雨の降る音と、傘が雨をはじく音とで、まるで聞こえていなかったが、足元ではねる水は相当の量であった。
それがわかったのは、私の足元がずぶぬれになっていたのに気付いた時だった。
濡れている足が気持ち悪かったから、なるべく早足でナースステーションまで駆け込む。
「由美さあああああん!」
ナースステーションに入るなり何かが抱きついてくる。
確か、新しく入った、美里とかいうやつだったと思う。
「え、何?」
私はどうしたらいいのかわからず、とりあえず濡れた両足を少し後ろにやっていた。
それに構わず美里は顔を上げる。
「ライトカオスがこの病院にいるって本当ですか!?」
目が輝いている。
「ああ、いるね。ここ、チャオガーデンがあるだろ?そこにずっと前からいるよ」
そう言うと、きゃー、と悲鳴のような大きい声を上げた。
「すごいです!すごいですー!」
そう言って暴れまわる。
解放された私はタオルを取ってストッキングごしに足を拭く。
何がすごいのか、彼女はジャンプして天井に手をつかせようと試みたり、走り回って机にぶつかったりしていた。
激しく揺れるロングヘアーが半回転してこちらを向いた。
「私、考えたんです」
こちらを向くなり激しい動きは止まり、そいつは腕を組んだ。
表情も一転し、ひきしまる。ただ、口元のみが少し吊り上っていた。
「そのライトカオスをチャオレースに参加させようって」
「え」
「そして、ライトカオスを一位にして、皆に勇気を与えるんです!!」
美里の目は眩しかった。
私は顔を逸らして、足を拭くのに集中する。
無理だ。そんなこと。
「そう。がんばって」
「はい!」
威勢の良い返事が聞こえ、その後すぐにどたばたと騒音が発生する。
一通り足を拭き終えて、私はタオルを机に放り投げる。
見回すと、美里はいなくなっていた。
もう一度念入りに確認してから、私は溜め息をついた。二回。
「あの子、昔の由美ちゃんみたいね」
別の看護師が、私に言った。
その看護師は随分長いこと看護師をやっている。
もう若さから遠ざかっている。
その証拠にその眼差しは美里のような目ではなく、むしろそのような目をした人を見守るようなものになっている。
彼女も昔はあちら側の人間だった時代があった。
そんな風に、記憶している。
そんなことが私にわかるくらいだ。
不覚にも昔からよくここに来ていた私のことをかなり知っている。
「あんな風に夢を見られるなんて素敵ね。大人になってもあんな事言えるなんて、素敵な子よねえ」
羨ましそうな声を出している。
溜め息をついて、私の方をしばらく見て、何かを言おうとした。
ナースコール。
「夢が見れたところで、あいつがチャオレースで一位になんてなれませんよ」
私はそう言って、立ち上がる。
患者の所に行くにしても、行かないにしても、ここから出たかった。
さっき言われかけた言葉を聞く気にはなれなかった。

いつの間にか、コーヒーがおいしいと感じるようになっていた。
暇になって、私は椅子に座って、缶コーヒーを傾けていた。
コーヒーが大人の飲む飲み物であるという印象があるのと同じように、
夢を見ることは子供の象徴なのだと思う。
もう夢を見る年齢ではなくなったのだ。
大人になるということは、そういうことだ。
このコーヒーのような自由は増える。
けれども、できなくなってしまうことだってある。
夢を見る、なんてことはそれなのだろう。
現実を安全に生きていくのに、夢なんてものは余分なものでしかない。
夢は所詮夢でしかなく、現実ではない。
夢で生きていくことなんてできないのだ。
そのことがわかったのは、私が大人になろうと決意して間もない頃だったろうか。
それとも、そうであると気付いたからこそ大人になろうと思ったのだろうか。
とにかく、子どもとしての私はそこで終わった。
結果として、それが私とチャオとの決別となった。
「チャオレースっていうのはさ、ただ速いってだけじゃ駄目なんだ」
彼はそう言った。
私は彼の話していることがとにかく凄いことのようにしか聞こえていなかった。
「戦略とか、新しい走り方とかが必要なんだ」
私はそれを聞いて、アニメだか漫画だかのような夢物語を想像していた。
昔の私は、とにかく夢を見ていた。
だけども、今ならわかる。
チャオレースはあくまで勝負の世界なのだ。
他のチャオをいかに押しのけるか。
いかに邪魔をするのか。
いかに心身にダメージを与えるか。
そのための戦略や新しい走り方であるのだ。
綺麗事や夢の世界では無い。
たぶん、美里はそういうことを知らないのだろう。
子どもというのは、そういうものだ。
隠されている暗い部分に気付けない。
私だってそうだった。
とにかく明るいものであると信じていた。
自分の世界に暗い部分なんて一欠片もないのだ。
そう信じていた。
私は缶を思いきり傾けて、中に入れられている黒を全て体内に入れた。

このページについて
掲載号
週刊チャオ第330号
ページ番号
3 / 3
この作品について
タイトル
カオスチャオなんか大嫌い
作者
スマッシュ
初回掲載
週刊チャオ第329号
最終掲載
週刊チャオ第330号
連載期間
約8日