(2) オバ
チャオワールドが消滅したのは自然の摂理であった。"案山子"による襲撃が起因したのは事実である。しかしチャオの滅びたチャオワールドが崩壊するのは至極まっとうなことなのだった。人のいない地球に文化はありえないことと同義。チャオのいないチャオワールドは支柱を失い崩れ落ちた。
崩壊を招いたのは"案山子"である。黒い毛糸のマスクを被った集団。ダッシュは身震いした。恐ろしい。思ったのである。本能的な身の危機を感じ取っているせいであった。だが身の危機を感じなくなれば命の危険は増す。いわば生存本能と呼べるものである。ダッシュは警戒を濃くした。しかし安心感はあった。隣を歩くオバの存在が理由である。
「おれは"案山子"の連中を追って来たってわけだ。放っておくとどんどんチャオが消えちまうからな。あいつらとはちょっとした因縁もある」
彼が"案山子"に敵意を抱いているのは知っていた。黒い毛糸のマスクを被ったチャオを問答無用に一突きで殺してしまったオバ。オバは因縁と表した。因縁は途切れることがない。互いの利害関係を無視して繋がるものである。絆。縁。似ている。思ったのである。
水の滴る音が反響する。遠くで泡が弾けるような軽い音がした。洞窟であった。明かりに照らされない洞窟。ダッシュにはかすかにオバの後姿が見えた。見えたはずだが見えていなかった。赤色がわずかに見えている。オバのものかは定かではない。いやオバだろう。ダッシュは推測することをおぼえた。
「おまえも嫌だろ。"案山子"のやつらに自分たちの居場所をぶち壊されるのは。どうだ。おれと一緒に戦わないか。と言っても既に一緒に来ちまってるわけだけど」
嫌ではない。思ったのである。ダッシュの居場所ではなかった。彼らの居場所であったのだ。本物のチャオたち。ダッシュは特異的に生まれてしまったあるいは生まれさせられた非チャオ。そしてオバも同じである。だから剣を扱える。二つの短剣を。しかしダッシュには扱えない。オバとダッシュは違う。チャオではない同士だが違う。
違う部分を数える。物事の感じ方。見方。思い方。やり方。能力。自分に当てはまるものを数える。なかった。オバはダッシュと決定的に違っている。だからこそ価値があった。ダッシュは自身を"商人"の写しである。思っていたのだった。現在はオバから知識することがある。自身は"商人"とオバの複合体であった。あるいは知識能力によって二つの短剣を使うことも可能であるかもしれない。思ったのである。
「いきなり言われても困るよな。おまえには生存本能がないみたいだからなおさら。でも考えてくれ。おれたちは他のチャオを殺さないと生きていけないんだ。おれが戦わなくても向こうから来る。無抵抗で殺されるのは嫌だろ?」
嫌か。ダッシュは答えに窮した。見極めるのは難しいことだった。選択肢は二つある。抵抗して殺されるのが良いのか。抵抗しないで殺されるのが嫌か。魅力的な選択肢はない。だから迷ったのである。ダッシュはまだ生きていたかった。しかし死んでもよかった。だから質問には答えられなかったのだ。
「どこへ行こうとしているんだい」
暗い洞窟を延々と歩く。終わりのない螺旋回廊。しかし目的地はあった。
「おれの仲間のところさ」
ダッシュは質問に失敗した。
「今はどこなんだい」
「チャオワールドとチャオワールドを繋ぐ迷宮だよ。もうすぐおれたちの世界に着く」
帰属意識。ダッシュは思い出していた。"商人"の教えたこと。チャオではないものは自分たちが生まれ育った世界に愛着を持つ習性がある。ダッシュは知らなかった。分からなかった。自身の世界が消滅したが感傷的にはならなかった。身の危機が迫っていたからだろうか。推測は結果を残さなかった。
オバを見た。ダッシュは確認した。そして認識を深める。彼は自身の環境に愛着を持っている。執着を持っていた。自身の世界を消滅させてはならない。使命感にかられていた。オバは正義感に溢れている。思ったのである。ところが思わなかった。彼は自身の世界を守ろうとしているだけであった。まさしく正義ではない。"案山子"と変わらないのだ。ダッシュはオバを少し知った。
泡の弾けるような音は次第に大きくなっていった。洞窟に明かりが差し込む。明かりが強まると音は大きくなる。大きくなるにつれて音は"水の扉"から発せられているのだと気づく。巨大な"水の扉"は無色透明の水であった。水は扉を象る。オバはダッシュは"水の扉"に飛び込んだ。ダッシュは眩しさに目を瞑った。しばらく瞬きをした。すぐに回復する。
砂漠である。オアシスであった。斜めに伸びた木が影をつくる。影にはチャオがいた。しかしたくさんではなかった。数は微少。目算で三から四。一つの姿が建物の中に消えた。恐らく五。非常に高温であったがチャオには無関係だった。チャオではない彼らだからこそさらに無関係だった。
辺りは肌色で埋め尽くされていた。辛うじて緑色と水色が残っている。空は深い青色であった。チャオの園の空と比較して深い青色。濃い青色。太陽は輝きを発していた。ダッシュは眩しさをあまり感じなかった。むしろ熱を感じていた。水面がやや震える。風はなかった。心地よさも。すごしやすさも。落ち着きも。
「おれたちの世界だ。全部のチャオワールドの基になってるって言ってた。よくは知らない。でも悪いところじゃない」
ダッシュは砂を拾って零した。水が零れ落ちる様と似ていた。一滴一滴が一粒一粒に。砂は水なのだ。思ったのである。ニアリー・イコールあるいはノット・イコール。本物のチャオと自分たちの関係に似ている。思ったのであった。
「オバさん! 帰ってきたんですか!」
乾いた空気が震えた。ダッシュは耳鳴りがして顔をしかめた。砂煙が舞う。走って来たのは灰色のチャオだった。赤いタマゴを被っている。オバに対する尊敬の念を表していたがダッシュには分からない。オバは力強く灰色のチャオを叩いた。
「フールの野郎はどうでした? 連れは誰っすか?」
「フールはいなかったよ。あの野郎怯えて隠れてやがる。こいつは」
ダッシュの背中を押す。ダッシュは前のめりになる。しかしダッシュには洞察力がない。オバの親切が分からない。無言で赤いタマゴを被った灰色のチャオの前に立つ。灰色のチャオは動かない。ダッシュを観察しているように見えた。
「ダッシュってんだ。よろしくしてやってくれ」
「こいつは"かぶりもの"なくていいんすか? 暴走したら洒落にならないっすよ!」
「大丈夫だ。こいつには生存本能がない。他のチャオを殺さなくても生きられる。おれたちの"かぶりもの"が必要なくなる日も近いぞ」
灰色のチャオはダッシュの両手を強引に掴む。
「すごいっす! 尊敬します! おれ、レイゾーってんです。よろしくおねがいしますダッシュさん!」
気味が悪い。思ったのである。オバや"商人"とも違う異質な存在感。他人に張り付くことによって自身を保っている。ダッシュは彼から学習できなかった。しかし知識することはできた。他人に張り付く方法である。張り付けば自身は安全である。レイゾーはオバに他人に寄生しているのだ。ダッシュは知識を備蓄していく。
ダッシュの興味は移り変わった。"かぶりもの"である。チャオワールドには多くのかぶりものが存在する。"案山子"であるチャオたちは黒い毛糸のマスクを被っていた。だがオバとレイゾーは赤いタマゴの殻である。何を示す。ダッシュは文脈から推測した。答えはすぐに出た。
「"かぶりもの"には生存本能を消す効果があるのかい」
「いいや。あくまで抑えるだけだ。おれがみんなを殺さないでいられるのはタマゴの殻のお陰ってことさ」
ところがダッシュは"かぶりもの"を必要としない。生存本能の凄惨さを目の当たりにした経験のないダッシュには理解できない凄みだった。理解できないが推測する。"商人"の話。闘争本能。他のチャオを殺してしまう衝動。本能はチャオとチャオではないものの間だけではない。チャオではないもの同士にも作用する。我々は他のチャオと共にいれば命を脅かされてしまう。ゆえの生存本能。
「ほーねっとはどこにいる?」
「ほーねっとさんならいつもの場所ですよ。何か用事があるんですか?」
「少しな。行くぞダッシュ」
オバは歩き出した。ダッシュも歩いた。砂は足をとらえ吸い寄せ体力を徐々に奪っていく。チャオの園とは雲泥の差だ。思ったのである。砂と変わらない色の家をいくつも通り過ぎる。白い家が見えた。ダッシュは興味を抱いた。砂の色だらけのチャオガーデンで一つだけ楕円形の白い家。はぐれものだった。七つのチャオの中にいたダッシュもまたはぐれものだった。
白い家の玄関は引き戸になっていた。引くと擦れる音がした。中は薄暗い。洞窟よりは明るい。しかしダッシュは身の危機を感じなかった。空気が澄んでいる。思ったのだ。純の空気。空間。家具はなかった。絨毯が敷かれているが他には何もない。黄色のカーテンが楕円の中央にかかっていた。何かを匿っているようであった。オバとダッシュは黄色のカーテンの前に立った。
「"願い"に導かれてやって来ましたか、ダッシュさん」
声は色を持っていなかった。物体を通り抜けて聞こえたのである。耳に心地が良い。思ったのである。オバはカーテンを開けた。骨だらけの犬が三匹見えた。奥にはダーク・ノーマルタイプのチャオがいた。目は瞑っていた。口はかすかに開かれている。ベッドに横たわり安らかに眠っている。
「ほーねっと。ダッシュには生存本能がない。どういうことだ?」
「わたしが分かるのは彼が限りなく純粋に近いということだけ。ダッシュさん。この世界。いいえこれらの世界であなたは多くのことを知るでしょう。生存本能もそれらの一つ。"願い"もまた。あなたは知りながら選ばなくてはならない」
ダッシュは知識したが疑問が多く生み出されることとなった。
「"願い"というのはなんなんだい」
「"願い"はただ願い。誰かの願い。わたしたちが生み出されたのもそのためです」
「純粋というのはどういう意味なんだい」
「真のチャオに近いという意味です」
真のチャオ。本物のチャオ。ダッシュは知識し理解した。ダッシュに生存本能がないのは本物のチャオに近いからであったのだ。ダッシュは本物のチャオに近しい位置にいる。他は違う。チャオとは全くの別物なのだ。
ほーねっとは口を噤む。神秘。チャオでありながら彼女は既に多くを知っている。真実に近い。しかし誰も知りえないことである。彼女は世界の歯車を動かす一つであった。世界の歯車にはなれないながらも生きることにより知識を備蓄し続けてきた。成れの果て。
「オバ。あなたの手がかりは彼にはありません。いいえもしかするとあるかもしれない。わたしから言えることは以上です」
オバは悔しがった。オバはダッシュは白い家を出た。黄色のカーテンはひとりでに閉まったのであった。