚痴を言うんだろう。桜井くんはわたしの方に同情してくれそうだけど、正直わたしにはそんなの必要なかった。律子とただ元通りに戻りたかった。
また愛菜と二人の下校になって「愛菜のせいでわたしが嫌われた」と言ってやりたかったけど、愛菜とまで関係を悪くする訳にはいかないので、堪えて、
「律子は加奈子のことダメだって。うまくやるしかないよ」
うまくやるという自分の発した言葉が、わたしの哲学を絶望的に破壊した。こんなこと言わなければよかったと思ったけどもう遅くて、
「わかった。ごめんね」
と、愛菜に言わせてしまった。わたしたち三人は一瞬で完璧ではなくなったようだった。
その日の夜、わたしは開き直るしかないと思った。もう過ぎてしまったことはしょうがないから、今の状態がベストだと思うしかないんだ。これ以上関係を悪化させなければ、わたしたちはきっと何も意識せずに楽しい日々を送れる。楽観的な見方をしている訳ではなくて、根拠なしで本当に大丈夫だと思う。
「チャピル」
と、ふと名前を呼んで涙が流れた。今後への不安じゃなくて、ただ今の状況が悲しかった。人間よりも、チャオのほうが無条件にわたしの気持ちをわかってくれる気がした。チャピルは体を、わたしの小さい胸の中にうずめてくれた。生き物の体の温かさは生々しくて、頭の中に浮かべる律子とか友達とか言う言葉よりもずっと優しかった。
「なーがれぼし、なーがれぼし」
スピッツの『流れ星』をギターで弾き語りしながら、わたしの真っ暗な部屋の窓からチャピルと一緒に夜空を眺める。いつからか、わたしとチャピルにはこんな習慣ができていた。雲がかかっていても、雨が降っていても、いつも歌っていた。
あれから一年、わたしの予感は当たっていて、愛菜と律子とは楽しい日々を送れていて、チャピルはとっくにダークチャオへ進化していた。わたしと律子は二組で、愛菜だけが一組になってしまったけど、休み時間は必ず二組に遊びに来た。加奈子は三組になって、どうやら別のグループの中に入ることができたようだけど、わたしたちのところには相変わらず来た。今でも加奈子のことは嫌いだ。
愛菜が何を思っているのかは知らない。それはつまり、愛菜はうまくやっているということだろう。愛菜はわたしたちが初めて会った頃からは想像もつかないくらい人付き合いがうまい子になっていた。そう考えると、愛菜と本当に理解し合えているんだろうか、という疑問が浮かぶけど、お互いに愛を感じられるくらいの関係ではあると確信を持って言えるから、少なくとも完璧でなくなってしまったわたしたちには十分度外視できた。世界はうまくまとまっているのだ。
夜だけはそんな世界から切り離されていた。独立した夜の世界は、現実世界のわたしたちと違って完璧だった。家に愛菜や律子を招いても、ギターを弾いてチャピルと一緒に歌って見せるなんてことは絶対にしなかった。誰も触れない、わたしとチャピルだけの変わらない時間だった。
ギターはアコースティックギターで、親から月一でもらっているお小遣いを使って買った。お小遣いを貯めて買ったわけではなく、一月分の小遣いで買えるほどの安物だったので、そんなにいいものではない。でも正直、音の良し悪しなんてわからないので何でも良かった。ただ、ギターを無性に弾いてみたくなったのだった。
最初の頃はドレミファソラシドと弾くだけで嬉しかったけど、それだけだとつまらなくてすぐにコードを覚えようとした。ギターを弾くというとジャカジャカ弾くイメージがあったので、早くそのイメージに自分を当てはめたかった。コードを覚えるのにそんなに時間はかからなかったけど、音が綺麗に出なくて困った。特にFやBのコードが難しく、桜井くんにアドバイスを求めたところ「最初はみんなそこで躓くよ」と笑われただけだった。ゆっくりと指を整えながら押さえれば音が出るのだけど、曲に合わせてぱっと押さえるとボスンという音しか鳴らなかった。
でも何日か続けているうちに、気づいたら音が出るようになっていた。それからというものの、知ってる曲のコード譜をネットで調べてそれを弾いていた。その中でも『流れ星』はお気に入りで、部屋を暗くして夜空を見ながら弾いたら気持ちよかったので毎晩弾き続けている。チャピルははじめはキョトンとしていたが、今では曲に合わせてよくわからない言葉で歌っていた。薄暗い部屋で真っ黒なチャピルは影のようにしか見えなかったが、わたしの声とチャピルの声のユニゾンを聴いているだけでわたしは自分の中にあるチャピルへの愛を自覚することができた。
願いは叶わないから美しい、といった意味の言葉を言う人がいるけど、きっと願いは願いであるだけで美しいんだと思う。そして、叶ったらよりいいんだとわたしは思っている。だから、あえてわたしは願いを言う。
「ずっとチャピルがそばにいてくれますように」
流れ星は見えないけど、きっとどこかで流れているだろうと思い込んで、その流れ星がわたしの願いを叶えてくれることを何も考えずに信じた。