(1) 商人
純粋の沸き出でる泉はタマゴの殻を吹き出し小さな黄金色のオウムが地を這い草原を駆けるボールと一回り小さなボールが不自然に宙をうごめいて柱の影でチャオが不気味に笑い木馬の近くを転がるチャオは寝息をたてて平和をあらわす和やかな空気が場を包み込む昼下がりのチャオの園。
七つのチャオ。言葉は返ってこない。ダッシュは自分とは違うものであることを肌で感じ取っていた。チャオである。チャオではなかった。ニュートラル・ノーマルタイプである二つはニアリー・イコールで結ばれていた。あるいはノット・イコールであった。
七つのチャオ。行動は期待できない。ダッシュは自分とは違う物体に呼びかける。声は反響しなかった。空は青が支配していた。ダッシュの目には色が零れて映った。
「きみたちはいつも同じことをしているね。楽しいのかい」
呼びかけは徒労だと知る。知っていた。置物は言葉を返さない。一定の行動をリピートすることをプログラムされた機械である。繰り返し呼びかける。言葉は返らない。
無駄を分かった。ダッシュは諦めて幼稚園に引き返す。彼が幼稚園の門を潜るのは二回目になる。あるいは三十八回目である。個がない。思ったのである。置物には個がない。ダッシュは不完全な企望が潰えたことを知った。知識は絶えず備蓄される。余分なまでに。必要がなくとも。知識であるがゆえ智識に節制はない。
知る。より多くを。幼稚園の影の主である"商人"は美徳だと教えた。知識は惨いものだ。思ったのである。時として知識は無駄さえも知る。節制はない。検閲もない。知識は備蓄される。意志とは無関係であった。
「きみは知ることができる。良いことだと思わないかい?」
"商人"は手製のサングラスを押さえた。場所が場所ならば少年向けコミックのマフィアが付けるものと相似するがダッシュに少年向けコミックの知識はない。"商人"を特徴付けているのはサングラスとマスクであった。季節はずれの花粉症だと"商人"は語る。語る。語る。くどく語る。マスクについての話はタブーだ。再びダッシュは知る。
しかし"商人"の言い方はまるでダッシュ以外の知性を期待しないものだった。ダッシュは正確に知識を備蓄している。チャオではないのは彼らではない。彼らは一定の行動をリピートするマネキン・マスコット。あるいはインテリア。彼らこそチャオ。意志はなく知識はない彼らこそチャオ。ではダッシュ。チャオではない。チャオとは異なる。ニアリー・イコールもしくはノット・イコール。
意志。言葉。知識。個。ダッシュは"商人"はチャオではなかった。ダッシュは"商人"から知識を得た。自身はチャオではない。チャオの形をしているものだ。知識としての認識。認識としての知識。実感の伴わない。
「もしかすると我々のあずかり知らぬところでチャオは言葉を会得できるかもしれない。だがイレギュラーだ。本物のチャオは喋らないし動かない。きみは違う。とても幸運だと思うが」
あるいは不幸。"商人"は言葉の裏に言葉を隠す。"商人"との会話はダッシュにとって多くのものをもたらした。アポファシスを読み取る能力。ところで本物のチャオに性能はあっても能力はない。
不必要なものは我々が知らぬところ。"商人"は語る。必要は知る。図らずして知る。運命という言葉が用いられる。ダッシュは"商人"の言葉を知識した。ダッシュの言葉とは"商人"の言葉とイコールである。生まれたときからである。
「さて。して今日の用事はなにかな。まさか愚痴のみということもあるまい」
ダッシュは目を泳がせた。かと思えば明日のスケジュールを確認し始めたのである。ダッシュにとって"商人"は保護者であった。言葉の通じるもの。イコール。黒のサングラスは頼もしいものとして映っていた。
一方"商人"は彼の意を知ってなお素知らぬ素振りをつづける。奇妙な関係があった。互いに知っていながらしかし知らないとして接する。"商人"が目論んだことだった。そしてダッシュは彼の手の平の上で踊らされていたのだ。ところが彼は露ほども知らない。彼にとっては"商人"が全てであった。
「今日も呼びかけをした。だが無駄だった。彼らは言葉を知らないんだ」
「きみも懲りない。彼らはオブジェクトだ。彼らに会話の機能なんて搭載されていないんだよ」
あまりに無惨な表現。しかし的確。オブジェクトとは彼らを象徴する一言である。彼らは答えず無言で笑う。言葉失く笑う。ダッシュは地団駄を踏む。眉間に皺を寄せる。時が経てば収まる一過性の不快感。ダッシュは知っている。不快感は本能。チャオと我々チャオではないものは共存できない。生存本能だと語る" 商人"。あるいは闘争本能。他者を排する衝動。ダッシュはない。恐らく少ない。限りなく。
ダッシュは他の自分たちを目にしたことはなかった。彼の世界には"商人"と自分そしてオブジェクト。思っていたのである。信じ込んでいたのだ。他の自分たちはいない。あるいはいなくなった。知ってはいなかった。
会話が止まる。機能は搭載されていた。ダッシュは夢の話をする。小さな花に飾られた草の話。草は花に自身の存在意義を占領されていた。そして草は花になった。"商人"は笑った。
「草じゃない。花だよ。草はおまけさ」
ダッシュは気分を損ねた。整合性が取れていない。草に飾りが付いているのだ。もっと詳細に夢の話をする。草は伸びる方向を見失い地を向いたが犠牲になったのは花だった。草は花を散らして残ったのである。"商人"は笑った。
「枯れたんだよ」
ダッシュはついに幼稚園を離れた。"商人"はメトロノームのような笑い方をして黒い棚に入り込み姿を隠す。彼が外に姿を見せるのは珍しいことである。通常営業の彼は黒い棚の中なのだ。ダッシュは知らない。"商人"は教えない。知るものはいない。知ることもない。
幼稚園とチャオ・ロビーを繋ぐ道には幼稚園の舞台演劇で使った紙の花が一面に貼り付けてある。ダッシュは見た。草に花が付いている。思ったのである。主役は花ではなく草。あくまで花は飾りだ。あるいはアクセント。
チャオ・ロビーは明るい。彼にとっては広く圧倒される空間であった。コウショキョウフショウならば卒倒する。"商人"の教えである。ダッシュはチャオ・ロビーが好きであった。適度に明るく適度に暗い。すごしやすい気温。ダッシュはチャオ・ロビーの"にじいろの階段"の裏側に寝そべった。
"商人"はダッシュの同類が最初に直面する問題として生きる意味という葛藤をくどく語っていた。ダッシュは虚空を見る。生きる意味を考える。しかしない。問題ではなかった。意味というものを考える。意味とは。意味とは。意味とは。"商人"は教えなかった。
チャオではない種。チャオとニアリー・イコールあるいはノット・イコールで示されるものの生きる意味。ダッシュは直面していない。直面したくない。不毛な問題である。思ったのである。煩わしさを感じる。
むやみやたら考える。唯一の欲であった。食べずとも生きる。眠らずとも生きる。しかし考える。意味があるならば考えることだ。思ったのである。
ダッシュは飛び起きる。"にじいろの階段"を登る。まだチャンスはあった。彼らはダッシュは同じものである。証明したいという欲。自身を薄気味の悪いものとしておくに拒否感があった。自身はチャオである。思いたかったのである。門を潜った。
七つのチャオはいない。天空を浮くチャオの園は七つの水溜りで彩られていた。ダッシュはまばたきを忘れている。足の動かし方を手の動かし方を頭の動かし方を忘れ停止する。七つのチャオの残骸。水溜りとなったチャオ。七つはすぐにチャオだと分かった。ポヨの存在である。水溜りの中にポヨが落ちている。そして八つ目。黒い毛糸のマスクを被ったチャオである。体は水色。チャオは水溜りの傍に悠然と立つ。無感情的であった。
黒い毛糸のマスクを被ったチャオはダッシュを視認した。身の危機を感じたのはダッシュがチャオではなかったからだ。黒い毛糸のマスクを被ったチャオは片足ずつ進ませる。一歩また一歩。カウントダウンであった。ダッシュは身を守る手段を知らない。逃げるという行為を知らない。身の危機を感じている。
「きみは誰だい。きみがチャオを水溜りにしたのかい」
言葉は通じない。黒い毛糸のマスクのチャオはチャオではない。チャオの行動ではない。では通じている。しかし答えない。答えたくない。ダッシュは水溜りになることを予感する。生きるから死するへ。移り変わる。しかし黒い毛糸のマスクを被ったチャオのカウントダウンは止まった。朱色が吹き出る。物体によって内側に留まっていたものが外部へ逃げ出す。風船を割ったような印象。黒い毛糸のマスクを被ったチャオは停止する。
赤いタマゴの殻を被った黒いチャオは二つの短剣を持っている。十字架の形をした銀色の短剣。同じものを二つ。吹き出た朱色が短剣にこびり付いている。赤いタマゴの殻を被った黒いチャオは二つの短剣をポヨの内側に収める。物理現象を超越した出来事であったがダッシュは知らない。赤いタマゴの殻を被った黒いチャオは笑った。
「大丈夫か? 怪我ないか?」
「うん。ないよ」
赤いタマゴの殻を被った黒いチャオはダッシュをまじまじと見た。不自然であった。ダッシュは特徴のないニュートラル・ノーマルタイプのチャオである。しかし彼はダッシュを見る。見て確認する。
「おまえには生存本能がないのか?」
ダッシュは生存本能を知っていた。"商人"から聞かされていた。
「あるよ」
「なんでおれを殺さない」
「なんで殺すの」
「生存本能は他のチャオを殺したくなるものだよ。知らないのか?」
「うん。知らなかった」
ダッシュは知っていた生存本能とは違う種類の生存本能を知ったのだった。赤いタマゴの殻を被った黒いチャオは一瞬だけ笑顔になったがすぐ神妙な面持ちになる。冷静さを取り戻したのだ。油断を自身から消去しているのだった。
ダッシュにとって"商人"以外のチャオではないものと話すのは初めてである。彼の仕草のひとつひとつを食い入るように見ていた。知ろうとしているのである。ダッシュにとって彼は都合の良い観察対象であった。
「さっきのは誰なんだい」
「"案山子"だよ。自分以外のチャオがいなくなれば自分たちが本物のチャオだとか言ってる外道の集団だ」
彼の声色には悪意が満ち満ちていた。ダッシュは自身の知識に新たな項目を追加する。黒い毛糸のマスクを被ったチャオは"案山子"である。集団の名前であった。個体の名前ではない。すると彼らは本物のチャオではない。確認作業。
「おれ、オバ。おまえの名前は?」
「ぼくはダッシュ」
オバは笑った。オバはしばらく考えた。オバはダッシュに近寄った。オバは右手を差し出した。しかしダッシュには理解できない。オバが気づく。自身の右手と左手を突き合わせる。
「握手だ。手を合わせるんだよ。仲良しの証ってわけ」
ダッシュは右手を差し出した。オバとダッシュは握手を交わす。堅い握手であった。交わした手を離した。同時にチャオの園は異変を起こし始める。木の実が消えた。泉が消えた。そして空が消えたのである。
ダッシュは異変に対応できずにいた。オバはダッシュの手をとって走った。入り口は既に消えかかっていた。辛うじて隙間に入り込む。二つの姿が消えた。入り口も消える。チャオの園は消滅したのだった。
誰かの笑い声が響いた。