2 アリシア=メイスフィールド
天才。便利な言葉だと仁恵は思う。優秀な人物を指すときに使う。その人物は天才なのだと。天才とは生まれもった才能が他を超越している者の事である。努力せずとも優秀な人間。自分とは違う人間。
そう見下して使う言葉こそ、天才なのだ。違う人間だから、天才だからという理由で人間扱いしない。自分より優れていると、自分より努力している人間だと認めたくはないから。
だけど真実は違う。彼は決して一般的に認識されている天才などではない。仁恵は知っていた。彼は自分たちと同じ人間で、いわば秀才。努力によって才能を手にした人間なのだということを。
彼の目的を、知っている。彼の痛みも分かってあげられる。
間違った方向へは、行かせない——
きっと今も、彼は色々なものと戦っているだろうから。だからせめて、サポートくらいはさせて欲しい。それが足手まといでも。誰かが見ていないと、彼は自分すら犠牲にしてしまう。
ぎゅっと、自分の手を握り締める。仁恵はほうっと溜息を付いた。
——GUN日本帝国本部/自室/0730時——
「GUNはワタシたちの力を利用した世界征服計画を考え、ワタシたち大自然の意思体は人類の滅亡を計画している」
春樹は銃口を下げた。相手が自分と同じ考えを持っているならば……それを信用するかどうかはさて置いて……戦う必要はないのだろう。
対話に応じ、機密情報を話してくれていると捉えられない事もない。隙を突かず話し合いを持ち掛けてきた事もある。そう、殺そうと思えばあの瞬間に殺せたのだ。
「暫定的に信用しよう。それで、さっきの言葉はどういう意味だ? お前とボクが既に……?」
「全てを話す事は出来ない。しかし事実。ワタシは君に出会い、君はワタシに出会った」
確かに、と春樹は思った。どこに耳があるか分からない状況で策もないまま情報だけを知り得れば、危険極まりない。敵が敵だけに、最大限の注意を払うべきだ。後ろの説明はあえて考えない事にした。
「本来コードCHAOはその身を生かすか、殺そうと思わなければ姿すら認識できない」
「つまり、ボクはお前を殺そうとしたから見えた訳だ」
「その通りだ。一度認識してしまえば途切れる事はない。憶えている限りは」
だから見えなかったのか——ようやくの納得と共に、新たな疑問が生まれる。“殺そうと思う”と認識できるということだが、その“思う”はどこの誰によって判断されているものなのか?
嘘偽りでもとりあえず思って置けば見えるのか、あるいは真実殺そうと思わなければ見えないのか。どちらにしろ確定材料がなさすぎる。
「それで、お前の目的はなんだ?」
「この世界を存続させること。それ以外にはない。誰一人死なずに、悲しませずに」
存続させる。大体のコードCHAOに関する仕組みは分かって来たが、どうにも黒幕はGUNらしい。
GUN——元々は一国の自衛軍隊だったそれは勢力を拡大し、今や世界警察とまで発展した大軍団である。アジアから西欧、そして全権力を握る連邦政府。敵に回すにはあまりにも恐ろしい相手だった。
もしGUN日本帝国本部に限らず、GUN全体が敵であれば……ごくりと春樹は生唾を飲み込む。いくら何でも相手が強大すぎる。個人で立ち向かうのは無理があるだろう。そんな疑念を胸に抱え、コードCHAOと目を見合わせた。
「目的はGUN総司令官の抹殺、および大自然の意思素体を破壊すること」
「素体?」
「ワタシたちは全にして一つ。ワタシを殺せば大自然の意思体はかき消される。ただし、そうなればワタシたちの能力に対抗する手段がない。だから素体を破壊する」
能力。いかなる能力を持つのか、それは88人もの精鋭を打ち砕くほどなのか。72型BIGFOOTさえ超越する能力が、この小さな体に秘められているというのか。
考えてみればおかしな話だ。大自然の意思体がどうして軍事利用されるのか。何らかの能力がある、と考えるのが自然だった。
「キャプチャー能力。物質を取り込む事で、それを自分の能力とする事のできる能力だ」
一瞬の躊躇いもなく、春樹は無反動拳銃を手に取ってロックを外す。狙いはコードCHAOの眉間。外しはしない。零距離。引き金が引かれた。
水面に石を投げ入れたように、銃弾は波紋に消えて行く。わずかなタイムラグがあって、銃弾が春樹の頬を掠めた。部屋の壁に銃弾が突き刺さる。
なるほど、この能力があれば88人であろうが何人であろうが、向かうところに敵はいない。春樹は無反動拳銃にロックを掛けて腰のホルダーにしまった。
「差し当たってするべきことは、」
こんこん。即座にコードCHAOをソファの陰に隠し、春樹は拳銃のロックを再度外した。ノックされたドアの脇に立ち、拳銃を構えながら尋ねる。
「誰だ?」
「こちらアリシア=メイスフィールドです。あなたに尋ねたい事があって、少々」
連邦政府直属の『精鋭』——春樹はソファの陰にコードCHAOがしっかり隠れている事を確認した後に、拳銃をしまってからドアのオートロックを解除した。
すーっと音もなく入って来たのは、その肩書きに似合わない小さな体型。透き通るような金髪。信用の置ける人物かはまだ定まらないが、優秀な人物であることに変わりはない。
「お疲れ様です、メイスフィールド中尉。どのような御用件でしょうか?」
「それほどのことではないです。連邦のメインコンピュータに、あなたが極秘司令を受けたという情報がありましたので」
内心びくりとしていたが表面にはおくびにも出さず、春樹は直立不動の姿勢を保ちながら敬礼する。
「自分には分かりかねます。なにぶん研修生ですので」
「そうでしょうか? 今年の特待研修生は随分と期待されている——そう聞きますけれど?」
にやりと微笑む。その姿はどう見ても十とそこそこの年頃だった(実際この外見でかなり苦労しているという噂も聞いていた)が、得体のしれない威厳があった。
どう答えたものか。極秘司令に関する情報をむやみやたらに漏らせば信用問題に関わる。かといってGUN日本帝国本部はもっと信用できない。コードCHAOの抹殺指令を出した副司令官の意図が掴めない今、下手に行動する訳にもいかない。
そういえば、この間——と春樹は思い出す。
「それは、中尉が自分に期待をされている、という事でよろしいのでしょうか?」
「なっ……違います!」
「お言葉にそえるよう、全霊を込めて鍛錬に励む所存です」
再び敬礼。顔を真っ赤にしたアリシアはそのまま気分を損ねたと退室していった。ドアが閉まると同時に春樹は拳銃のロックを掛け、ソファに倒れこむ。
先程の言葉は先日叱りを受けていた居残り組の対応だった。彼らは本気でアリシアを疎んでいる様子だったが、無理もない。彼女は外見上、明らかに自分たちより年下であり、彼らのような考え方だと年下に『偉そうにされる』のは腹立たしいのだろう。
ただ、春樹は彼女を評価していた。部下任せにしない責任感、その技術。あの若さで西区の管轄に回されたのも納得が行く。今の言葉からすると味方ではないのだろうが……。
「彼女は味方だ」
「そうは見えない」
「ワタシには、彼女が君を心配して来たようにしか思えない」
訝しむ視線をコードCHAOにくれて、春樹は溜息を付いた。それで、と先程の会話に戻る。問題は分からないものより、分かるものから処理していくべきだ。
もしくはこの先の方針から決めてしまうのがベストだろう。長年の——というには短いが——経験から、春樹はそう結論付けていた。
「まずは、CHAO研究所に行ってみると良い」
「コードCHAOは軍事利用されているんだろう? ということは、その研究所、GUNが保有しているんじゃないのか?」
当然の疑問に、しかしコードCHAOは否定する。
「教授はワタシの味方だ」
——GUN日本帝国本部/西門/0855時——
仲神春樹は一人で西門の大扉に来ていた。目指すはCHAO研究所。通常なら面倒な手続きをしなければならないゲートも、副司令官の取り計らいでスムーズに通過許可を得ることが出来た。
果たして副司令官が敵ならば、わざわざ動きやすいようにするだろうか? むしろ逆だと春樹は思う。動きやすくしてしまっては、邪魔な人間を排除することにならない。
もしかすると、自分は既にどうでもいい存在なのかもしれなかった。誰がどう動こうと変えられない未来。揺るがない計画。決まり決まった現実。
(そうは、させない)
西門を潜る。この線を越えれば外だ。GUNの閉鎖的な空間から解放されるはずだった。コードCHAOは春樹の隣を堂々と飛んでいるが、誰一人その姿に気付くことはない。どうやらコードCHAOが嘘を言っている訳ではないようだった。
整備された街路の空中にモニターが映し出される。ノンマットビジョン(映像をそのまま映像として実体化させる技術)も見慣れたものだ。変化は時と共に受け入れられる。それがいかなるものであろうとも。
いつしか、見様によっては愛らしいコードCHAOが町中を埋め尽くす日が来るのだろうか? 軍事利用されているだけなら彼等に罪はない。むしろ被害者である。なら、と思いかけて止めた。感情を入れ込むにはあまりに危険な相手だ。得体の知れない生物——しかしこの生物を、なぜか憎めないでいる自分がいることに、春樹は気付いた。
「CHAO研究所はGUNからやや離れたところにある。表向きは遺伝子研究所と銘打っていた」
遺伝子研究所は確かにGUNから5kmほど離れた場所にある。だが、そこは既に廃棄されていたはずだ。なるほど、実に都合の良い隠れ簑、ということか……春樹は妙に納得して頷く。
下手に交通機関を使うのは危険が付き纏う。かといって自動車を使うには目立ちすぎる。しばらく考えて、
「歩いて行くぞ」
と結論を出した。
——日本帝国/帝都西区/0935時——
「門番がいるな……教授はお前の味方でGUNの味方ではないんじゃなかったのか?」
名目上は遺伝子研究所と記されている、CHAO研究所の門前に二人の軍人が武装状態で立ち塞がっていた。突破することは簡単に違いないが、目立つ行動は避けたい。
春樹の脳内を文字がスクロールする。突破口、情報収集、監視カメラ、赤外線センサー、建物の見取り図予測……。研究所の目の前には住宅街が並び、裏には寂れたスーパーマーケットが建っている。
「ワタシが彼等の武装をキャプチャーする」
「いや、それは最終手段に取っておけ。ボクが」
腰の無反動拳銃のロックを解除。春樹はGUNの研修生バッヂをポケットにしまって、髪型を整えた。
戦闘の基本は情報収集である。情報数で勝っていればそれだけ有利にことが運ぶ。春樹は通りすがりを装って研究所の前に踊り出た。
「すみません、道をお尋ねしたいんですけど」
「何だ、坊主。俺達は警察じゃねえぞ」
いかにも人の良さそうな困った笑みを浮かべた春樹は、そこに少し驚いたフリを加える。
「あ、すみません。勘違いしてました」
「まあ、道くらい良いじゃないか。どこに行きたいんだ?」
「この近くにスーパーがあると聞いたのですが……」
辺りをいかにも探しているふうに見回す。それならと軍人は研究所を指差した。
「この建物の裏にあるよ。探してみな」
「本当ですか! ありがとうございます! ところで、この建物の敷地内は通っちゃダメですよね……近道みたいなんですけど……」
軍人は二人して顔を見合わせると、考えるポーズを取った。
うまく知りたい情報を言ってくれるか、あるいは大人しく回り道していけと言われるだけか。軍人は首を横に振った。
「悪いが、無理だ。向こうにゃ門がないんでな」
「あ、そうなんですね! ご丁寧にありがとうございました!」
深々と一礼し、足早に去ろうとする。だが先程から苦い表情をしていた軍人が、春樹のこめかみに銃口を突き付けた。
大人しく驚いた表情を浮かべる春樹に、軍人は銃口を押し付けたまま命じる。
「坊主、上着を脱げ」
「え……や、やめて下さい!」
「三文芝居は止せよ、てめえの面、見覚えがあると思っ」
素早い対応だった。金属粉を撒き散らして、突き付けられていたショットガンが宙を舞う。軍人の驚愕をよそに一人の腕を捻り上げて身を回転させた。腰のホルダーから無反動拳銃を弾いてキャッチする。
人質の完成だった。軍人のこめかみに冷や汗が滲み出る。そこに強く銃口を押し付けて、春樹はもう一人の軍人を凍てついた視線で貫いた。
「研究施設の見取り図をよこせ。あるいはセキュリティシステムの場所を教えろ」
「待て!」
「時間を稼ごうとは思うな。これは命令だ」
軍人の顔に恐怖が見て取れた。実戦経験の不足だな——そう断定して春樹は高圧的に出たのだ。彼は上着のポケットから研究所の地図らしきものを取り出して、春樹に見せる。
「これがそうだ! 赤いマークがセキュリティシステムになってる! 早く銃を下ろしてくれ!」
「武器を捨てろ。地図を置いて十歩下がれ」
おどおどとショットガンを地面に置いて、地図を置く。ゆっくり、春樹の一挙一動から目を逸らさずにゆっくりと後退する。
十歩目、とっさに人質にとっていた軍人を地面に叩き付け、地図をすばやく手に取ってから研究所施設に駆ける。
「急げ! 内部へ連絡だ!」
——GUN遺伝子研究所/内部/1001時——
そこは廃墟も同然だった。瓦礫を飛び越えては進み、飛び越えては進む。まさに廃墟。それ以外の何物でもなかった。
春樹は空中を優雅に飛ぶコードCHAOを羨みながら、瓦礫の山を睨みつける。門番がいるから当たりかと思えば内部はもぬけの殻。収穫は期待出来そうにない。
「襲撃があった」
「なぜそれを先に言わない」
コードCHAOは沈黙した。襲撃。この研究所は確かに重要なものを隠していたのかもしれないが、こうも崩壊してしまっては意味がない。
よく内部がここまで崩れているのに、外壁は無事だったな——と春樹が感心していると、ぽつりとひび割れた天井から水滴が落ちて来る。崩壊も時間の問題だろう。
一刻も早く探索を終了させ、即、脱出する。それが理想の流れだ。 地図を頼りに進む。セキュリティセンサーはことごとく破壊されていた。なにかこの研究所とCHAOの関係を裏付けるものさえあれば、教授とやらに会う必然性も格段と跳ね上がる。
なにか一つでも……と、春樹は物音を聞いて拳銃に手を掛ける。研究室まで残りわずかの突き当たり。生き残りか? 恐る恐る壁に背を付け、一拍の後、低姿勢に壁から姿を見せる。拳銃の向けた先、緑色の二つのライトが奥に消えた。
気付かれたか? 春樹は足を水平に移動させ、可能な限り物音を立てず奥へ向かった。研究室と銘打たれたプレートが瓦礫の中に落ちている。地図の通り、ここはかつて研究室だった場所だ。
コードCHAOが先導し、暗がりを物色する。ジジ、ジジと音を立てて電流が漏れていた。わずかだが電力は通っているらしい。
扉から顔だけを覗かせる。暗い。暗黒。その中を壁伝いに進み、目を凝らす。緊張、恐怖、それらがまるで重たい石のように自らの体を地面へ押し付けていた。
こういう時にようやく実感するのだ。自分は何て事はない、ただの人間なのだと。自分の枠が分かる。全てが無関心ではなくなる。出来る事の範囲を捉える。唐突に背後から明かりに照らされた。眩しさに一瞬行動が遅れたものの、すぐに拳銃を明かりへ向ける。
「武器を捨てなさい! 子供だろうと容赦はしません! 武器を捨てなさい!」
薄暗さによく見えない。ただ、埃まみれの軍服と闇の中でも目立つ金髪が目に入った。舌ったらずな、けれども重厚な威厳の篭った声。
その可能性を失念していた。西区は彼女の管轄であり、この研究所に通報しても意味のない今、連絡が行くのは当然西区担当の本部。そして、部下に任せない責任感の強さを持つ上官といえば——
「あっ、あなた! 特待研修生の!」
「ご無沙汰しております、メイスフィールド中尉」
春樹は銃口を下げた。隣からコードCHAOの溜息が聞こえた。