1 コードCHAO
『現在、何者かによる電子的な攻撃を受けています。当研究所はCHAOの全採取データをR教授に送信するとし、回避行動に移行する予定です』
「許可する。くれぐれもデータを流出させんよう最善の厳戒態勢で臨みたまえ」
『了解です』
白い髭を蓄えた初老の男は牛皮の小型ソファーを軋ませ、大きく溜息を付いた。GUN日本帝国総司令官とは名ばかりの、単なるまとめ役。気苦労の割に需要が少ないと彼は常々感じていた。
だが、もう直にそれも改善されるだろう。日本帝国が内密に開発している、核すら超越した最強の力を以ってすれば――もう他国に頭を下げる時代は終わるのだ。これからはこの国が世界の中心となる。
デスクの陰からは黒い皮膚の生物が顔を覗かせていた。一見して愛らしい容貌のそれはにやりと口元を綻ばせると、その景色に溶け込むようにして消えてしまう。初老の男は気付かず、額に手をやった。近いうち迎える自らの栄光を胸に。
野望だった。GUNという大きな枠組みの末端でしかない自分が、頂点に立つ事。それはそれは素晴らしい光景のように思えたのだ。自分ならば完璧にこなせるだろう。GUNをもっと上手く活かせる筈だ。
無論、それは単なる希望でしかない。しかし彼はそう思い込んでいた。大いなる力を手に入れた自分こそが革命者にふさわしい、自分こそが革命者なのだ。貪欲に塗れた世界をクリーンにするべくして選ばれた使者なのだ――と。
「もうすぐ、すぐだ。もうすぐ全て私の物になる」
気付かぬうちに、悪夢は始まっていた。
――GUN日本帝国本部/本部長室/0550時――
「報告は以上です、軍曹」
髪を短めに切り揃えた少年が直立不動の姿勢で敬礼する。能面のような冷たい面持ちとは裏腹に、はきはきとした口調。少年はそのまま半歩下がり、上官の指示を待った。
上官――大倉仁恵は嘆息した。何も少年の態度が気に喰わないわけではない。いつまでも自分の階級を間違える事に異議を唱えたいわけでもない。少年が余りにも不器用だから、呆れているのだ。
その不器用な少年は嘆息に対して何の反応もなく、黙している。それがGUNの一員としてあるべき姿だから、とは少年の弁だ。
「あなたね、自分が周りからなんて呼ばれているか、自覚ある?」
「cold-blooded……と、アリシア=メイスフィールド中尉は仰っていましたが」
「他にも『機械としか会話できないやつ』だとか『実はサイボーグ』だとか色んな噂を立てられてるわ」
眉をひそめる仁恵。だが、話の中核たる当の本人はどこ吹く風であった。本部にやって来たのが一ヶ月前。異例の特待研修生であり、既に多くの実務をこなしている。新人研修生期待のエース――仲神春樹。
期待の研修生、仲神春樹は確かに優秀だ。優秀すぎるといって差し障りないだろう。ところが彼にはとてつもない欠陥がある。
協調性。
「もう少し、コミュニケーションにも身を入れてみたら?」
「必要とあらばそのように努めます」
再び仁恵は嘆息した。いつもこうなるのだ。必要か不必要か。実際に彼のような天才にとって協調性は必要の無いものなのかもしれない。ただ、任務は一人でやるものばかりではない。チーム単位で行動する場合もある。必要なものではないものの、不必要なものではない。
と、先日彼に注意したところ――『軍曹の仰る事は矛盾しています』――手に負えない天才である。普段から上辺だけの付き合いをするより、任務だと割り切って連携を取る方が確かに効率的なのだろうが……仁恵は何か釈然としないものを感じた。
「ま、あなたがそれで良いなら、良いけど。そういえば副司令が呼んでいたわ。正午までに管制塔へ行くこと」
「了解しました」
惚れ惚れするほどの綺麗な動作で恭しく一礼の後、部屋を後にする春樹。その姿を眺め、仁恵は三回目の溜息を付いた。
――GUN日本帝国本部/食堂/0615時――
人気は少なかった。通常、研修生の朝食は06時から開始される。研修生の食事の時間は制限されており10分以内に必要量を摂取する必要があるのだが、この様子だと『居残り組』以外は難なく食事を終えたらしい。
『居残り組』。成績不良の研修生数人を指してそう呼ぶ事がままある。ほとんどの研修生は10分以内に食事を終えているが、『居残り組』は仲良く談笑をしながら悠々と食事をしている。つまり、毎年仲の良い研修生のグループが『居残り組』扱いされる事となる――そう言えるだろう。
「うわ、エリート研修生様のお通りだ」
「今日もクール振りが様になってますねー、はいはい」
春樹はフロントにあるテーブルから朝食を持ち運んで、一番近い席に座った。食事は早ければ早いほど良い。今は平和だが、戦場においてゆっくりと食事をしている暇はない。10分、いや5分で済ませられればベストだ。
「あいつ本部長に気に入られてるらしいじゃん? 調子乗ってね?」
「本部長美人だからな、誑かされてんだろ」
一笑。その間も春樹は黙々と食べ続けた。彼の耳に『不必要なこと』は入って来ない。聞こえているが、聞こえていないのだ。ただひたすら秒針の音だけが彼の耳に届いて来る。
5分が経過した瞬間、ばっと立ち上がって手早く食器を片づけた。このペースに慣れれば、いかなる状況にでも対応する事ができる。満足した春樹は司令室へ向かおうとして、立ち止まった。彼の前に『居残り組』である、3人の男子研修生が立ちふさがっていたからだ。
「お前、何シカトこいてんだ?」
「何の話だ?」
シカト? 最新鋭の兵器だろうか。後の動詞から察するにシカトは『こく』ものらしいが、春樹には皆目見当も付かなかった。その態度に苛立ったのか、1人が勢いよく春樹の胸倉を掴み上げる。
とっさの判断だった。春樹は掴まれた手の首を捻り、足払いを掛けた。ぐわんと男の体がしなる。少しの音も立てず、男は床に寝伏せられた。唖然とする『居残り組』に一瞥をくれると、一礼して春樹は予定通り司令室へと足を進めた。
「わ、仲神くんだ」
「もう少し愛想良ければ男前なのにねえ」
どうしてこのような連中とコミュニケーションを取らなければならないのか、春樹には全く見当が付かなかった。
――GUN日本帝国本部/管制塔/0630時――
「失礼します。大倉本部長より伝言をいただき参りました」
「ああ、ご苦労。座ってくれ」
見回す限りコンピュータ。少々の鉄分と油の臭いから遠ざかった、管制塔にその男はいた。副司令官。総司令官の意を代弁し、総司令官不在時には全ての指揮の執行を担う、権力者である。
管制塔には彼一人しかいなかった。極秘司令か、それとも別の何かか。春樹は丁寧にセッティングされた席の隣へ移動すると、再び直立不動の姿勢へ戻った。
「君に特Sランクの任務を与えたい」
「はい」
無精髭を指先で弄りながら副司令官は春樹を値踏みするように見る。いくら優秀といえど、研修生が任務を遂行することは稀だ。それも特S任務といえば尚更(本来S級任務は部隊長クラスのエースが遂行するものである)。
「この任務には危険が付き纏う。72型BIGFOOTを使用した88人の精鋭が既に命を落とした。選択権は君にある。どうだ、受けてくれるか」
副司令官の眼光が鋭く光る。命と名誉。その二つを天秤に掛けることこそ『精鋭』の使命と言えるだろう。己の目的の為であり、生活の為である。
選択権などは元からない。与えられた任務を忠実に実行する。それ以外に道はなかった。if(もしも)はどこにも存在しないのだから。
「了解しました」
副司令官が重たい溜息を付いた。同時、春樹は目眩に襲われる。――違う。駄目だ。脈絡のない単語ばかりが自分の頭に響くだけで、それは自分の言葉ではないようだった。間違っている。強迫観念にも似たそれが言葉を伝える。
信じるな――と。
「研修生、仲神春樹に命じる。コードCHAOを極秘裏に抹殺せよ。これは特S任務である」
「拝命します」
春樹は敬礼と共に答えた。強い目眩は止まず、彼の脳裏に警笛を鳴らしつづける。
“信じるな”。誰をとも言わず、何をとも言わず、何の例外もなく、たったそれだけの単語が消えては現れる。
管制塔から退室した後も、それはやや続いた。
――GUN日本帝国本部/資料室/0655時――
敵と戦うためには、何よりも先に情報収集が必須といえる。現代戦は最先端武器の性質と物量、および情報量が物を言う。しかもそれは、できうる限り早く済まされなければならない。
武器の物量、技術、情報を敵よりも早く収集した上で、ようやく勝利が確立されるのだ。――が。
ない。どこを探してもコードCHAOに関する調査書はなかった。GUNのデータバンクにすら記載されていない極秘情報。
これまで88人が殉職しているということは、少なくともコードCHAOの居場所や生態を付き止めていてもおかしくはない。戦闘方法や敵の武装が多少なりとも分っているはずだ。ましてGUNの規模は世界に及ぶ。その情報収集能力に限界はない。
だが、ない。コードCHAOに関する調査書。ないのだ。それはつまり、敵の隠蔽工作がより優れているか、GUNに内通者がいるか、もしくは……。
(邪魔な人間を排除するための、コードCHAOというプロセスなのかもしれない)
88人も邪魔な人間がいたということだろうか? 考えれば考えるほど泥沼にはまるようだった。コードCHAOは現時点でアンノウン(正体不明の敵)と何ら変わりはない。
状況を掻い摘んで整理する。春樹は資料室の軽い扉を開けて、辺りに警戒しながら思考を張り巡らせた。コードCHAOが現存する場合、コードCHAOは高い工作能力を持つ。また、その戦闘能力は最新鋭兵器である72型BIGFOOTを凌駕する。
逆に、コードCHAOが現存しない場合。これはほぼ間違いなく、GUN上層部間で何らかの陰謀がはたらいているのだろう。ただ少し気がかりなのは、あの言葉だ。副司令官の命令を拝命したときの、あの奇妙な目眩。
“信じるな”――何を?
「春樹!」
ふと身構える。しかし後ろから声を掛けて来たのは、恐らく一番信用の置ける人物だった。
「どうかなされましたか、軍曹」
「どうかじゃないでしょ。副司令は何て?」
「最高機密です。いくら軍曹とはいえ話すわけにはいきません」
トップシークレット。その言葉に仁恵は目を丸くする。仲神春樹は確かに優秀だが、まだ研修生なのだ。それに年端もいかない少年でもある。普通の生活を送っていれさえすれば、学生生活を満喫している年代だ。
それが、最高機密。いくらなんでも期待を掛け過ぎではないかと仁恵は一瞬思ったが、すぐに撤回した。彼には期待を掛けるだけの価値がある。ならば。
「分かったわ。何か困ったら、いつでも相談して頂戴。良い? あなたはまだ、死んじゃいけないんだからね」
「はい、了解です」
「そうそう、私の叔父さんが監督しているSC計画だけど、叔父があなたに会いたがっていたわ。暇があったら付きあって」
「分かりました」
言いたいことは伝えたとばかりに、仁恵はポニーテールを揺らして去って行く。明朗快活としていて、良い上司だと春樹は思った。やや馴れ馴れしい面はあるが。
春樹は肩の力を抜いた。彼女の期待に応えるためには、任務を成功させる他ない。元々自分の評判が悪いのは知っていた。しかし彼女は風評など気にせず堂々と話し掛けて来る。その恩義を返すには、やはり『優秀な部下だ』と上層部に認めさせることだ。
ここで失敗するわけにはいかない。決意を新たにし、春樹は自分の寮へと戻った。
――GUN日本帝国本部/自室/0715時――
小型のタッチパネルに指紋を付け、認証させる。無反動拳銃(ノンリアクターガン)のロックを解除し、右肩の前に構えながら壁沿いを歩く。
何か気配がする。早速コードCHAOのご登場か。しかし姿は見えない。ソファの陰にでも隠れているのか。それにしては気配が薄い。
人が動くときには必ず音がする。どれほど凄腕の精鋭といえど、それは変わらない。耳を澄ます。感覚を鋭敏にする。
――動いた。
とっさに春樹は身を伏せ、銃口を天上へ向けた。攻撃はない。すぐさまソファに駆け寄り、それを飛び越す。端目にソファの陰を捉えた。着地と同時に振り向く。
誰もいなかった。
「身構えなくていい。ワタシは敵ではない」
背後。春樹の額から冷や汗が流れ落ちる。いなかったはずだ。後ろには、誰も。そのはずなのに。
不可解な言葉だ。敵ではない? どちらにしろ背後を取られている。一か八か――春樹はソファを掴んで後ろへ放り投げると、すぐさま身を捻り返して銃口を向けた。
人の姿はなかった。その代わり、小さな水色の生物がいた。全長50cm程度。頭上に物理法則を無視した球体。呆気にとられ、引き金を引く事も忘れ、春樹は沈黙した。
「ワタシはコードCHAO」
罠か、あるいは。だが殺すつもりなら、先ほどの一瞬で決着は付いていた。春樹の完全なる敗北だ。あの最大の隙を狙わないということは、耳を貸す価値はある。
銃口を向けたまま春樹はその生物を睨みつける。軍曹との約束を反故するわけにはいかない。絶対に、何があろうとも。
「この世界の大自然の意思体であり、GUN日本帝国本部の世界征服計画の要であり、人類を滅ぼそうとする生命体である」
小さな声で、小さな体で、その生物は訴えていた。――信じてくれ、と。
またあの目眩が春樹を襲った。頭の中に知らない人がいて、その人が何かを叫んでいる。信用すべきか否か。全てはその一点。
副司令と対面した時、その声は“信じるな”と言った。しかし今、コードCHAOと名乗る未確認生物と対面している今、それは“信じろ”という。
信じるべきは何か。正体不明のこの声か、GUNか、コードCHAOか。いや、そのどれでもない。信じるべきは自分のみ。他の全ては疑わなければ死ぬのは自分だ。
「信じて欲しい、仲神春樹。誰一人悲しませない為に。誰一人死なせない為に」
銃口が揺らいだ。それはGUNに入る前に決めた事だ。それは間違いなく、自分の信念そのものだった。
コードCHAOが近寄る。対抗手段を持たない。今、目前の敵は自分だ。自分と同じものなのだ。
「ワタシはコードCHAO。協力して欲しい」
「どうして、ボクを知っている?」
沈黙があった。とても長い沈黙。時間にして数秒。やがてコードCHAOが口を開いた。
「ワタシと君は、既に出会っている」