CITY ESCAPE 本編
足元を浸すヘドロに呑まれる夢をたまに見る。
かつて陽の光が行き届いた穏やかな草原で育んだ透明の身体は、いつしか黒ずみ、そして戻らなくなった。
いつか、あの場所に帰る。
そう心の中で宣言した誓いは、もう二度と叶わないことを、僕は自覚しつつあった。
自由気ままな生き物という宣伝とともに、不自由極まりないケージに僕らは閉じ込められ、売られていた。
"綺麗な見た目"を売りにして、ベタベタとした汚い両手に僕らを触らせては、これが至上の癒しなのだと奴らは広告を張った。
ある日、状況は一変した。
僕らが、海外から持ち込まれた危険なウィルスを、その帯水に宿しやすい個体だと知れ渡った。
どこから発生し、誰が伝染させたか?
責任を問われるのを恐れた奴らは、それをCHAOS-29と名付けた。
奴らは掌を返したように、僕らに怒った。
こんな汚染された生物は滅ぼしてしまわなければ。
"綺麗な街"を取り戻そう。
奴らは、奴ら自身の平穏を保つために、次から次へと僕らを手放した。
白い防護服で身を包み、僕らを飼い主の元から連れ出していった。
平和で恒久的な夜の世界に行くんだと、何も知らない友達は言っていた。
もう彼には会えない。そう僕は理解した。
僕は同族と比べて頭がよかった。
自覚は無かったが、僕をケージに閉じ込めた犯人は、黒色に金枠の高級感あふれる広告に、僕をそう書き立てた。
日々、周りのケージの同族とは違う実を食べさせられた。
恨みがましい声が他のケージから聞こえてきた。
僕を特別扱いすることに対する嫌味、否定、"そう"あるべき存在でないという主張。
僕は怒りも、反論もしなかった。
皆、小さな折に囚われ、遠くに逃げることもできない。
自分以外の何かを貶めなければ、自己を否定せざるを得ない。
確かに、それを悟れる程度に、僕は頭が良くなっていった。
隣から、特に攻撃的に、僕を指差して笑っていた奴がいた。
自らが金色であることだけを誇りに思っていた。
値札のゼロは、僕よりも3つだけ少なかった。
ある日、彼は買われていった。
眼光の鋭い男と、見下したような視線の女と、甲高い声で泣き喚く子供。
皆揃って、髪は金色で、顔にも金色の何かを埋め込んでいるようだった。
汚いと、思った。
これなら隣にいる同族の肌の方が断然綺麗だと、僕は確信した。
けれど彼は、彼らに買われることに喜びを抱いているようだった。
ゆっくりと隣のケージが開かれる。
束縛から解放、解放から束縛へ。
彼の、得意げに僕を一瞥した視線と、彼らを見上げる愛情を懇願する視線は、どちらも、未だに忘れることはできない。
――飼い主が見つかって、良かったね。
始めて、僕から彼に声を掛けた。
言葉にちゃんと意図通りに感情が籠っていたかは、自信がない。
知らなくてもいことを、知ってしまうという恐怖を、僕は僕を叩く彼らにも味わってもらいたいと考えたことは無い。
考えたとして、理解はきっとできない。
先天的に持ったもの。
持たざる者にとっての、永遠の憧れ。
もし僕が持つIQが着脱式だとして、頭が悪い彼らは、きっとそれを被るだろう。
数週間の後、彼らは全知全能を振絞り、それが二度と手に入らないようにする手はずを整え、最後にそっと、それを脱ぎ捨てるのだろう。
彼はニヤリと笑った。
それが、僕が彼を見た最後の瞬間となることを、僕は理解していた。
それから数週間の後に、僕もついに檻から解放される時が来た。
高額なだけあって、僕を買った人間は、それなりに身なりの良さが伺えた。
髪は黒、肌は何もつけていない。
だが、煌びやかさを出さないがゆえに、僕には優雅に輝いているように見えた。
いつもなら素手で触れていた僕を、店主は仰々しくも手袋を嵌めて取り出した。
僕を買いに来た2人のうち、年長者の男が僕を見定めた。
店主のセールストークを右から左に受け流しながら、妙齢の女性――娘だろうか?――に気を遣いながら、しかし眼光は真っ直ぐに、鋭く、僕の方に向いていた。
僕を値踏みしているのだと、すぐに悟った。
そうだろう、信用していないだろう?
取って飾ったような宣伝文句も、そこの男――今だけ高級な取り扱いをする商売人を、貴方は信用できないだろう?
きっと届いていない言葉を、だからこそ堂々と目の前の彼に問いかける。
――わあ、この子、何か話しているよ。
――可愛い。
――ねえ、この子にしよう。
――私、この子を飼いたい。
娘が、見たくれとは裏腹に、子供のようにはしゃぎながら、父親の腕を取る。
やはり、届きはしない。
あちらからすれば、僕の言葉は"ちゃっちゃ"と騒ぎ立てるようにしか聞こえないはずだ。
きっと、彼女が僕の本質を見抜いたとは思わない。
父親にしても、どんなに睨んだとて、僕の価値を判別できたとは思えない。
……けれど彼女の一言の後、彼が僕を見る目は、何故だか少しだけ、柔らかくなったような気がした。
――よいでしょう。
――買います。
交渉は纏まった。
ケージが開かれ、よく手入れの行き届いた彼女の指が、僕の頬に触れる。
不意に騒がしい音が消え、僕はあたりを見回した。
じっと、周りから、視線が集まっていた。
いつものような罵りも無く、感情を失ったかのように、ただ茫然と、微動だにすることなく、仲間は僕を見つめ続けていた。
いつものように、僕は罵られて見送られると思っていた。
同時に、これまでの暴言では決して感じなかった悲しみや苦しみが、どっ、と僕の心に襲い掛かってくるようだった。
――そんなに緊張しないで。今日からよろしくね。
何も知らない彼女は、綺麗に手入れのされた指で僕の頬をそっと触れた。
暖かかった。
今凍りかけた何かが、さっと融解していくのを心で感じることができた。
夜明け。
そう。僕の記憶という名の一日の中で、ただ一つだけ取っておきたい、優しい陽だまりに包まれた朝の時間が、その日から始まった。
――人間だ!
キンキンキンキンキン!
仲間の叫びと、けたたましく鳴り響く金属音と、僕は我に返る。
慌てて、隣で未だに惰眠を無駄ぼる奴の腹を蹴り飛ばす。
いってぇ、とうずくまることを許さず、僕は腕を引っ張り上げる。
――逃げるぞ。
――人間だ。
べとべととした地下行路をひた走り、僕らは人間から逃げる。
隣で腹をさすりながら並走する奴は……本当は見逃しても良かったのだが、こうして逃げ始めてから二年間、ずっと近くにいたから今更置き去りにしたくてもできなくなってしまった。
キンキンキンキンキン!
何かの音が鳴る。
刃物か、飛び道具か、ロボットか、それとも別の何かか?
音の正体に心当たりはいくつかあるが、絞り込むことは出来ない。
奴らは、僕らが上手く逃げ回ることにかこつけて、まるで狩りを楽しむかのように、次から次へと僕らを捕まえ、殺すための手段を作り出した。
街から盗み出した実の中には、食べた瞬間僕らを溶かす毒薬が仕込んでいることも有った。
シルエットを僕らのように見せかけ、僕らを巻き込んで自爆する自律機動兵器は大分前から投入されている。
オモチャオ。
僕は人間の言葉はおおよそ知っている。
語源を理解して、そして、彼らが、僕らを殺すのは、ただ単純に生き残るためだけではないと理解した。
伝染病で閉塞感を打破する風穴を、僕らの身体の中心に空けたがっているのだ。
とにかく逃げることが優先だった。
何が迫ってきているのか、考えたくも無かった。
それを知った時が、僕らの死ぬ時なのだ。
人間が通れそうな道の側面に小さな穴が有って、そこに飛び込む。
僕らとは別の仲間が、こちらとは反対方向の穴に逃げ込む。
その直後、逃げ遅れたと思われた奴がスッとその穴に入り込む。
いや、逃げ遅れたのではなかった。
追いかけてきたのだ。
――あああ!
――オモチャオだ!
刹那、爆音と断末魔が穴から吹き出し、音の逃げ道がない、狭い空間に反響した。
呻きが、何層にも連なって、僕の聴覚を刺激する。
いつ聞いても、慣れない。
昨日まで割と仲良くしていた仲間は、その瞬間消えてしまった。
僕らは音をたてないように、狭い空間を移動する。
人間が来ずとも、奴はやってくる。
気付かれたときが最後、僕らは祈るしかない。
――あ、ティカル様の護符、あの場所に忘れた。
何も持っていない両手を僕に見せびらかす。
とぼけた口調――こいつにとってはいつもの態度なのだが、よりにもよって匍匐前進しているときに、そんな話題で会話を始めなくてもいいだろう、とは思う。
――今更なんだ、見たことも会ったことも無い神が僕らを救ってくれるものか。
――そうなのか。
――今、まさに、そうだろう。
――んーまあ、じゃあ、いいか、お前の言うことは聞くよ。お前、昔から頭いいもんな。
何も考えて無さそうな顔で、にんまりと笑う。
僕も釣られて、苦笑いを浮かべてしまう。
張り詰めた状況だというのに、こいつと話を交わすと、僕の心は落ち着く。
ペースはその都度乱されるし、イラつきもするが、今もこうして引っ張り連れてきている自分を鑑みるのに、こいつは僕の平常心を保つのに必要なのだと理解する。
こいつの性格は、かつての僕の飼い主と、よく似ているのだ。
お気楽で、悪いことは聞いたことも見たことも無いような、無邪気な精神。
ふわりふわりといつも考えすぎる僕の周りをうろついては、たまに思いついたかのように僕にちょっかいをかけてくる。
思えば、あの瞬間も、僕にとっては幸せだったのだ。
もっと、可愛げある態度で、彼女に構われていればよかったと、少しだけ後悔する。
――お前、サッカーの意味も教えてくれたもんな。
イヤな金属音も途絶え、小休止していた時に、彼が呟く。
そんな些事を口にする場面でも無いだろうに、僕も自然と彼に耳を傾ける。
――覚えているなら、復唱して見ろよ。
――サッカーはボールを蹴る遊び。
――そうだ。
――僕らを蹴る遊びじゃない。
――……そうだ。
コンクリート製の管を抜け出し、外に出る。
人間の街にはしばしば、都会と呼ばれる地方の中にも、隠れるには都合の良い小さな森が広がっている。
少しだけ走って、近くの川が滞留してる場所に飛び込む。
少しだけ匂いが鼻をつくが、先ほどまでたむろしていた場所よりは遥かにマシだった。
冷たい水を感じる。
もう元には戻らない黒い水で作られた体に、わずかながらの潤いが戻る。
川辺の、岩に包まれ見えにくくなった場所に、二体、身体を仰向けにして、空を見る。
月が見える。
星も少しばかり瞬いているように見える。
赤い光は、星ではなく飛行機なのだと、昔飼い主に教えて貰ったことが有る。
白い靄のような光が満ちているのは、ここが都会だからと、これも彼女がそう愚痴っていたから、よく覚えている。
殆ど把握されている僕らの動きの中で、唯一まだ全体をとらえきれていない場所が、この森だ。
今だけは、まだここで自由に休むことができる。
もちろん、数日後は分からないが。
――お前の身体、やっぱり綺麗だな。
――嫌味か?
――褒めているんだけどな。頭が良いと、何でも悪口に聞こえてしまうのか?
――……。
月明かりに照らされた互いの身体を見遣る。
綺麗なんてことは無い。もう立派に、僕らの頭に浮かぶそれは、ギザギザに尖っている。
僕らがこうなるのは、良い人間に悪く扱われるのが原因だと、どこかで仲間に教えて貰ったことが有る。
悪い奴が悪く扱うと、こうはならないんじゃないか。
そう疑問に思っていたこともあったが、ある日気づいた。
僕らは、どんなに心の底で奴らを憎んだとして、心の底では、奴らが僕らに希望や幸福をもたらしてくれるものだと信じていたのだ。
頼らなければ、何物にもなれず、どこにおいても生き抜いていけない僕らに、救いをもたらしてくれると信仰していたのだ。
どんなに理不尽でも、どんなに苦しくても、僕らにはあの人たちしかいないのだと。
――……僕は昔、身体が金色だった。
隣にいた奴が、うつらうつらとしながら、僕に囁きかけてきた。
僕は何も言わず、黙って、明るい夜空を見る。
――俺は生まれ持っての金色なのだと、そう信じていた。
――でも、全部嘘だったんだな。
あの人たちに足で蹴られた。
壁に、モノにぶつかるたび、俺は削れていった。
そうして、ふと、僕が鏡を見たとき、すべて分かったんだ。
剥き出しになった僕の正体は、空洞だった。
何もない透明だった。
――僕は金色のお父さんがいたらしいんだ。
そうしたら、誰だって僕も金色に生まれることを期待するじゃないか。
僕だって、同じ立場だったら、そう考えたさ。
でも、僕は空洞だった。がらんどうの無色だった。
もちろん、そのままだと僕の卵を飼った意味が無いから、店長さんは、僕を塗りたくった。
俺は、そうして金色になった。
けれど、俺は、安かった。
安いのには理由があった。
何の価値も無い。価値を与えられるような機会すらない。
そんな存在に、上っ面だけ整えた人工物に、人は飛びつかないんだ。
だって、そうだろう。
実際、俺は何も持っていなかったんだから。
今ならそれが分かるよ。
それでもあのときは、俺は自分が金色であることに疑いを抱かなかったし、それを暴こうとする存在には攻撃的になった。
だから、俺は虚勢を張った。だから、君を罵倒した。
誰かに知ってもらわないと、認めて貰わないといけなかった。
そうしないと空洞は、それが空洞であると、誰も認識してくれないからね。
――全てが分かって、後悔できて、僕に打ち明けられるなら、やっぱりお前も頭は良いよ。
――いいわけあるか。
――あるさ。本当の空洞は、何も考えないから。
――……それが僕にはさっぱり、わかんないな。
僕の難しい言い回しについていく気も無く、目を逸らされる。
かつて隣でやかましく僕を攻撃するこいつと、君を連れて行った人間を見比べて、こいつの方が綺麗だと思った。
その金色が上塗りだと知ってなお、そう思った。
どうしてか、逃げる間に気づいた。
何もない、無色透明な身体は、美しい。
僕みたいな雑味ばかりの複雑な色を持つ奴らを、優しく包んでくれるのだと。
――捨てなさい。
ある朝、飼い主の父は僕を膝に抱く彼女にそう言い放った。
もちろん、彼女は抵抗した。僕柔らかい体が、強張った彼女の身体に強く抱かれる。
――頼む、言うことを聞いてくれ。
僕は只一体、冷静に彼の視線を捉えた。
苦渋入り混じる表情に、僕はすべてを悟った。
彼女は僕を室内に飼って、彼女もまた室内にずっと閉じこもっていた。
あの日も、彼女はマスクをして、良く暖かい服装をして、僕を連れ出した。
きっと、いや確実に、あの一日だけが、父が娘の我儘を聞いた唯一の日だったのだ。
彼女は僕を連れ、僕を抱く心の強さとは裏腹に、今すぐにでもバラバラになって、空洞になってしまいそうなほどに身体は弱いことを、僕は確信していた。
そして、僕は保菌者となりうる存在だった。
CHAOS-29は、僕を犯し、僕はそのとき確実に、彼女を殺すのだろう。
彼女はまた、彼の苦しみを知っていた。
彼女にとっての楽しみは、唯一と言っていいほどに僕だった。
それ以外は、義務だった。
彼が、彼女を想うが故の、義務だったが、しかし、現実は彼女の負担だった。
それを開放する存在は、ただ僕だけだった。
僕に固執する理由は、彼も、飼い主も、買われている僕も知る由は無い。
でも、人間は得てして、好みが分散し、何か2つ3つの物事に対して、異常な関心を示す。
彼女にとって、それは僕であり、僕だけだった。
それでも、彼女は悩んでいるようだった。
強固に守られた屋敷のカーテンと、僕を抱いて眠る白昼夢の間に想いを漂わせ、日がな一日迷い続けているようだった。
飼い主の母と呼ばれる存在は、すでに他界していた。
彼女にとって、他人でない存在は、彼だけだった。
彼女は、そんな彼を苦しめている原因が自分にあると感じているようだった。
実際そうだった。仕方ないことだ。
僕は冷淡に事実を見つめるように努めた。
いずれ来る日をただ待っていた。
ある夜、飼い主は彼女の父に許可も取らず、家を出た。
外に出れば君もCHAOS-29に晒されることになると忠告したが、聞き入れてくれなかった。
否、初めから、会話などできた試しは無かった。
彼女は車を無断で発進させた。
明日、僕は業者と呼ばれる奴らに連れていかれることを、彼女は受諾した。
僕はそれを何となく察して、最後くらいは愛嬌を見せようかと考えているところだった。
もうずっと昔のことのように感じる。
今見れば、何も変わっていない、だが、確実に同じではなかったこの森に、彼女は僕を連れ出した。
車の扉が開かれ、僕は再び檻から解き放たれた。
だが、そんな狭い空間だったはずの場所に戻れないことを悟った瞬間、僕は何故だか、言葉にできないような寂寞感に襲われた。
一日が過ぎ、朝が過ぎ、昼を超し、夕方になり、夜が来る。
また、夜が来る。
長い長い夜が。
それはかつて、眩い蛍光灯の下で僕らを包んていた暗闇だったはずなのに、僕はそこに再び放り込まれることに恐怖を感じた。
――逃げて。
彼女の、これまで聞いたことの無い、感情の押し籠った声が僕を突き放そうとする。
僕は頭が良い。
だから、ここで黙って去ればよかった。
動けなかった。
動けずに、じっと、彼女を見上げた。
彼女が何を考えているか、僕はすべて理解しているはずだったのに、僕は意味不明にも、彼女がどんな表情で何を考えているかを知ろうとした。
もう二度と会えないという事実が、ここまで空虚であることを認めたくなかった。
後悔が、僕を次々と襲った。
もっと、素直であればよかった。
もっと、純粋であればよかった。
もっと、人を疑わずにいればよかった。
もっと、彼女を好きになっていればよかった。
もっと、彼女を無意味にでも信用していればよかった。
もっと、僕が、頭が悪ければよかった。
――逃げて!
その瞬間、僕らがいた近くに、強烈な衝撃が撃ち込まれる。
僕は、隣にいた奴に蹴られ、無理矢理起こされて、走らされる。
――逃げろ、振り向かず、逃げろ!
肩を取り、全速力で短い脚をばたつかせ、僕らは逃げる。
オモチャオが、僕らを捉えたようだった。
また一つ、改造されていた。僕らを殺す手段を一つ増やしていた。
轟音が響いた。
じきに、奴らもこちらにやってくる。
――二手に分かれよう。
――は?
――僕は街の方に走る。君はもっと高い方に逃げるんだ。
岩陰に隠れたところで、こいつはそう提案した。
僕は、どうしてか、無意識に首を振った。
だが、こいつはいつものように無邪気に笑って、僕の肩をポンと押し退けた。
僕はたとえ、人が僕を痛めつけることが分かっていても、街に帰る。
あの子が、僕と同じように"サッカー"で蹴られていたあの子が、気になるから。
――僕は、助けなくちゃいけない。
――透明な導きになって、彼女を連れ出さなくちゃいけない。
――僕はきっと、そのために生まれてきたんだ。
突然、彼は走り出した。
――でも今は、この金色が必要だ。
僕はとっさに手を伸ばそうとした。
でも、それではオモチャオの餌食になると、それを引っ込めた。
一瞬の判断は正確で、奴は確実に走り出した彼に狙いを定めた。
僕は静かにしている限り、このままやり過ごせるだろう。
僕は、己の頭の良さを、呪った。
キラキラと、月明かりの下で踊るように、彼は所々剥げかけた金色を見せびらかすようにオモチャオの前に対峙した。
また走り出した。
少しずつ、確実に、彼は僕から離れ、街へと戻ろうとしている。
――どうだ、オモチャオ、俺はここにいるぞ!
――俺は、空洞なんかじゃない!
――俺は、嘘なんかじゃない!
――俺は、金色なんだ!
――俺は、ここで、生きているんだ!
そうして、影は爆音とともに次第に小さくなる。
僕は動けなかった。動かなかった。動く度胸も無かった。
ただ、辛く、苦しく、岩陰に突っ伏した。
もういい。
僕の中で、何かがはじけ飛ぼうとしていた。
もう終わらせてやる。
そう思い立った。やけくそだった。でも、確かに僕の意思は固かった。
――うおおおおおおおお!
俺は走った。
街に背を向け、振り返らず、俺は雄たけびを上げ、走り始めた。
もうどうにでもなることを期待した。
もし、彼が言うティカル神が俺を見ているなら、きっと見逃してくれるだろう。
そんな、いつも荒唐無稽と考えていた思考を巡らせながら、俺は坂を駆け上がった。
――来い、オモチャオ、俺を殺せ!
――殺せ、殺せよお!俺を殺せええええええええ!
草を切る。
ブッシュを壊す。
木々の間を駆け抜ける
俺は星空に照らされながら、夜風と共に走る。
キンキンキンキンキン!
けたたましく、嫌悪感のある音が近づいてくる。
いつの間にか俺にターゲットを移し、戻ってきたオモチャオの姿が視界の端に見える。
何者かのキラキラと光る残片を身体に纏わせながら、俺に照準を合わせていた。
――ああああああああああ!
ドン!と言って、俺の手が壊れる。
いつか彼女に優しく握られた手が、真っ暗な森の中に消える。
それでも僕は走る。
――あああああ!
ドン!と言って、俺の足が壊れる。
いつか彼女の前で踊り、床を踏み鳴らした足が、黒い泥の中に溶ける。
それでも僕は這いつくばる。
――あああっ……。
ドン!と言って、俺の顔の半分が吹き飛ぶ。
いつか彼女の指でなぞられた感触が、鋭い冷気の霧と消える。
それでも僕は前を向く。
――……、あっ。
そして、次の轟音が頭の中に鳴り響いたとき、僕は空中に一回転した。
くるりと身体を折り畳み、僕は僕を覗き込んだ。
千切れかけた自らの身体から、見えるはずのない夜空が見えた。
――この街には、私が欲しいものは無いの。
彼女はきゅっと僕を抱き寄せて、同じ話を始めた。
――楽しいムード、何にもない。
――みんな同じルート。
――私がちょっとでも変なことをすると、みんなケラケラ私をからかうの。
ベッドの上、薄闇の中。
僕は抱き枕になりながら、退屈な気分になりながら彼女の目を見る。
――今、もういい加減、同じ話は止めてくれって思ったでしょう?
図星を付かれて、僕は一瞬動揺する。
彼女らと同じ人間ではないと分かっていても、瞳孔が開いたかもしれないを少し焦る。
けれど、彼女はそんな表面よりもずっと奥にいる僕の本質を見ているようだった。
――貴方は、頭がとってもいいんだよね。
――知ってるよ。出会った時からずっと、お利口さんだったもんね。
――本当のことを言うとね。
――私も、お父さんの前にいるときより、もうちょっと賢いんだよ。
きっと、僕をそう断定する明確な理由が、具体的な証拠が有るわけではないのだろう。
それでも確実に、彼女は僕を理解し、確信をもって、僕を再び抱き寄せた。
――私はね。
そう切り出して、彼女は僕に語り掛けるように、柔らかい布団に包まれながら、独り言を続ける。
私は、私が言うことを機械のように頷き、肯定してくれる人は要らない。
私は、私が言うことを理解して、否定してくれる人は要らない。
ただ、受け止めて。
それで、私のこと、覚えていて欲しい。
それができるなら、貴方が何者であっても良い。
チャオっていう可愛い生き物でも。
はたまた、危険なウィルスを持つ化物だったとしても。
そう言った後、彼女は僕の頭を胸の真ん中に押し付ける。
湿り気のある熱と、ドクンドクンと一定の間隔でゆっくり刻まれる響きが僕の頭の中に伝わってくる。
――この熱と鼓動は、私の魂がここにある証拠。
――私が、ここにいること、ここで生きていたことを、忘れないでね。
――それさえ守ってくれるなら、貴方はいつまでも、貴方自身の気が済むまで、ここにいて良いんだからね。
――ずっと、一緒に。
記憶の中から、熱と鼓動が戻ってくる。
それぞれが僕に、本来であれば与えられるはずのない命を与えてくれたような気がした。
夜風が吹く。
ぶわっと、目の前の炎が揺れ、燃え盛り、消えることを知らない。
オモチャオだったものは、無機質な目で、僕のことをじっと見つめてくるようだ。
だが、もう動きだすことは無い。
記憶には無いが、だが、確かに、それを僕は確信した。
森の最深部からは、街の光は届かないようだった。
月が見え、星が瞬いていた。
近くの岸壁から、一凛の花が咲いていた。
夜の心もとない自然の光ではなく、ハッキリとした青い光にそれは彩られていた。
僕はオモチャオのまき散らした油だまりに視線を落とした。
僕もまた、無機質な目に変性し、ツノが伸びていた。
そして、頭の上に、半永久的に灯され続けられるような青白く強い炎が灯されていた。
僕は、かつて夢に見たヘドロによって、全て飲み込まれてしまったことを悟った。
僕は完成したのだろう。
もう自然に消えることも無ければ、弱く逃げるだけの存在でもない。
きっと、これから、僕は人間をたくさん病に冒していくのだと、何となく理解した。
僕はそのまま山を登り続けた。
登りながら、自分がここにいる意味を考えた。
街に戻る理由も無ければ、街から戻る理由も無くなった。
どちらにしろ、飼い主の元には帰ることは出来ない。
それは彼女を殺すことと同義だ。
――それでも、一度だけでも。
僕は何故だか、あの場所に戻りたいと強く渇望した。
それが自分にとって、相手にとって不幸になることを分かっているはずなのだ。
けれど、あの時、僕を守り、誰かを守ろうとして走り出した彼の背中を追って、僕も猛烈に帰りたいと望んでいた。
――まだ僕は、あの人に、何も伝えられていない。
予想よりも早く、僕は頂上にたどり着いた。
木々が無く、解放された空間から、僕は静かに街を見下ろした。
夜空の星に負けず劣らず、いくつもの無数の光が輝き、そこで人間が生きていることを知らせているようだった。
近くで見ればあんなにも醜く、悩み深い生き物が創り出す一瞬の幻想。
あれほど逃げ出したいと、何度も強く想っていた街に僕は気を取られた。
しばらく、僕はその光景を、山の上から見下ろしていた。
偽りであっても。
求めずとも手に入れたものであっても。
空洞であっても。
理解されないものであったとしても。
すべて、一つの大きな塊となり、僕がかつて住んでいた街は、美しく輝いていた。
――もう一度だけ、会いに行こう。
――それを、飼い主は、この街は、きっと、許してくれるだろう。
連日、人が倒れていくニュースが流れ続けている。
収束が見えず、疲労を隠さない人たちの顔を見て、私の心も痛い。
あの日、街を出たことをこっぴどく叱られた私は、更に外出を制約された。
でも、結局、私も同じ病魔に伏せることになった。
幸いにして、状態は良くもならず、悪くもならない。
額の取れない熱に手の甲を当てながら、ずっとベッドの上で、一人空想に耽っている程度の状態を保っていた。
けれど、最近は、少しだけネガティブだ。
私はいつか、一人になるのだろうかと、考えることが多くなった。
父がこの世を去れば、私は世間を知らない女として軽んじられ、騙そうとし、奪うのではないかという想像が、ずっと私の頭を駆け巡っている。
本当は、あの子と一緒に、私も街から逃げ出したかった。
たとえ途中で、病気や空腹や事故で倒れたとしても、それで良かった。
けれど、私は怖かった。
同時に、あの子ならやっていけると私は分かっていた。
私は弱く、それを知るほどには、私は頭が良かった。
私は自らの意思で、この檻に囚われていることを、よく理解していた。
あの子は、ちゃんと逃げきれているだろうか?
自分の手で突き放したくせに、善人ぶるなと言い聞かせながら、あの子を思い遣る。
人間ではなく、話が通じているかも分からない相手なのに、これまで生きてきた中で、一番通じ合っていると信じて疑うことは無かった。
あの子は私と似ていると、初めて触れ合った時から、そう感じていた。
でも、あんな独り言は、無いよなあ。
私はペット相手に本気で語っていたことが今更恥ずかしくなって、ゴロンと寝返りをして、窓の外を見る。
――……あれ?
窓の外、すっかり秋に色づいた木の枝の上で、何かが立ってこちらを見ていた。
真っ黒な物体。
でもそれはカラスでも無ければ、黒猫でもない。
青白い炎を頭の上に湛えた、これまで見たことも無い何かだった。
本当に、化物がやって来たのだろうか。
そう思いながら、心臓は思ったほど恐怖に慄いてはいないようだった。
むしろ、いつか、熱を伝えあった、大切なペットが戻ってきたような気さえした。
――貴方なの……?
窓の向こうの彼は無表情で、かつ、何も言わずにしばらく私を見つめていた。
私は窓に近づく。
――あっ!
瞬間、彼は少し慌てたように、そのまま私に背を向け、どこか遠くに飛び去って行く。
私はそのまま、窓際に走り、彼が消えた方角に目を向ける。
けれど、そこに彼の姿はもう無かった。
私はガッカリしながら、あの子の止まっていた枝に目をやる。
すると、葉っぱとは別の、何かの花が括り付けているのに気が付いた。
ちょっとだけ、見覚えのある花だった。
私は首を傾げながら、子供の時以来ずっと棚に仕舞ったままだった花図鑑を取り出した。
私はベッドに座り、目的の花を見つけ出す。
そして、文字を追っていくうちに、私は確信した。
――なあんだ。
――やっぱり、貴方は、頭がとってもいいんだね。
彼女はそっと微笑んだ。
枝先に不器用な形で括り付けられた数本の紫苑が、彼女のいる方角に向けて、慎ましやかに花を咲かせていた。