四
律子から「遊園地に行こう」と誘いがあったのは、高校に入学してから初めての夏休みの頭の頃だった。宿題も大して多くなく、暇な日が多いだろうなあと覚悟していたときに律子からメールがあったのだ。メールには、わたしたち三人とチャピルで行こうと書いてあった。チャピルを連れて行ったら、絶叫系のアトラクションには乗れなさそうだ。そうすると、楽しめるアトラクションは一気に限られてしまうんじゃないか。なんでチャピルを一緒に連れて行きたいのか。色々な疑問が浮かんだので、返信はせずに電話をかけ返した。
「わたしはいいんだけどさ、チャピルは連れて行っても大丈夫なところなの?」
「あー、全然大丈夫。末森アイランドっていうところが最近できたらしくて、チャオもオッケーみたいなんだよね。場所も電車で一時間くらいのところだし、せっかくだから一緒にね」
オッケーっていう言葉が具体的にどうオッケーなのかはわからないけど、ここで問い詰めても多分律子はそこまで調べていないだろうから、
「ちょっと調べてみるから待ってて」
と言ってパソコンを開いて『末森アイランド』と検索した。検索結果ページの一番上に末森アイランドの公式ホームページが出てきて、内容を調べると乗り物にはチャオ用のシートベルトがあったり、人の食べ物と一緒にチャオの食べ物も販売している店があったりと、本当に大丈夫そうだったので、
「おー、いいね。いつ行く?」と答えた。
「わたしはいつでもいいけど、希美はいつが空いてる?」
「わたしもいつでもいいよー。あ、でもお盆辺りは家族とどこか行くかもしれないから、お盆以外で」
「オッケー。あと愛菜にも連絡取るから、予定合いそうな日があったら勝手にこっちで決めちゃって、それから連絡するねー」
「わかったー。ありがとー」
それから二時間くらいした頃にまた律子から連絡が来て、末森アイランドには明後日行くことになった。
「チャピルー。楽しみだねー」
と言って、チャピルの頭を撫でた。
末森アイランドに行く当日、わたしたちは自宅の最寄駅で待ち合わせをして、日除け用の麦藁帽子を被ったチャピルをみんなでわいわい可愛がりながら末森アイランドに向かった。準備もそれほど必要なくて、服もそんなに張り切って決める必要もないから白のティーシャツにショートパンツで済ませた。
正直なところ、ダークチャオを連れて歩くのは勇気がいる。わたしは心がすさんでます、と言ってるようなものだ。でも世の中にはダークの実という、食べさせるだけでダークチャオに進化しやすくなる餌がある。わたしはそれをチャピルにあげているということにして、納得するようにしていた。もちろん、愛菜と律子に見られるのも嫌だったけど、初めてダークチャオになったチャピルを二人に見られたときも、直接「ダークの実あげてるから」と言って丸め込んだ。実際、二人がどう思ったのかはわからないけど。
末森アイランドのアトラクションは楽しかった。ジェットコースター、3DCGワールド、地下迷路、脱出ゲーム、観覧車。チャピルも頭の上にハートマークを浮かべて満足していた。愛菜と律子も頭の上にハートマークを浮かべているようだった。
歩いて、待って、遊んで、また歩いて、たまに食べてを繰り返すだけで十分に楽しかった。末森アイランドはローカルの遊園地にしては本当に広くて何でもあった。あまり有名でないのは何でだろう。もしかしたら、チャオも遊べるという点をアピールしたら他のところに目を向けられなかったのかもしれない。なんだかもったいない気がした。でも有名でない割には人も多いので、一部の人には強く愛されているんだろう。
夕方、小腹が空いたというよりも何かを食べたい気分になったわたしたちはカフェに入った。もちろんここは今日初めて来るところだ。ここもチャオ用の食べ物があった。普段、チャオの餌という枠組みでしかチャピルに食べ物を与えていないので(人間の食べ物はあまりチャオの体に合っていないという話を聞いたことがある)こういったところで変わった食べ物を食べさせられるのは嬉しかった。わたしはチャピルにビッグミートという、骨付き肉を模したパンのようなデザートを選んであげた。愛菜と律子はわたしの「いいよ、わたしが払うから」という言葉を聞かずに、お金を出し合ってくれた。わたしはフレンチトーストを食べて、愛菜はバナナパフェを食べて、律子はトリュフチョコのアイスを食べた。そして最後にみんなでコーヒーを一杯ずつ飲んだところで、
「そういえばコーヒーカップってあるのかな」
と律子が言い出した。確かに遊園地の定番とも言えるけど、今日は乗ってもいないし、見てもいなかった。どうだろ、と言ってパンフレットを見ると、どちらかというと入り口に近いところにコーヒーカップがあった。そこには土産屋もあって、土産屋は最後に行こうと思っていたから今まで見つけられなかったのだ。
コーヒーカップへ向かうと、それほど人は並んでいなかった。わたしたちは即決で並んだ。夕日が沈み始めていた。コーヒーカップに乗って、その後何か乗り物に乗ったらお土産を買って今日は終わりだろうなと思った。なんだかコーヒーカップに乗るのが嫌になってきた。こんなのは一瞬の楽しみで、間違いなく時間と一緒に消えていく現実だとわかっている。ずっと回り続ける幻のコーヒーカップに乗っていられたらいいのにと思った。
わたしたちが乗る順番になった。ちょっと緊張して、残念で、高揚した。愛菜、律子、チャピル、わたしの順番で座った。すべてのコーヒーカップが一箇所割れて欠けているデザインになっていて、そこから人が入れるようになっていた。そして全員が着席したのを確認すると、スタッフがその割れた破片を持ってきて、その出入り口を塞いだ。そして完成したコーヒーカップの中で回るのだ。ファンタジックで素敵だった。
コーヒーカップの中心にあるハンドルをみんなで回した。ゆっくりと回り始めたコーヒーカップに、すでにみんな笑い出していた。チャピルだけがわたしと律子の間でキョトンとしていた。
どんどん加速していくコーヒーカップ。そろそろ最高速だ。もうすでにかなり強く振り回されていて、楽しくてしょうがなかった。頭を後ろに倒すと、ぐわんと視界が回る感じがして、なおさら面白かった。わたしたちには回すハンドルの感触と、振り回される心地よさしかなかった。そんなとき、笛の鋭い音が鳴ってすべてのコーヒーカップが急速に止まり始めた。チャピルがコーヒーカップから投げ出されてしまったからだ。わたしの袖に、チャピルが吹き飛ばされるときに一瞬つかんだ感触が残っていた。それは確実に現実のことで、チャピルが危険な目にあったという恐怖で体の中が急速に縮んでいったような感覚もあるのに、振り回されたときの浮遊感がまだ頭と体に残っていて、起こるはずのない不思議な出来事が起こったような感覚があった。わたしはそんな感覚のままコーヒーカップの縁を乗り越え、チャピルの元へ駆け寄った。チャピルは頭の上にビックリマークを浮かべ目を丸くしているが、怪我はどこにもないようだった。スタッフが駆け寄ってきて大袈裟に心配していて(それが普通なのかもしれない)わたしが「大丈夫みたいです」と言っても「申し訳ございませんでした。ただいま園長をお呼びしますので、少々お待ちください」としつこかったので「大丈夫なので気にしないでください」と逃げた。その後、コーヒーカップは稼動停止したようだったけど、わたしの感覚に残る幻のコーヒーカップはまだ回り続けていた。
その後は何にも乗ることなく、帰ることになった。お土産も少ししか買わなかった。本当に末森アイランドから逃げるように出た。愛菜も律子も気の毒そうな顔をしてわたしとチャピルを見ていたし、実際に心配する言葉をかけていたた。なんと言っていたのか、よく覚えていないのだけどチャピルがいつも通りの無表情に戻っていたのだけは覚えている。家に着いてからも何か夢を見ていたような気がして、ギターを弾くのも忘れて不思議な気分のまま眠りについた。
目覚めるとそこは現実だった。昨日どころか、昨日までのことがすべて夢のことだったように感じられるくらい、わたしは生活感の中にいた。寝る前にかけていたタオルケットがわたしの横に丸まっていて、体にはじっとりと汗をかいていた。眠気がまだ残っていて、外から車の走る音や鳥の鳴く声が聞こえた。濃い紫色のカーテンが陽の光でその鮮やかさを強調していた。カーテンを開けると外は晴れていた。窓を開けて顔を出してみると、西から東の方まで珍しいくらい真っ青な空が見られた。今日は夜空が見れるな、と思った。扇風機をつけて、ベッドに腰掛ける。今日は予定がなくて、暇を持て余しそうだった。愛菜と律子を誘ってどこかに行くのも悪くないけど、たまにはずっと家でごろごろしてるのも悪くないかなと思ってテレビをつけた。時刻は九時三十三分。普段は見られない、平日のこの時間帯の番組。釣り番組やグルメ番組、なんだか狭い部屋にお笑い芸人とタレントが座って話している番組にニュース。どれもつまらなかった。しょうがないからテレビを消して、本棚から『魔女の森』を取り出した。映画を見に行った一ヶ月後くらいに買った原作の小説だ。買ったはいいけど小説を読む習慣がないわたしは、ずっと読むタイミングを見失ったまま本棚にしまいっ放しだったのだ。本を持って、ベッドに座って壁に背を預ける。一ページ目には『魔法なんてないよ。見たことないもん。 ――マイト』と書いてあった。その次のページから本編だった。でも、わたしがページをめくろうとしたときに、お母さんが大慌てでわたしの部屋に入ってきた。
「何?」
こんな時間に、しかもノックもなしに入ってくるのだから何かが起こったのだろう、と緊張した。お母さんはわたしの緊張なんて気にも留めずに次の言葉を発した。
「チャピルが転生してるよ!」
そういってリビングの方へと駆けるお母さんを、わたしも同じように駆けていった。そうか、もう寿命の時期か。
リビングのソファーの上に、桃色の繭があった。チャピルが転生している真っ最中なのだ。飼い主のことを強く愛していると起こる転生が起こったということで、わたしは安心と感動を覚えた。ダークチャオに進化させてしまって、どこかで悪い影響をチャピルに与えているんじゃないか、と心配だったのだ。
繭が少しずつほどけてきて、中にあるタマゴが姿を現す。チャピルが生まれ変わったんだ。チャオが転生をする生き物だということは知っていたが、生で転生を見るのは初めてだった。他の生物では絶対にありえない、チャオだけの不思議。魔法みたいな愛の行く先。繭が全部ほどけてからは、ずっとタマゴを眺めたり抱きかかえたりしていた。孵化するところを絶対に見て、チャピルを迎えてあげようと思った。
タマゴが孵化するのにもそれほどかからなかった。タマゴがパカッと割れて、中から水色の体のチャピルが出てきた。この姿のチャピルを見るのは久しぶりだった。今度こそはダークチャオにしない、とわたしは強く思った。
結局『魔女の森』の続きはまったく読まずに、また本棚へ戻すことになった。今日はずっとチャピルと遊んでいた。特に何をしたというわけではないけど、家中をチャピルと一緒に動き回っていた。それだけで十分楽しく、嬉しかった。
その日の夜だった。一面の星空を見ながら、わたしはいつものようにギターを取り出した。いつもならこの辺りでチャピルがわたしのベッドから降りてわたしの足元に来るのだけど、チャピルはベッドの上に座ったままだった。この辺りでわたしは嫌な違和感を覚えていた。ギターのチューニングを終えて、コードを鳴らした瞬間、チャピルは頭の上にハテナマークを浮かべた。わたしの違和感が形となって現れたのだった。このチャオはチャピルじゃない。わたしとの思い出と、わたしとの生活と、何よりも唯一の無償の愛を共有していたあのチャピルは、その名の通りもう死んでしまったのだ。
ギターの音がやむとわたしの部屋は静かだった。いつもと違う、なんだか偽者じみたわたしの部屋の空気に耐えられなくなって、わたしは部屋から出た。わたしが部屋を出るときも、チャピルはわたしのベッドの上にいた。
お母さんにもお父さんにも会いたくなくて、逃げ場を探してわたしは前はおばあちゃんの部屋だった和室に辿り着いた。どうしようもなくて、おばあちゃんの愛にすがりたかった。仏壇の前にわたしは膝を落とした。
「おばあちゃん、わたしはどうすればいいの」
仏壇は答えてくれず、おばあちゃんも写真の中で笑っているだけだった。わたしの泣き顔を見ても、おばあちゃんは笑ったままだった。魔法なんてどこにもなかった。わたしの中でコーヒーカップが回り続けていた。