第七話 ページ3
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二月十四日(日)
「おはよう、カトレア」
「……ん……」
僕の挨拶に、一応は返事をしてくれたカトレア。しかし、放って置けばすぐにまた寝てしてしまいそうである。
立ち上がり、掛け布団を取り払う。同じ布団で寝ているから、当然カトレアの身体にかかっている布団も取り払われる事になる。
寒さから身を守ってくれていたものが無くなり、ぷるぷる震えて布団の上で身を縮こまらせるカトレア。
気持ちはわかるけど、僕は心を鬼にしなければならない。
「ほら、布団畳むから起きて」
僕は敷布団の端を掴むと、ぐい、と持ち上げる。敷布団の上に乗っていたカトレアの身体もある程度持ち上げられた後、斜面に放たれたボールのように、ころころと転がって布団の範囲外に放り出された。
その様子もさることながら、ここまでされてもなお起き上がる様子のないカトレアを見て、僕は笑みを漏らさずにはいられなかった。
「朝だよー、起きてー」
布団を畳みながら呼びかける。しつこく声を出していると、ようやくのそのそと起き上がった。
「おはよう、カトレア」
「……おはよう……」
改めての挨拶に、カトレアは眠い目を擦りながら返事をしてくれた。放って置けばすぐにまた寝てしまいそうな様子は変わらない。
それもそうだろう。一緒の布団で寝ているからわかるのだけれど、カトレアは昨晩、なかなか寝付けなかったようだ。
夜中に何度も、寝ては起き上がり、寝ては起き上がりを繰り返していた。カトレアの寝息が聞こえてきたのは、消灯してから随分時間が経ってからだったと思う。
だから、僕もちょっぴり、寝不足気味だ。
「昨日は、あんまり眠れなかったの?」
布団を畳み終えると同時に、そう尋ねた。
するとカトレアは、こう言った。
「ん……緊張、したから」
「緊張?」
カトレアの呟いた言葉の意味を図りかねて、僕は聞き返した。すると。
「いや、なんでもない!」
今の今まで寝惚け眼だったのが嘘のように、カトレアは突然、声を荒げた。
そして慌てて駆け出していき、数秒後には僕の前から居なくなってしまった。一階に降りて行ったようだ。
起床直後のカトレアがあんなにてきぱき動くなんて珍しいな。一体、どうしたのだろう。
そんな事を思いながら、僕は着替えるために、薄緑色のパジャマの首元についているボタンに手をかけた。
「もう開けていいの?」
「ん」
着替えや洗顔など、朝の身支度を済ませて一階へ降りた僕は冷蔵庫の前に立ち、すでに朝食の用意された食卓に着いているカトレアに確認した。
もう、僕が冷蔵庫を開けてもいいのか、という確認だ。
カトレアからの許可が下りたので、僕は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出し、喉を潤す。
その際、冷蔵庫の中をほんの少し詮索するように見回した僕を、どうか責めないでほしい。昨日交わした約束の意味を知りたい、という欲求に勝てなかったのだ。
勿論、冷蔵庫の中には変わった物など入っておらず、だからこそカトレアは僕に冷蔵庫の開扉許可を下したのだろうけれど。
喉を潤すのに使用したコップを片付けて、一足遅れて食卓に着く。カトレアの、隣の席に。
その際、カトレアが何かを自分の身体の陰に隠したような気がしたのだけれど、気のせいだろうか。
朝食を食べ終わった僕とカトレアは、一緒にテレビを見ている。
流れているのは、カトレアが毎週欠かさず見ている、女の子向けのテレビアニメ。主人公の女の子が正義の味方に変身し、敵と戦ったり、恋をしたりするといった内容だ。
一緒に見ているといっても、僕はソファに寝転がって漫画を読んでいるから、あまり真剣に見ていない。音だけ聞いているような状態だ。
アニメを見始めてから、二十分弱ほど経っただろうか。アニメのストーリーが終盤に差し掛かった頃に、ふと視線を漫画からテレビに移すと、主人公の女の子が好きな男の子にチョコレートを渡しているシーンが目に入ってきた。
それを見て、そういえば今日はバレンタインデーだったということを思い出す。アニメのストーリーもそれに合わせて、バレンタインをテーマにしたお話だったのだろう、よく覚えていないけど。
昨日あずき君に『早苗から毎年貰ってる』と話したけれど……多分今年はもらえないだろうな。
今までは登下校中や学校で会った際にに小さなチョコを渡してくれていたけれど、今年のバレンタイン、つまり今日は、日曜日。学校はない。
つまり、早苗と会う機会がないのである。もちろん昨日のように休日に早苗と会う可能性は零ではないけれど、少なくとも今はそんな予定はない。
まさか、早苗もわざわざチョコレートを渡しに来たりはしないだろうし。
僕がそう決め付けるのは、僕の中で『早苗にとって僕にチョコレートを渡すことはそれほど重要ではない』という認識があるからだ。
明日、学校であった際に『昨日はワカちゃんと会わなかったから渡さなかったよ』と笑顔で言う早苗の顔が目に浮かぶ。いや、むしろ、そんな一言もないだろうな。
だから、今年はきっと貰えない。それでいいはずなのだけれど。
——ちょっぴり寂しい、と感じるのは何故だろう。
そう思った途端、頭の中で『別に寂しくない』とか『チョコレートなんて欲しくない』などという文章が瞬時に構築される辺り、僕もカトレアのことをとやかく言えないなぁ、と自嘲する。
まったく、二人揃って、素直じゃない。
ペットは飼い主に似ると言うけれど、チャオも育て主に似たりするのかな。
「……逆バレンタイン、か」
誰にも聞こえないような小声で、昨日あずき君に教えてもらったばかりのフレーズを呟く。
貰えないなら、いっそ贈ってしまえ、という事なのだろうか。確かに、伝えたい気持ちがあるのは女の子だけではないだろうから、男の子がチョコレートを贈ると同時に気持ちを伝えたって別にいいではないか、という気もする。
もっとも、僕は別に、誰かに伝えたい気持ちがあるわけではないけれど。
ただ早苗には、義理とはいえ毎年チョコを貰っている。
たまには、お返しした方がいいのかな。そういえば、昨日買って来たチョコレートがまだ——。
「わ、ワカバ!」
急に名前を呼ばれた僕は、夢から現実に無理矢理引っ張り込まれたような感覚に陥った。
寝転がっていた身体を起こして、声の発信源を見つける。無論、カトレアだ。
いつの間にかさっきのアニメは終わり、つけっぱなしのテレビは、今は後続の特撮ヒーローものの番組を流していた。
手に持っている漫画を閉じて、カトレアの言葉に耳を傾ける。
「なに?」
「えっと、うんと」
さっきまで座っていたソファから降りて、絨毯の上から僕を見上げるカトレア。
両手を背中に回して、もじもじしながら、何かを言いたそうに視線を送ってくる。
口をもごもごさせて、小刻みに身体を揺らして……。喉まで出掛かっているのに、最後の一息が足りずに言葉が出て来ない。そんな様子だ。
僕は黙って、カトレアの次の言葉を待った。
「えっと、うんと、ち、ち」
「ち?」
「ちょ、ちょ」
「ちょ?」
頑張れ、もう一息だ。
「ちょ、ちょ……チョンチンアンコウに食われて死ねー!」
そう叫ぶと、脱兎の如き勢いで駆け出し、あっという間に見えなくなった。
叫んだ言葉の意味も、何が言いたかったのかもわからないけれど、言わんとしていたことを言えなかったのだろうなあ、ということは想像に難くない。
——本当に、素直じゃない。
昼食を食べ終わり、二階の自室で宿題をこなしている時だった。
「わ、ワカバ!」
背中から、カトレアの声が聞こえた。
椅子を百八十度回転させ、声の主の姿を確認する。
先程と同じように、両手を後ろに回し、もじもじしながら、物凄く何かを言いたそうに僕を見つめるカトレア。
カトレアにとっては、リベンジの舞台といっていいだろう。カトレアが何を言いたいのかはわからないけれど、しっかりと受け止めてあげよう。
そう思い、カトレアの言葉を聞き漏らさぬよう、神経を尖らせる。カトレアの緊張が、僕にも伝わってくるようだ。
「えっと、うんと、ち、ち」
「ち?」
「ちょ、ちょ」
「ちょ?」
頑張れ、もう一息だ。
「ちょ、ちょ……」
「カトレアさん! 僕とチョコレートの渡し合いをしましょう!」
突然鳴り響いた、僕のものでもカトレアのものでもない声。この声は。
「あずき君、いつの間に」
「ワカバ殿、こんにちわ」
あずき君だった。
一体いつの間にやってきたのか。気配を一切感じさせない忍者のような登場の仕方だ。
そういえば昨日、あずき君とバレンタインの話をしたな。確か、僕が『お互いにチョコレートの渡し合いでもしたらどうか』と提案したんだ。
どうやら、実行に移しにきたみたいだ。早苗は、一緒ではないみたい。
「何でお前がいるんだ!」
背後を取られて不覚、というわけではないだろうけれど、カトレアはいつの間にか後ろに立っていたあずき君に対し怒鳴り散らした。
「カトレアさんがいらっしゃる場所なら、例え火の中水の中エトセトラ。何処へだって馳せ参じてみせます。さあ、カトレアさん。ハッピーバレンタイン」
そう言って、手に持った何かをカトレアへ向けて差し出すあずき君。
あずき君と同じような色をした、手のひらほどの大きさの箱だった。赤いリボンがあしらってある。
今のセリフから察するに、あずき君が用意した、カトレアに対するバレンタインチョコなのだろう。
「いるか!」
ばっさりと拒絶したカトレア。しかし、あずき君は全くひるむ様子はない。
「照れなくてもよろしいですよ、カトレアさん。その手に持っているもの、僕にはわかっています」
ぷんぷんと両手を振り回して怒っていたカトレアだが、あずき君の言葉を聞いた途端、ピタリとその動きを止めた。
僕も今気がついたのだが、確かにカトレアは右手に何か持っていた。ピンク色をした、これまた手のひらほどの大きさの箱だった。
あずき君が持ってきた箱と同じように赤いリボンが巻かれていて、可愛らしく装飾されていた。確かに誰かへのプレゼントのように見える。
「僕のために用意してくれたんですよね。うれしいです」
「違う! これは……」
そう言って僕の方を見るカトレア。僕もカトレアを見ていたから、自然と目が合う。
「ぁ……ぅ……」
壊れかけのオルゴールみたいに、小さな声を途切れ途切れに漏らすカトレア。
しばらくの間、固まってピクリとも動かなかったカトレアだったが。
「ワカバのバカ! バカワカバ!」
そう叫ぶと朝と同じように、脱兎の如き勢いで僕の部屋から飛び出して行ってしまった。
「あっ、待ってカトレアさん! 徒競走ですか、負けませんよ!」
カトレアに負けない勢いで、あずき君もその後を追うのだった。
あっという間に一人になった僕は、すぐにカトレアの後を追おうと思ったのだけれど。
「……宿題、まだ終わってないんだよね」
心の中でカトレアに謝りつつ、椅子を再び百八十度回転。宿題との格闘を再開した。
あずき君も一緒だし、大丈夫だろう、多分。それにしても——。
——あれは、誰に対するプレゼントなんだろう。
僕が宿題を終えて一階のリビングに下りてきたのと同時に、カトレアが帰ってきた。どうやら、家の外にまで飛び出して行ったらしい。
あずき君の姿が見えないのでどうしたのか尋ねたところ、早苗の家に帰っていったという。
そして、僕が見たときはあずき君が持っていた箱をカトレアが左手に持っていたので、それはどうしたのかと尋ねると。
「『受け取るまで帰らない』って言うから、受け取るだけ受け取ってきた」
そう言って、ぽい、とソファの上に放り投げた。
残念ながら、僕があずき君に提案した『チョコレートの渡し合い』とはならなかったようだ。
逆バレンタイン、という形になるのだろうか。あずき君は、男の子っぽいし。
「わ、ワカバ!」
ソファに放り出された箱を拾いながらそんな事を考えていると、本日三度目のカトレアの挑戦が始まった。
両手を背中に回して、もじもじしながら、早く言って楽になりたいというような表情を僕に向けてくる。
「えっと、うんと、ち、ち」
「ち?」
「ちょ、ちょ」
「ちょ?」
頑張れ、もう一息だ。
「ちょ、ちょ……チョモランマで遭難して死ねー!」
そう叫んで、二階へ駆け上がっていくカトレアだった。
三度目の正直、とはならなかったようだ。
その後も、幾度と無くカトレアは僕に何かを言おうとするのだが、どうしても上手くいかない。
あとほんの一息、とうところでつまづいてしまう。
何を伝えたいのかわからないけれど、そんなに言いづらいことなのだろうか。
ここまで何度も何度も言いに来るのだから、絶対に伝えておきたい事には間違いないのだろうけれど。
言いたい事が言えず、言いたい事がわからず、お互いにもどかしいと感じながら時間は進み——。
——僕とカトレアは、今日という日を終わらせようとしていた。
午後十時。パジャマに着替えて、歯を磨いて、布団を敷いた。
あとは、消灯して寝ればいい。
「カトレア?」
「……」
布団の中にすっぽりとくるまったカトレアに声をかける。返事はない。
僕が布団を敷いた途端、もぞもぞと布団に潜り込んでからずっと、だんまりである。
完全にふてくされてしまっている様に見える。
「電気消すよ、いい?」
「……」
ここで消灯すれば、後は寝るだけである。何か言いたい事があるのなら今言って欲しい、というメッセージだったのだけれど、カトレアからの返事は無かった。
仕方なく、電灯からぶら下がっている紐を引っ張り電気を消した。
真っ暗闇の中、カトレアを布団から追い出してしまわぬように、ゆっくり布団の中に入る。
何も見えない闇の中。何も見えない静寂の中。
真冬の寒さを感じながら、布団の中で身を縮こまらせて、僕は目を瞑り、意識はまどろみの中へ溶け込んでいく——。
——わけには、いかなかった。
「ひっく……ひっく……」
夢の世界へ溶けかかっていた僕の意識を現実の世界に繋ぎ止めたのは、懐から聞こえてきた嗚咽だった。
カトレアが、泣いている。
このまま今日を終わらせてしまったら、絶対に後悔する。そう信じて疑わない。
僕は立ち上がり、電気をつけた。突然明るくなったせいで、少し目が眩む。
目が慣れるのを待ってから、布団から這い出て、正座をし、カトレアに呼びかける。
「カトレア。起きてるよね」
「……」
返事はない。けれど、絶対に起きている。泣いていたのだから。
「カトレア。僕に、何か言いたい事があったんだよね。今、話してくれないかな」
「……」
返事はない。カトレアは僕に背を向けて、布団にくるまったままだ。
そのままお互い何も言わず、時間だけが過ぎていく。
ほんの数分であっただろうが、僕にとっては息苦しい時間であり、カトレアにとってもそうであろうと思う。
静寂が支配する中、重苦しい空気を跳ね除けるように、僕は言った。
「話してくれるまで、ずっと待ってるから」
「……」
返事はない。でも、僕は待ち続ける。
カトレアが話してくれるまで、ずっと待ち続ける。夜が明けるまでだって、ずっと。
「……ワカバ……」
のそのそと、カトレアにとっては大きな掛け布団を跳ね除け、僕のほうへ体を向けるカトレア。
その表情はいつもの強気な表情ではなく、弱々しく、すっかり意気消沈してしまっているようだった。
こんなカトレアは、僕の知っているカトレアではない。はやく、元気を取り戻してもらわないと。
「何でも聞くからさ、何でも話して。ね」
「……ん」
カトレアは、後ろから何かを取り出した。
昼間に見かけた、ピンクの可愛らしい箱だった。布団の中で、大事に抱えていたらしい。
「わ、ワカバ!」
さっきまでの弱々しい表情ではなく、いつもの凛々しい表情で僕の名前を叫んだ。
両手でしっかりと箱を握り締め、もじもじしながら、カトレアは言葉を絞り出す。
「えっと、うんと、ち、ち」
「ち?」
「ちょ、ちょ」
「ちょ?」
頑張れ、もう一息だ。
「ちょ、ちょ……チョコレート作った! 食え!」
引っくり返って上ずった声で、カトレアは確かにそう言った。
ずい、と両手でピンクの箱を差し出してくるカトレア。
それを両手で受け取りながら、混乱する頭で確認する。
「チョコレートって、僕に?」
「ん!」
ぎゅっと目を瞑って、一回だけ激しく首を縦に振ったカトレア。
僕の顔など見ていられない、といった感じで、思いっきり視線を布団に落としている。
その頬にうっすらと赤みが差しているように見える——。
——そうか、カトレアは、僕にバレンタインチョコを渡そうとしてくれていたんだ。
「開けるね」
一応、断りを入れてから開封作業に入る。
リボンを外し、包装紙をなるべく破かないように取り外し、中の白い箱を開ける。
中に入っていたチョコレートを見て、僕は、それはもう驚いた。
ハート型のチョコレートの上に、生クリームで書かれた白い文字が躍る。
これは、手作りチョコレートというものではないだろうか。
「これ、カトレアが作ったの?」
驚きのあまり、僕の声も引っくり返っていたと思う。
「ん……。サナエと一緒に作った」
なるほど、早苗が手伝っていたのか。
と、いうことは、昨日早苗がカトレアを連れ出したのは、このチョコレートを僕に内緒で作るためだったのか。
そしてこのチョコレートを冷蔵庫に隠していたから、カトレアは昨日僕に、冷蔵庫を開けてほしくなかったんだ。
全てに合点がいくと、どっと力が抜けた気がした。同時に、すごくほっとした。
カトレアはというと、さっきから俯いたまま、ちらりちらりと僕の顔色を伺っている。カトレアがこんなに頑張ってくれたのだ、早く何か言ってあげないと。
嬉しすぎてパンク気味の頭を無理矢理動かし、かけるべき言葉を考える。
とにかく、カトレアの気持ちには応えておこう。
「僕もカトレアのこと、大好きだよ」
照れくさかったけれど、ほんのちょっぴりの勇気を絞って、僕の気持ちを伝えた——。
——しかし、カトレアのリアクションは、僕が想像したものとは少し違った。
「は、は、は、恥ずかしいこと言うなー!」
僕の言葉を聞いた途端、目を真ん丸くして、ぴーぴーと騒ぎ立てるカトレア。
とことこと僕の元へ駆け寄り、僕のお腹をぽこぽこ叩く。何にでもいいから感情をぶつけていたい、といった感じだ。
「え、でも。カトレアが書いてくれたんじゃない」
僕はチョコレートの入った箱を、中のチョコレートが見えるようにカトレアに見せた。
——チョコレートの上のほうに『ワカバへ』の文字。そして、その下に『大好き』の文字が書かれていることを、思い出せるために。
それを見たカトレアは、ぎょっ、とした表情を見せてから、
「知らない! 私じゃない!」
首を横にぷんぷん振りながら、そう言った。
「そうなの?」
カトレアは『書いたのは自分ではない』という主張を頑として崩さないみたいだけれど。
多分、照れ隠しなんじゃないのかな。
カトレアは、素直じゃないから。
「わかった! きっとサナエが勝手に……むぎゅ」
カトレアが何か言おうとしたけれど、構わず抱き寄せた。
「ありがとう。すごく嬉しい」
「……ん」
僕の胸の中で、カトレアは小さく呟いた。
「そうだ、ちょっと待ってて」
「どこいくの?」
「すぐ戻るから」
はやる気持ちを抑えてチョコレートの入った箱をひとまず手放し、僕は部屋を出た。
家族はみんな寝てしまっているから、当然僕の部屋以外の電気は全て消えている。転げ落ちてしまわないように細心の注意を払いながら、ゆっくり階段を下りていく。
一階に辿り着いたら、目指すは台所だ。暗闇の中、何とか辿り着き、流し台の上に設置されている電灯を点ける。
あんまり待たせるのも悪いから、さっさと作ってしまおう。
暗闇の中、一本の電灯を頼りに、僕は早速作業に取り掛かった。
「おまたせ」
「ん」
暗闇の中、階段を上がっていくのはなかなか大変だった。
——それも、両手がココアで塞がっていたら、なおさら。
「はい、どうぞ。僕からのバレンタインチョコレート」
白い湯気を立ち上らせた、ホットココアの入ったカップをカトレアに差し出す。
それだけなら、きっとカトレアは素直に受け取ったと思う。
しかし、その直前に僕が言った『バレンタインチョコレート』のフレーズが気になるのだろう。
カトレアは警戒し、カップをじろじろ見つめてから、こう言った。
「……ただのココアじゃん」
「まあまあ、一口飲んでみてよ」
怪訝な表情を見せつつも、僕に促されるまま、差し出されたカップを両手に持ち、傾ける。
一口目を飲み終えて、しばらくした後。
「……甘い……」
少し驚いた様子で、呟いた。
予想通りの感想を得られて、僕は自然と顔がほころぶ。
暗闇の中、階段という難所を乗り越え苦労して持ってきたこのココアには、昨日あずき君との買い物の際に買ってきた、ミルクチョコレートを溶かしてあるのだ。
カトレアが作ってくれた、手作りチョコレートにはかなわないかもしれないけれど。
これが僕の、カトレアに対する、ささやかなバレンタインチョコレートだ。
「チョコレート混ぜてみたんだ。どう、おいしい?」
「……ん」
ちびちびと、少しずつココアを流し込むカトレアのポヨが、カトレアが作ってくれたチョコレートと同じ形になっている。それが、答えだった。
箱を手に取り、中からチョコレートを取り出す。その出来映えを、改めて見てみる。
カトレアが、僕のために作ってくれたチョコレート。
「いただきます」
寝る前に甘いものを食べるのは、よくないことだとはわかっているけれど——。
——今日だけは、許して欲しい。