6 仲神春樹
目の前で親が死んだ。何も出来なかった。元から喧嘩ばかりしていて、日頃からいなくなればいいと思っていた両親だった。でも、死んだ。
死んでしまったら何も残らなかった。今までの辛い感情も。痛みも苦しみも悪意も。残ったのは後悔だけだった。まだ話す事はいっぱいあった。あったはずなのに、いなくなってしまった。
だから二度と後悔はしたくなかった。目の前の人から助けて、あわよくば全ての救いを求める人々の為に戦おうと決意した。誰も死なずに、誰も悲しまずに済む世界を。
変えられると思った。簡単だった。“誰にも負けないくらい強くなれば良い”。敵が千人いるのなら、千の力を持てば良い。敵が万人いるのなら、億の力を以って立ち向かえば良い。
簡単だったんだ。幼い頃のボクにとっては。
――日本帝国/帝都南区/1852時――
寂れた一軒家の前に、春樹は水色のコードCHAOを抱きかかえて立っていた。鍵は開けっ放しだ。中には何もない。コーヒーとちょっとの食料を近所のコンビニで購入し、春樹は家の中に入った。
この家に別れを告げたあの日。希望と共に振り切った過去。きっと全てはこの家から始まったのだ。この家で味わった苦痛と向き合わなければ駄目だった。それなのに逃げてしまった。誰かを助けるというのは罪の意識から逃げるための言い訳にすぎなかった。
だから弱さと再び向き合ったとき、春樹は絶望に沈んだのだ。
だけど、自分のせいで苦しんだ人くらいは助けなければならない。それは当然の事だ。コードCHAO。もしかしたら、助ける方法があったかもしれない。今、彼は苦しんでいる。他でもない自分のせいで。
だとしたら責任を取るべきは誰か。春樹である。
コードCHAOを布団に寝かせ、春樹は長らく放置されていたやかんに水を入れて温め始めた。この家はあの頃のままで残っている。
光熱費などは基本料金だけ振り込んでいた。理由はいつか帰ってくる場所だからだ。まさかこんな早く帰ってくる事になるとは全く思ってもみなかったが。
弱さ。自分の弱さだ。帰る場所がなければ戦えない。逃げる場所がなければ戦えない。手遅れだ。どうすることもできない。
かといって、責任や罪から逃れられるわけがないのだ。春樹は目の前で両親が死んだ瞬間を思い出す。助けられるのは自分しかいなかった。
身を呈して庇っていたら? どういう結果になったにせよ、後悔はしなかっただろう。
邪悪な感情が渦巻く。それを否定したかった。“死んで清々した”という感情を。自分は間違ってないと誇る為に戦った。逃げているのと変わらない。
コーヒーをすする。疲労が溜まっていた。一日の密度が高いとバランスが崩れる。
リビングのノンマットビジョンからは突如としてプリズンアイランドに出現したCHAO軍団についてのニュースが放送されていた。どこのチャンネルも同じようなものだ。
戦争が始まる。真実は分かった。CHAOは大自然の意思に操られ、対話を試みたCHAOSですら乗っ取られた。大自然の意思は絶対にして究極。人類は滅亡するだろう。
それでもいい、と春樹は思った。どうでもよかった。どうして自分ばかりがこんな辛い思いをしなければならないのだろうか? 適当に生きている人間が大多数だ。彼らの罪は彼らで償えば良いのだ。春樹が肩代わりする必要はない。
自分の罪は自分で償えばいいのだ。
「……ハイパーリンクが切断された今、全てを話しても大自然の意思に伝わる事はない」
唐突にコードCHAOが口を開いた。春樹は半ば意識の外側でそれを聞き取った。無関心とは毒だ。世界と自分を切り離してしまう。自分で気付かないうちに。
「大自然の意思に悟られぬよう、ワタシは記憶に厳重なロックを掛けていた」
声だけが脳内に響き渡る。コードCHAOの声だけが。他には何もなかった。
「ワタシは並行世界より、ハイパーリンクシステムを通じてやって来たコードCHAO。間違った結末を迎えた世界を正すために来たコードCHAOである」
ミステリ小説の種明かしを聞いているようだった。間違った結末という。何が間違っていて何が正しいかもわからないというのに?
世界はおかしい。間違っている。だけどどうすることも出来ないのだ。弱いから。罪は弱さにある。
「その世界で、仲神春樹は死んだ」
驚いた。コードCHAOからは見えないところで、春樹は目を丸くする。仲神春樹は死んだ。自分を犠牲にした。
「世界は救われた。辛うじて。だがワタシは悲しんだ。ワタシと共に大自然も悲しんだ。教授に出会い、別の可能性を提示された」
自分を犠牲にして世界を救う。それが一番いい方法だと春樹には思えた。罪を償うことが出来る唯一の方法かもしれない。
他の世界と言えど、自分は出来たのだ。逃げずに立ち向かえた。なぜ? その仲神春樹と、今の自分との違いは、一体何なのか?
「ワタシはこの世界へやって来た。誰も死なせずに、誰も悲しませずに――そうして世界を救うために」
「結局、世界は終わるんだ」
誰のせいかと言われれば、自分のせいだと答えてしまうだろう。罪を償うにはどうしたらいいのか、分からないから。死んで償うしか、ないのだろうから。
「次の世界でよろしく頼むよ、コードCHAO。ボクは……」
ホルダーから拳銃を掴み上げる。セーフティロックを外す。頭に押し付ける。死ねば救われるのだ。罪から解放される。
自分のせいにしないで済む。これしか方法はない。ならばやる。死後の世界になど興味はないが、それでこの引き金が引けるなら、いくらでも興味を持とう。
――どうでもいい。自分が救われたかった。人を助けるというのは建前で、自分が助けて欲しかったから助けていたんだ。助けて欲しかった。
でも、いくら叫んでも、どれほど目立っても、助けてくれる人はいなかった。一人だと分かった。孤独に耐えなければならなかった。また助けを呼んだ。誰も来なかった。
「春樹……変わっていた。ワタシのいた世界とこの世界では、何かが変わっていたんだ。だから春樹はまだ生きている」
「もう遅い、遅いんだ」
誰彼構わず、困っている人のところへ、悲しむ人の元へ、光の速さで駆けつける正義のヒーローが欲しかった。
なろうとした。無理だった。自分は助けられる側なのだ。たぶん、きっと。正義のヒーローはいつまでも不在のままで、世界は悪意に飲み込まれて、消える。
「そういえばボクは、お前を殺すように命令を受けていたんだった」
拳銃をコードCHAOへ向ける。キャプチャー能力があるから殺せはしない。だけど切っ掛けにはなるだろう。自分が堕ちたという確証が持ちたかった。
正義なんて自分にはないのだと思い込みたかった。証明できないからだ。善悪など個人で割り切れるものではない。
証明できないものを持ちたがっていた。そうして、それを振りかざす者になりたかった。正義のヒーロー。子供じみた世界。正義のヒーロー。
分かっているはずだった。なれないと。それは夢幻にすぎないと。
子供の時は簡単だった。正義のヒーローは弱きを助け悪しきを挫く。だが悲しんでいる人をどうやって見分けるのか。悪をどうやって判断するのか。大人になるにつれて疑問は多くなる。そうやって難しくなる問題。
殺せないのなら自分が死ぬ。死ねないのなら殺す。命令に生きるか、罪を償うか。
「……でもボクには殺せない。……殺したくないんだ」
だから自分が死ぬ。選択肢は二つ。三つめは、存在しない。
再び頭に拳銃を押しつけて、春樹は呟く。
「ごめん」
「どうして一人で背負い込むの? なんでもかんでも、一人で出来るような顔して、全部、一人でっ!!」
叫び声が聞こえた。拳銃はいつの間にか手から離れていた。壁に弾痕がある。
ああ、そうか。死にそびれたのか。春樹は脱力して、へたりこんだ。いつの間に来たのか、目の前には大倉仁恵と――白いコードCHAOがいた。
「チャオ、あなたはあっちの子を。この子は、私が叱るから」
仁恵はいきり立った表情で春樹に迫る。青ざめる春樹が怯えて後退するが、仁恵はずんずんと近づいて行った。
距離というのは大切だ。人と人との絶妙な距離感。人の心に土足で踏み込めば、大抵の人は嫌な思いをすることだろう。
しかし仁恵は人の心にすんなりと入って来た。春樹は抱きすくめられて、ようやく意識の外側で聞いていた声が、響く。
「楽しいときも、辛いときも、ずっと側にいるから」
響く。
「あなたを一人になんて、させないから」
響く。
「あなたが助けてって言ってくれれば、私はいつだって駆けつける」
響く。
「だから、忘れないで」
響く。
「一人で戦っている時も、誰かと一緒にいる時だって、思い出して。私は、あなたの味方だってこと」
響く。
「私は、あなたを絶対に死なせないってこと」
声が心に響き渡る。雪は温かくなるにつれて、ゆっくりと水となって溶けるという。人の心も同じなのだろうか。泪を流して、春樹は思う。温かくなれば、こうも簡単に溶けてしまうのか。
冬は過ぎれば春が来る。今は寒くても温かくなる。春樹は泪を拭った。泪の向こうにはぼやけた景色しか見えないから。そんな世界はいらない。欲しいのは確かな世界だ。
誰一人悲しまず、誰一人死なず、誰一人として苦しむことのない――
「あう……」
「ワタシは何も見なかった事にしておく」
見ればCHAOが二人、揃ってこちらを凝視していた。春樹は笑って頷く。立ち上がった。すると、思ったよりも体は軽かった。
「大丈夫?」
死んだら悲しむ人がいる。死ぬも罪、生きるも罪なら。いっそ生きて貫き通そう。
疑う事に疲れたならば。いっそ全てを信じてみよう。
掴み取ったものは、決して手放すな。分かっているはずだ。既にカウントダウンは始まっている。勝負は勝つ。正義は自分。立ち止っている暇はない。
正義のヒーロー。悲しんでいる人が誰か分からない。なら全員まとめて助ければいい。光の速さで駆けつけて。その手には剣を携えて。立ち向かえばいい。ここは他でもない、ボク自身の世界だ。
拳をつくる。小さい。けれど大きい。やろうとしていることは不可能だ。敵はその『不可能』という思い込み。自分を変えられない人間に他人は変えられない。
「ボクは、まだ死ねない」
「まだじゃなくて、ずっと、よ」
仁恵は微笑みかけた。一人で戦っていた少年は、今、本当の意味で一人で戦える少年になった。
携帯端末を取り出して、仁恵はタッチする。そうして端末を春樹に差し出しながら、
「あなたの思う通りにやってみると良いわ。頭じゃなくて――」
左胸を指す。
「ここでね」
――GUN日本帝国本部/地下扉/1912時――
アリシアは絶望的な状況にいた。逃げ遅れた人を探しに負傷した体を叱咤して本部へ戻ったは良い。ところが、地下へと続くと思われる扉から次々と国籍不明のメカがあふれ出て来る。
そのメカは辺り構わず破壊しつくしていた。いや、心なしか周囲の金属を吸収している風さえ感じる。嫌な予感は的中した。発砲した弾は相手にあたらず、消えた。
万事休す。弱点さえ分からず、おまけに負傷中である。アリシアは目を瞑った。終わりだと、本気で感じた。
だが、迫り迫ったメカの武器を、前嶋大翔の電磁ソードが受け止める。
「大丈夫か!? 早く逃げろ! 俺が……」
電磁ソードは触れた部分から一瞬で根こそぎ消滅した。同時にメカの武器に同じような形状のものが出現する。
「吸収!? ありかよ!!」
銃火器を発砲。銃弾は消滅した。何も通用しない。見えない防御壁のようなものが展開されているのだろうか、と考えたが、すぐに考えるのをやめた。
“仲神春樹ならどうするか”。決まっている。まず先に他人を逃がすだろう。間に合いそうもない場合は? 敵に見えない防御壁、能力不明。分からない。
「くっそおおおおおっ!」
殴りかかる。腕が消えるのを承知で。メカの頭部が赤く光った。
――ところが。
殴った胸部のパーツが砕ける。意表を突かれたのは大翔だった。すぐに距離を取る。胸部の破壊されたメカの内部には赤い球体が隠されていた。
「撃て、前嶋大翔!」
「了解!」
連続射撃。球体にヒビが入る。続けて連射。球体が欠ける。弾数切れを起こし、銃火器がエラー音を鳴らした。
そこへ一撃、青い光線が通り抜ける。それはメカを蜂の巣にした後、周囲のメカの装甲をも破壊しつくして行った。
風が奔る。先頭にいたメカを蹴り飛ばし、右手に持った拳銃を構え、仲神春樹は敵を捉えた。敵の数は無数。味方は少数。負ける気はしなかった。
「ここはボクに任せろ。お前はメイスフィールド中尉の護衛と応急処置を。あわよくばボクの取り逃がしたキャプチャー兵器が街へ行くかもしれない。バックアップはお前に任せる」
「だから話が長えよ、仲神。まあ、任された。好きにやらせてもらうわ」
「出来るのか、お前に?」
ふわっと風が舞う。春樹は浮いていた。足下から――正確には靴の下から、風が吹き出している。両手には青と黒のカラーリングを施された長めのハンドガン。研修生に支給される軍服。
そして右手首に装着した水色のリング。
「こっちにはまだ最後の手段が残ってるんだよ!」
「それがシカトか」
「……はあ。それより急いだ方がいいんじゃねえのか? こっから地下通って行けばメタルハーバーまで一直線だ。ま、敵は多いけどな」
その彼の隣を、堂々と青色のコードCHAOが歩いて行った。大翔は唖然として、しかし見なかったふりを決め込む。
大翔は後ろを見た。アリシアは負傷中。美人と噂の本部長と何やらその横に白い生き物を確認して大翔は溜息を付いた。
「まあ、あれだ。本部長さん、ひとつよろしく頼みます」
「ええ。気をつけてね、春樹」
「プロフェッサーから頂いた装備を無駄にはしません、軍曹」
右手首にある水色の光を放つリングは、コードCHAOと連動する事によってキャプチャー能力を封じる機能が搭載されている。仕組みは分からないが、同じ波長を完全停止させるソフトウェアだと教授は言っていた。
ホバーシューズは最大ホバー稼働時間300秒。両手のハンドガンは9発の射出を可能としたエネルギー銃。いずれもエネルギーを大量消費するため量産化は不可能だが、コードCHAOのキャプチャー能力がそれを可能にするのだ。
あらかじめエネルギーを吸収して置けば、まさに無尽蔵のエネルギー供給源。敵はいなかった。相手がキャプチャー能力を使っていてもいなくても。
目指す場所はSpaceColonyArkの中枢。SCA計画によって生み出された場所。そこへはプリズンアイランドの戦争小康状態の中心地であるプリズンレーンを経由した上で、その奥地であるアイアンゲートへ行かなければならない。
不可能ではなかった。
「戦争相手にすんだろ? さっきメタルハーバーでも放送されてたぜ。お前こそ出来るのかよ、仲神?」
不可能はないのだ。かのナポレオンは言った。我が辞書に不可能の文字はないと。真実がどうかは関係ない。実行するのは自分なのだ。
「忘れたか」
「何を……」
「ボクは天才なんだ」
青く変色したコードCHAOが駆け出す姿勢に移る。後頭部には三本、角のようなものが生えていた。それを見て春樹はキャプチャーキャンセラーをオフにする。
水色の光が止んだ。
「一気に駆け抜けるぞ、コードCHAO!」
「了解した」
駆け出した。後に残るのは風。メカをキャプチャー能力で吸収し尽くし、大群の中を疾走する。
もう誰も、止められなかった。