まるで水の中に潜るように、なるべく止めていた呼吸を再開する。
無意識に深呼吸のような遅く、そして一度に吸い込む量が多い呼吸になる。
腕時計に目線を移す。
滞在時間約2分。上出来だ。
そして、傘を差す前に、暗い空に向かって何かを叫んでやりたい。
なんでもいいから叫べば、少しはこのストレスも解消されるだろう。
何を叫ぼうか。
叫ぶ自分を想像しながら深く息を吸い込む。
よし。
腹部に力を込め、口を開く。
「定年退職のばかやろぉー」
私は口を開いたまま固まった。
横を見ると、白衣を着たじいさんがいた。
手で筒を作り、それを口に当てていた。
たぶん、今叫んだのはこいつだろう。
その姿を確認してから、私は急遽セリフと音量を変更して音声を発した。
「はあ?」
「いやあ由美ちゃん怖いねえ。鬼みたいだ」
けらけらとそのじいさんは笑う。
20代の女性に対して鬼と言うか。このじじいは。
右手が痛いほどに力が入る。
ストレスの溜まっている私だったが、それはまるでハムスターがひまわりの種を食べるかのごとく自然に微笑むことができた。
「ここなら救急車を呼ぶ必要もないですね」
「昔はかわいかったのになあ。大人になるって怖いなあ。暴力覚えるし」
殴ってやる。
大人になるって怖いなあの途中で物理的に口封じできると思ったが、このじいさんは早口で言いたいことを言い終えてから殴られた。
くひひひ、と気持ちの悪い笑い声を上げながら殴られたところを手で押さえている。
「数十年前に会ってたら俺惚れてたわ」
「黙れくそじじい」
もう一度殴る。
今度は腹だ。
私は容赦しない。病人以外には。
「そのうち自分もまともに人殴れない年になるんだから少しは年寄りに優しくしたらどうだい」
「まだ若いです私」
「昔は子供じゃないなんて騒いでたのに、年頃の女の子はわからんなあ」
そう言ってけらけら笑う。
「で、仕事しなくていいんですか。花咲かじいさん」
花咲かじいさんとは、このじいさんのあだ名である。
苗字が花坂であることと、もういい年の、定年退職の事を意識するくらいのじいさんであることからそう呼ばれている。
「えー、なんだ、その。あれだ。サボタージュ」
「働けくそじいさん」
「由美ちゃんこそちゃんと働いたらどうだ。看護婦なんだし」
「私のこれは仕事です。あと最近は看護師というのが一般的です」
「わしの頃は看護婦だったからいいじゃないか。もう少しチャオみたく純粋になったらどうだね」
そう言って、花咲かじいさんはチャオガーデンのドアを開けた。
私は溜め息をついて、傘を開く。
「由美ちゃんも一緒にどうだい。サボタージュ」
「私がチャオ嫌いなの知ってるでしょう」
「昔は大好きだったじゃないか。ほら、それこそ病気でも何でもないのによくここに」
私は早足で立ち去る。
あまりにも速く歩くことを意識しすぎていたせいで水たまりに足を突っ込んだ。
水が飛び散って服を少し濡らす。
今日は運が悪いと思いながらも、私は懲りずに早足のまま病院へと戻ることにした。

このページについて
掲載号
週刊チャオ第329号
ページ番号
2 / 3
この作品について
タイトル
カオスチャオなんか大嫌い
作者
スマッシュ
初回掲載
週刊チャオ第329号
最終掲載
週刊チャオ第330号
連載期間
約8日